第6話 ありふれた逃亡者

「ん、うぇ………」

 波蝶は自分のうめき声と同時に覚醒した。ぼんやりと視界に広がる天井の木目を眺めること数十秒、内臓がひっくり返りそうな気持ち悪さに気付いて口を押えてからえずく。

「おぇ、うー………気持ち悪い………」

「起きたか?気分は………その様子だとあんまり良くなさそうか」

「え、あー、ん………誰………?」

「フィアだ」

「は?」

「熱高いからな、寝ててくれ」

 正体不明の気持ち悪さから逃れようと身を縮める波蝶。清潔なシーツが体にまとわりついてひんやりと気持ちいい。足音が近付いて、冷えた手が波蝶の額にのせられた。それが気持ちよくて息をついて体に入った力を抜いた。

「まだよく分からないかもしれないけど、足撃たれてた」

「うそぉ?」

「ほんと。ごめん、気を付けてなかったから」

「あー、うーん………フィアのせいじゃない………」

 話しかけられている内に今がどういう状況か思い出してきた。確か波蝶は、フィアの魔法による空の旅の最中に意識が落ちたのである。だから意識不明の間に運び込まれたこの綺麗な場所がどこなのかは全く見当がつかない。

「ここ、どこ?看守は………っていうか、フィアは無事なのか?」

「俺は無事。あとここは国の備品庫だ、しばらくは人も来ない」

 牢獄は町と呼ばれる場所から離れた場所に作られていたので、空を飛んだフィアは気絶した波蝶を抱えて途方に暮れた。空の上でぴたりと停止して途方に暮れるという、波蝶の意識がきちんとあれば嫌がりそうな姿勢で長考したのである。本来であれば町に行って波蝶の手当をしたいのだけれど、周囲には建物なんて一つもない。悩みながら距離をとり、見つけたのが戦争の拠点に使われて今は忘れ去られた備品倉庫だったのでそこに降り立ったのだ。

「誰もいなかった、まぁ誰か来ても倒す。安心して休んでくれ」

「倒すって、物騒な」

「殺さないと殺されるだろ」

「う、ぇ?」

 熱にうなされながら、こちらを見下ろすフィアの顔を見つめた。心配そうな表情に嘘偽りはないけど、口から零れた物騒な言葉にも嘘はない。誰かがこの小屋に入ってこれば、フィアは本気でその「誰か」を殺してしまう。殺人が当たり前の世界にいない波蝶は、だから人の当然の倫理としてマットレスの端に座ったフィアの服の裾を引いて咎めることにした。

「人、殺すのは、良くない」

「………足、見せて」

 露骨に話をそらされた。痛みは感じないけれど、足首を掴まれてぐにぐにとふくらはぎを揉まれる感触に顔をしかめる波蝶。嫌な感触だったので当然のように意思表示をする。

「フィア、それ嫌。離して」

「魔法銃が命中したから、ちゃんと魔力流しとかないと歩けなくなるんだ」

「んんん」

「いたっ、ちょ、暴れるなって」

 手から逃れようと自由な方の足でがしがしとフィアの太もものあたりを蹴る。口では痛いと呟いたものの、フィアにとっては大した抵抗でもないため足が解放されることはなかった。それがまた癪に障るので今度は両手を広げてばしばしとシーツを叩く。

「いや波蝶元気だな」

「元気じゃない。頭ぼーっとするし気持ち悪い」

「………波蝶は魔法使いじゃないんだよな?」

「うん」

「だからこんなに弱いのか」

「馬鹿にすんな」

「痛、馬鹿にしたわけじゃなくて傷の治りが遅いから」

 撃たれたのはあくまでも拘束を目的にした魔法銃だった。魔力を相手の体にぶつけて不調を起こさせる。軽い魔法なのだ。それでも波蝶は高熱を出したし、片足はフィアが魔力を流してあげないと自力で回復する様子はなかった。

「魔法も使えないのにどうやってあの牢獄に侵入したんだ?」

「知らない。気付いたらいたんだから私に聞くな」

「え、えええ」

 抵抗を諦め、すん、と天井を見つめて動かなくなった波蝶に困惑の声を上げるフィア。本人は抗議したつもりだったけれど、弱気な姿勢すぎて波蝶は何の反応も返さなかった。フィアとしてはこの見たことも触れたこともない弱い生命体の特徴を今後のためにしっかり説明してほしかったのだけれど、今は高熱を出している少女にまともな説明を求めるのも難しい気がして結局何も追及しなかった。

「………またちゃんと教えてくれよ?」

 勝手に約束を取り付けて、答えがないものはしょうがないので自分の魔力を負傷した片足に流してやる。出力を間違えるとうっかり歩けなくしてしまいそうなので、額に汗を浮かべて緊張しながらの作業になった。人の体に自分のエネルギーを直で流し込むなんて、実のところやる人間の方が少ないのである。

「たぶん大丈夫だと思うんだけど、足動かせるか?」

「………?これ、動いてる?」

 ふくらはぎを掴まれたまま、足首がぱたぱたと動く。まだ感覚はないようだが、動くのならば最悪の状況は避けられそうだと肩の力を抜いた。

「動いてる。よし、上手くいったな。他に痛いところは?」

「片目が見えない」

「そこは負傷してないだろ!なんでだ!?」

「ふは、はは」

 目に見えて狼狽するフィアの姿を見て笑う。いらずらが成功した子供みたいな笑い方だったから、明確にからかわれた本人も怒ることができず気の抜けた炭酸を飲んだ顔になるしかない。

「あは、あはは、目が見えないのは本当だけど、こっちに来る前の話だから大丈夫。変なキラキラ光る石のせいなんだよ。まぁ、それでここに来れたからよかったけど」

 片目が見えなくなって脱獄に協力して片足を撃たれた上に高熱を出した人間の発言とは思えない。波蝶は今目の前のことが楽しければ声を上げて笑う少女だったので、これが通常通りではあるのだけれど、フィアからすれば不思議な反応でしかない。

「………波蝶はどこから来たんだ?」

「言っても信じてくれるかわかんないけど、魔法のない世界」

「魔法がないならどうやって生活してるんだ?」

「んー、科学の力ってやつ」

「カガク?」

「あー、説明が難しいなあ」

 首を傾げるフィアにうまく説明できる気がしなかったので、波蝶はそこで話を切り上げた。もう少しだけ理科の授業を真面目に聞いていれば、それらしい説明ができたかもしれない。異世界の人に分かりやすく科学を説明する方法を学校で教えてくれればよかったのに、なんて思った。

「私のことは、まあいいんだけど、フィアの話も聞かせてよ」

「俺?」

「うん」

 鉄格子を爆破したり空を飛んだり、波蝶にとっては理解不能なことばかり起こす少年だ。目の色や髪の色以外は普通の少年のようなのに、起こす現象は普通の人間から遠く離れている。そして何より気になるのは。

「なんで、あんなところに」

 ぱちり、と。重たいまばたきを一つする。伸ばされたフィアの手が波蝶の額の上に載せられて、その手がやっぱり冷たいからほてった体の力が抜ける。

「とりあえず、休もう。その話は波蝶が元気になったらちゃんとする」

「でも、」

「いいから」

 睡魔に負けそうになりながら抵抗のために伸ばした手が宙をさまよう。「波蝶、小さい子みたいだな」とフィアが含み笑いを零すから腹を立てて再び布団を叩いて抗議した。眠さのせいでさっきよりも威勢のない音がぼすんと鳴っただけだったけれど、不満な気持ちだけは伝わったと思う。

「フィア」

「ん?」

「人、殺しちゃだめだから………」

「そっかぁ」

 それだけ言い残して寝息を立てる波蝶に、フィアは何も言葉をかけることができなかった。肯定でも納得でもない言葉はぼんやりと小屋の中に浮いて誰にも拾われない。文字通り住む世界が違うことを理解して、けれどそれを波蝶になんて説明すればいいのか分からなかったのだ。

「………もうちょっと考える時間はあるか」

 彼は地下牢に閉じ込められるくらいの罪を犯してしまっていたけれど、性根は優しい少年だった。自分に手を差し出してくれた弱い女の子が傷つくようなことはしたくないと、当たり前のように考えて。

 ————それでも小屋の入口から目をそらすことはしなかった。

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