第4話 異世界と邂逅
うららに手を振って別れた後、数日ぶりの雑木林に波蝶は足を踏み入れていた。
「いたっ」
生い茂る木の枝が腕をひっかいて小さく声を上げる。何度も足を運んだ場所のはずなのに、うまく歩けないのは突然見えなくなってしまった右目のせいだ。体育の授業、普段は得意なはずのバトミントンがまったくできなくなってしまったのも、歩いている時によく壁にぶつかるのもそのせいである。波蝶にもそれは分かっていて、だから大人に相談して病院に行った方がいいことだと気付いていた。
「………あ、またセーラー服汚しちゃうな」
猫を探す時に汚れてしまったセーラー服のことを思い出して、波蝶はぽつりと呟いた。今日はそんな言葉に「ジャージ持ってこれば良かったね」と答えてくれる親友の声はなかったから、少しだけ、本当に少しだけ寂しい思いをすることになる。
「まぁ、もう一回同じことをやってみるしかないよな」
白い運動靴の紐を固く結びながら自分に言い聞かせる。右目が見えないのなら病院に行くべきで、繰り返し見た夢はきっと波蝶のメンタルが普通じゃないから見たものだ。それらしい無理のない説明なんて数十通り思いつく。だから通りゃんせの洞窟に来たところで何が変わるのかなんて、波蝶本人にさえ分かりはしない。
————それでもここに来たのは、うららの言葉を借りるなら運命なのだろう。
「よし」
腰をかがめて洞窟の中に上半身を突っ込んだ。土の匂いと奥まで光が届かない暗闇、数日前も見た光景。匍匐前進で黙々と進んでいけば、やがて体を起こせるくらい広い場所までたどり着く。その先は行き止まりだった。記憶通りの洞窟で、波蝶が探すものはたった一つだけ。
「………どの石が光ったんだろう」
あの時、確かに石が光ったはずだった。だから波蝶は身を屈めて、地面に転がる石を手当たり次第に拾い上げる。光った、ということ以外の情報が何もない以上、あの時の石を探すことは難しい。ただ、今の波蝶には時間がたくさんあったので、地道に探してしまえば良いだけのことだ。暗闇の中、ありきたりな石を拾い続けること数十分。
「あ、」
拾い上げた石の一つがちかちかと、消えかけの電気のように瞬いた。ようやく念願の光る石を見つけて、けれどその光があまりに弱々しいものだったから、波蝶は咄嗟に冷たい塊を手のひらに握りこんだ。光が消えてしまわないように、庇おうと思っての行動でそこに深い意味はない。差し出された指を強く握りこんでしまうような、反射でとった行動だ。
「叶えてくれ」
指の隙間から漏れる弱い光を見つめながら、波蝶は強く目を閉じる。口から零れた言葉さえも反射で零れたものだった。何も分からないなりに「それが正解」のような気がしたのだ。
「あの人と、会わせてくれ」
それは神頼みのようなものだった。正体の分からない何かに、自分では叶えられない願いを押し上げたいのだ。手のひらに伝わる冷たい石の感触が波蝶を現実に引き戻して、こんなことをして何になると言われているような気もしたけれど、馬鹿みたいに見えても諦められないことがある。波蝶にとってはそれが「これ」だった。
「諦めてるんだ、きっとずっと。苦しいことも悲しいことも、分からないって目なんだよ」
どこの誰かも分からない、同じ人間なのかも分からない。暗闇の中で深紅に輝く瞳の持ち主が、自分に友好的だと思ったことは決してない。それでも会いたい。会って、手を引きたい。そう思ったことだけを優先して、それ以外の常識的な考えはすべて置き去りにしてしまった。
ただ鉄格子の向こう側にいるよりも楽しいことがあると伝えたい。顔も名前も知らない相手にそこまで強い願いを持つ理由なんてないけれど、諦めた目を見過ごせない理由だけはある。だって。
「次はちゃんと、幸せにしたいんだ」
懺悔にも似た呟きは洞窟の中で不自然に反響して、そして。
—————行き止まりだった洞窟の空間が、不自然に歪んだ。
「………え、っと」
空気が異質なものに変わったことを感じ取って、波蝶は片手を前に出す。さっきまで行き止まりの壁に触れたはずの指先は宙を切った。
「広がった?」
洞窟が物理的に広がった。行き止まりがなくなった。だから波蝶は一歩足を前に出す。何にもぶつからなかったのでもう一歩、それを繰り返して探り探りの一歩は迷いのない歩みに変わる。
「どこに続いてるんだこれ」
頭がぼんやりとする。暗闇の中で自分が前に出したはずの指先さえも見えない。目を開いているのか閉じているのかも分からないほど、完全な闇が行く先にある。この先のことなんて何も分かりはしない。足を止めない理由なんてどこにもない。それでも進んでいく理由は、他の誰に分からなくても波蝶だけが知っていれば十分だった。
※
「ん?」
歩き続けること数分後。波蝶の運動靴が、土ではない何かを踏んだ音がして足を止めた。ざくざくと土を踏んでいたはずの足元から、突然かつんと硬質な音が響く。何もない暗闇だけを見つめていたはずの目に違う景色が飛び込んだ。
「………ここどこ?」
波蝶の目の前に広がるのは石造りの廊下だった。洞窟の中を進んでいたはずが、突然人間の手が入った廊下にたどり着いたので当然のように困惑する。廊下の壁にかけられた燭台と等間隔で火のついた蝋燭を見る限り、きちんと管理されている場所のようだ。
「洞窟は、」
自分の背後を振り返って首を傾げる。自分が歩いてきたはずの洞窟なんてどこにもなくて、後ろにはのっぺりとした鉄の扉があるだけだった。いかにも頑丈そうな鎖が扉にかけられていて、試すまでもなく波蝶に開けることのできない扉であることは確実だ。つまり引き返すことはできそうにない。
「—————あぁ、なるほど。そうゆうことな」
後ろに向けた顔を正面に戻して数秒。波蝶は納得して大きく頷く。受け入れることが難しい現象に直面しているのに、呟いた声はとても軽やかだ。嬉しそうと言ってもいい。
「見覚えがあると思ったら、ここだったのか」
彼女の目の前には、夢の中で見たものと全く同じ鉄格子が存在していた。そして。
「………現実では初めましてだな」
鉄格子の隙間の闇から、燃える炎のような赤い瞳がこちらを見つめていた。
※
「話をしようよ、あんたの名前はなんて言うんだ?」
冷たい石の廊下にあぐらをかいて、瞳の持ち主にひらひらと手を振ってみる波蝶。少しだけ冷たかったし水で湿っている感触もしたけど、土でどろどろのセーラー服だからどうなってもいいかと思ったのだ。腰を据えて話すつもりでいるのに、相手が無反応なのは少し癇に障ったけれど、ここで諦めるつもりなんて欠片もない。
「私は波蝶。海の波に昆虫の蝶な。気軽に呼び捨てにしてくれればいいよ」
「………」
「変なこと言うけど、夢の中であんたと目が合ったんだ。ついこの前の話なんだけど、だから助けに来た」
「………」
反応はない。暗闇の中で時々赤色が消えたりするから、きっと瞬きはしているのだろう。それが瞳で、人体の一部である以上、生体反応は当然存在するようだ。
「この鉄格子、」
立ち上がって、鉄格子を掴んでみた。瞳はほんの少しだけ細められたものの、やっぱり返事はない。それをいいことに波蝶は全体重をかけて後ろに倒れこむように鉄格子を引っ張ってみた。当たり前だけど、波蝶の腕より太い鉄格子は変形したりなんてしない。
「………あー、見たところ鍵とかないんだけど、外出る時どうしてるんだ?」
一歩下がって、腕組みをしながら鉄格子を眺めてみる。鉄の柱は地下の天井から床まで一直線に刺さっていて、留め具らしいものも存在しない。天井に近い側には模様の描かれた紙が貼られていることに気付いたけれど、片目が見えなくなったせいで落ちてしまった視力では何が書いてあるかまでは分からなかった。後はなんの意味があるのか分からないが鎖が絡みついている。明らかに過剰な拘束だった。意味がないと言ってもいい。
「随分厳重なんだな、何やったらこうなるんだよ」
扉もないのでこれでは外に出られないんじゃないだろうかと首をひねる波蝶。いくら捕まっているとはいえ、全く外に出られないのは不便そうだ。捕まえられた本人はもちろん、管理する側としても大変なのではないだろうか。
「………っていうか、そろそろ返事してくれよ」
鉄格子を再び掴んで、今度は勢いをつけずにずるずると後ろ側に倒れる。腕がぴんと伸びただけで鉄格子に変化はない。別に波蝶だって、自分の力でなんとかできると思ってなんていない。返事のない相手に話しかけ続けるのに飽きてきたので片手間に遊んでいるようなものだった。
「なんでこんなところに捕まってるか知らないけど、その目が気に食わないんだよ」
「………どうして」
「おお!?」
初めて返事があったことに驚いて、手がずるりと鉄格子から離れる。それにともなって後ろに倒れこむ体、尻もちをついてそこそこ大きな音がした。
「しゃ、喋れるンだな、あんた」
「喋れない相手に話しかけてどうするつもりだったんだ?」
「いや、ちょっとまだなんてゆうか、夢の中みたいで………現実感がなかった」
「変な奴」
早鐘を打つ心臓を抑えて大きく深呼吸。なるほど、これは夢じゃない。通りゃんせの洞窟が謎の牢獄につながっていたことも、来た道が大きな扉に変化してしまったことも現実だ。帰る時はどうするんだとかそもそも鉄格子を開けることもできないのにこの人を助けることができるのかとか、常識的な考えも浮かんできて一度頭を軽く振る。考えてもしょうがないことは考えない性格なのだ。
「でももう分かってるよ、これは現実な………それで、なんだっけ?」
「どうしてそこまでこだわるかって聞いてる」
「こだわる?」
はてなを浮かべながら首を傾げた波蝶に、それ以上補足するつもりがないのか黙り込む声。鉄格子の向こうから聞こえた声は、意外にも普通の少年のような声音だった。それはさておき、こだわる、何に。
「………あんたが、諦めた目をしてたから」
もうどうにでもなれとすべてを投げ出してしまった表情。そんな時にしか浮かばない瞳の色を、波蝶は悪夢みたいな赤色から読み取っていた。
「どうせ自分なんてって、もうどうなってもいいやって、自分の寿命を消費しようとしてるみたいなさ、嫌なんだよそれ」
関わりのない人なのだから放っておけばいいのかもしれない。鉄格子の前で尻もちをつきながらこんなことを言っても、説得力なんてないのかもしれない。でも。
—————それがどうしたと、やけっぱちの波蝶なのだ。
「可哀想とか辛そうとかじゃなくて、気に食わない。うん、気に食わないんだ私、だから嫌だ。こんなところにいたら何も分からないかもしれないけど、でも私、生きてることは楽しいって思うから外に出てきてほしいんだ」
「………外に出てどうするんだよ」
「どうするって」
言いかけて、波蝶の言葉が止まる。はっきりと今度は波蝶の存在を認識して合わせられた目には、敵意もなければ疑問もない。空っぽのがらんどう、何もなくて何も分からない。浮かべる感情さえない瞳には、ぼんやりと立ち尽くすセーラー服姿の波蝶の姿がよく映り込んでいた。
「俺は人を殺したんだ。もうきっと、当たり前に生きてくことなんてできない。人間じゃないから、幸せになれない」
「ふーん、でもさ」
立ち上がった波蝶が、鉄格子の隙間から暗闇の中に腕を入れる。驚いたのか、暗闇の向こう側で一歩下がるような、石の床を勢いよく踏む物音がした。
「こうして喋れてるんだから、人間ってことでいいんじゃないの?」
無理やり差し伸べた手は闇を掴む。赤い瞳の持ち主が波蝶の手を取ることはなかったけれど、さっきより少しだけ距離が近づいた気がした。だから波蝶は、突き出した手をひらひらと振りながら言葉を重ねる。
「嫌いなんだ。目の前にあるはずのものを見ようともしないの、手が届くはずのものを掴もうとしないの。なりふり構わなくてもいいじゃん、一回見てからでも幸せになれないとか決めるのって遅くないだろ」
「どうしてそこまで、波蝶は他人なのに、俺のことなんて知らないのに」
「お、やっと名前呼んでくれた。でもその言い方はあんまり好きじゃない」
波蝶には難しい理屈なんて分からないし、高尚な志なんて存在しない。少女はまだ少女で世間知らずな子供だから、自分の気持ちしか伝えることができない。だからこの質問には、あっさりと、いささか不満げに答えるのだ。
「あんたに幸せになってほしいって言うのに、何か資格がいるのかよ」
「………いらない、な」
理屈なんてなくても波蝶の言葉は少年を頷かせた。暗闇の中に伸ばしていた手を一回りだけ大きな手が握る感触に、波蝶はようやく笑顔を浮かべる。
「それじゃあ、」
「ありがとう、波蝶」
口にしようと思った言葉は遮られ、ありきたりな感謝の言葉が耳に届いたその瞬間。二人を隔てていた鉄格子が、轟音を立ててはじけ飛び、ねじ曲がった。
「えええ!?」
きーん、と爆音のせいで耳鳴りがして自分の悲鳴さえ波蝶の耳には届かない。それはこれまで一度も見たことがない現象、波蝶の常識では説明がつかないことだけれど、分かりやすく繕わずに説明するのであれば「地下牢が爆発」した。
「そんなことってありなのか!?」
「何言ってるんだ、ありに決まってる」
瓦礫が崩落する音の向こう側、どこか楽しそうな少年の声が波蝶にとってさらにありえない真実を突きつける。
「魔法が使えればこんな鉄格子、壊せない方がおかしい!」
「ん、んんん?」
片手でかばった耳を抑えながら首を傾げる。それはつまり。
「魔法が、存在するってこと………?」
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