第5話 青空の脱獄者

「ま、魔法、って、今のそれ、魔法なのか?」

 ぺちゃんと床に座り込んだまま尋ねる波蝶に、たった今鉄格子を爆破して捻じ曲げた少年が一歩近付いて首を傾げる。暗闇の中からようやく姿が浮かび上がった。

「波蝶だって、ここまで魔法で来たんじゃないのか?どこの国の人か知らないけど………随分変わった服なんだな」

「あ、えっと、いや、私はたぶんこの世界の人じゃなくて………」

 目の前に立つ少年はぼろぼろの服を着ていた。牢屋から外に出てもなお、手足についた鈍く光る鎖が彼が囚人であることを主張している。出入口さえない鉄格子に閉じ込めて、脱出なんて不可能に思えるのにそれでも手足を縛りつけるあたり、この少年はよほど強い意思で閉じ込められていたようだ。実際彼は牢屋から出ることが簡単にできたのだから、その頑丈なセキュリティは無駄ではなかったのかもしれないけれど。

「無駄じゃないけど意味はなかったよなぁ」

「そもそも波蝶はどこから来たんだ?あの扉をすり抜けたみたいに見えたけど」

 じゃら、と重そうな音を立てて少年の片腕が持ち上がる。指先で指示したのは、ちょうど波蝶の背後にある扉だった。

「すり抜けてた………?いや、私は洞窟を歩いていただけなんだけど。そもそもあの扉開きそうにないし、どこに繋がってるんだ?」

「知らない。たまに看守が何か捨てに来るけど、なんなんだろうな」

「お前に分からないなら私にも分からないんだよ」

 言いかけて、ふと気付いて言葉に詰まる。目の前で煩わしそうに手枷と足枷を動かす少年だけれど、そういえば彼のことを何も知らないような。

「なぁ、名前。そういえば名前聞いてない、なんて言うんだ?」

「うん?俺?」

 くるりとしりもちをついたままの波蝶を見下ろして、しゃらしゃらと鎖を引きずりながら近付いてきた少年が手を差し出す。

「俺はフィアだ。よろしく波蝶」

 そう言って、ちょっと照れくさそうに笑った顔は全く普通の少年のようだった。

「………おおう」

 だから波蝶も、普通の友人にするように差し出された手を借りて立ち上がる。

「よろしくな、フィア」

 取り合った手の温度は当たり前に温かく、彼がありふれた人であることを波蝶に伝えたのだ。二人はそうして、爆破された地下牢でものどかに笑い合っていたのだけれど。

「——————うわ、危ない」

 不意にフィアが握ったままだった波蝶の手を強く引く。脱力していた波蝶は当然引っ張られて一歩前に出ることになった。

「ちょっ、フィア何するんだよっ………!?」

 不満を零しかけた口は背後で響いた音と熱で強制的に閉じられた。ぶわりと背筋に鳥肌が立つような感覚に恐る恐る振り返ると、そこには。

「ば、爆発………?」

「うん。脱獄したから防衛魔法が作動してるな」

 さっきまでなんの変哲もなかった、壁にかけられていただけの燭台が爆発した。炎は明確に波蝶の立っていた場所を狙っていたようで、そこだけ床の石が焦げているあたり、もし自分がここに立っていれば燃やされていたのは波蝶だ。それをしっかりと理解して、さあっと顔色がなくなる波蝶。

「や、やばすぎる!逃げるぞ早く!」

「そうだな。そうしないとまぁ、結構痛い目に遭うし」

「痛い目どころじゃなくて命の危機だろ!?」

 フィアはこの状況でも穏やかに笑っているものだから、波蝶だけが取り乱してがくがくと服の胸元を掴んで揺さぶる。無抵抗な薄い体はがくがくと勢いよく揺れた。

「に、逃げよう今すぐ!どっちに逃げればいいんだこれ!?」

「脱獄とかしたことないから分かんないけど、ここは最下層だから上を目指さないとまずいかも」

「よし行くぞ!」

 破壊された鉄格子と謎の扉に背を向けて、二人は勢いよく走りだす。後ろで何か音がしたけれど振り返らない。絶対に何か攻撃が行われていることは確かだったので、確認している場合ではなかったのだ。

「走れ走れ!っていうかフィア、それは走りづらいんじゃないか!?」

「それもそうだな、外すか」

 手枷と足枷を繋いでいた鎖が、フィアの一言でばきりと割れる。一体何をしたのかは分からないが、とりあえず両手両足は自由になったフィアが走りながらにこりと笑った。

「俺、意外とうまく魔法が使えるみたいだ」

「あぁそう!よかったな!それはそうとフィアは緊張感なさすぎじゃないか!?」

「そうか?ありがとう」

「褒めてないんだよなーっ!」

 目の前に階段が現れたので足をのせて駆け上がる。学校で花瓶を割ってしまった時に焦って逃げた時のことを思い出した。あの時はうららの足が遅すぎて、あっという間に先生に見つかってしまって大変だったのだけれど。

「ごほっ、階段が長すぎるっ………!」

「がんばれ波蝶、まだ全然走ってない」

「なんでフィアは顔色が変わらないんだ!?」

「俺は強いから」

「答えになってない!」

 気のせいかもしれないが、後ろから反響した足音が聞こえる気がしてどんどん気持ちが焦る。防衛魔法が働くのであれば、看守と呼ばれる役職があるのであれば、追いかけられるのも脱獄を阻まれるのも必然だ。

「波蝶、背負おうか?」

「な、なめるなよ、シャトルラン最後まで残ったことあるんだから………!」

「シャトルランって何?」

「ここから逃げたら教えるよ!」

 体感ではマンションの高層階くらいまで走り切った感覚だけれどまだ地上は見えない。ちぎった鎖がじゃらじゃらと石を叩く音と後ろから迫る大勢の足音。前を走るフィアが落ち着いた様子だからパニックにならずに済んでいるが、一人だったらきっと耐えきれない。

「あ、あと、ちょっと………!」

 階段を駆け上がり廊下を走り抜け、目の前に現れた扉をフィアの伸ばした手が弾き飛ばす。瞬間、暗い地下に慣れていた視界に明るい日差しが突き刺さった。

「外だ!」

 ————見上げた空は抜けるような青色だった。

 波蝶の数歩先を走っていたフィアが足を止めて空を見上げる。呆けたように立ち尽くした後ろ姿は頼りないほど細く、日差しに当たっていない手足は光を反射して白い。

「………あぁ、綺麗な空だなぁ」

 呟いた声は、なんだか泣きそうなものだった。だから波蝶は何も言えずに、上がった息をできるだけ整える。ああ、でも。彼にこの空を見せられただけで、危険を冒して走った意味はあったのだ。

「随分、見てなかったから」

「良かったな、綺麗に晴れっ………!?」

 言いかけた言葉が不意に詰まる。フィアの横に立とうと前に出した足が崩れて、地面に向かって倒れこむ波蝶の体。迫ってくる地面がスローモーションのように見えていて、何も反応することができない。

「波蝶!?」

「そっちじゃない、一号の方を狙え!」

「足を狙え、逃げられるな」

「殺すなよ、一斉に叩くぞ」

 咄嗟に名前を呼んだフィアの声をかき消すような大勢の声。振り返ればそこには、彼らを追いかけて地下を駆け上がってきた看守たちの姿があった。

「あ、痛………ちょっと、今のは痛かったぞ」

 地面に膝をついて、波蝶は誤魔化すようにへらりと笑った。どんな魔法を使われたのかも分からないけれど、右足にどうにも力が入らない。だから立つこともできずに、焦った表情でこちらを見下ろすフィアの顔を見上げる。

「あはは………ミスっちゃったな、私たち」

 二人は何も分かっていなかった。ここが牢獄で自分たちが脱獄者であるのならば、空を見上げる余裕なんてどこにもなかったのだ。地下牢から飛び出してもなお、二人の行く先を阻むように立つ高い塀を超えて、足を止めてはいけなかった。けれどフィアは空を見上げて足を止めてしまい、それゆえ波蝶は動けなくなった。

「絶体絶命ってやつじゃないのかこれ、ほら、えっと、フィアだけでも逃げようよ、私は別の世界から来てるから捕まってもこっそり帰れるかも………!?」

 とにかく次の攻撃が来る前にと早口で伝えようとした言葉は、不意にフィアが波蝶を抱き上げたことにより遮られた。二人の身長差はほとんどなかったので、フィアの体にもたれてなんとか立てている歪な姿勢になる。縮まった距離にある赤い瞳がすうっと細められた。そこにはもう、青空を見てはしゃいでいた少年の面影はなく、まるで値踏みするような冷静な瞳だった。

「絶体絶命なんかじゃない。大丈夫、波蝶を置いて逃げたりしない」

「………塀は?壊すのか?」

「そんなことしなくても逃げられる」

 じんじんと痛む足をできるだけ気にしないように、できるだけ冷静に言葉を紡ぐ。フィアはそれを聞いて、波蝶に向かってニコリと微笑んだ。感情を無理に押し込めた、触れれば破裂しそうな怖い笑顔だ。ひくり、と波蝶の表情も引きつる。

「な、何を考えて」

「—————飛ぶ」

「へ?」

 ごう、と。塀の内側にすさまじい勢いの風が吹き荒れる。フィアを中心に渦を巻いて、竜巻のような突風が看守たちをなぎ倒していく。そして。

「う、わ、わあああ!?」

 ふわり、と。フィアに支えられた体ごと、空中に浮きあがった。セーラー服の襟がばたばたと暴れて、ついでに髪も視界を遮るから波蝶は慌ててフィアの腕をしっかり掴んだ。

「やばい浮いてる!?嘘だろ、落ちたら死ぬ!」

「落とさないから安心しろ」

「本当か!?」

「………飛ぶのは初めてだけど、きっとなんとかなる」

「そういう怖いこと言うのやめてくれないか!?」

「大丈夫」

「わああああ!?」

 ひときわ風の勢いが強くなって、さっきまで見上げていた青空に近付いていく。自分たちが飛び出してきた牢獄は、ぐんぐん遠ざかって豆粒のような大きさになった。

「あははは!あんな奴らに俺を止められるわけがないだろ!」

 楽しそうに口を開けて笑ったフィアが、ダメ押しとばかりに速度を上げて上昇する。長時間空を飛ぶ魔法はよほど魔力に自信がある者にしか使えないものだ。魔法封じの牢獄で手枷をつけられてもなお、有り余るフィアの魔力が空中からの脱出を可能にした。彼は言葉通り、戦うための戦争兵器だったので。

「あー、とりあえずいったん距離をとって………波蝶、足は大丈夫か?」

 青空を飛びながら晴れやかに笑ったフィアは、そこでようやく一緒にいる少女の表情を覗き込む。そういえば強い力で握られていた腕が、いつの間にか解放されているような。

「………ん?」

 表情を覗き込んでぱちぱちと瞬きをする。いくら華奢な見た目とはいえ、彼は人間より力が強いので脱力した少女の体を支えて飛ぶくらいわけがないことだった。だから気付くのが遅くなったともいえるけれど、とりあえず今さらになってフィアは気付く。

「………気絶してる」

 空中で呟いたフィアは、眉を寄せて年相応に困り果てたような表情をしていた。

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