第3.5話 闇より 

場所は変わって、そして時間もさかのぼって、どこかの地下室。

蠟燭があってもなお薄暗い室内で、男は座った椅子の後ろ側の足に重心をかける。当然のように椅子は後ろ側に傾き、ついでに木が軋む嫌な音を立てた。地下室の湿気のせいで、男が適当に運び込んだ不揃いな家具はどれも劣化が早いのだ。

「あ、そういえば」

目の前の机に組んだ両足を上げたまま、男が口を開く。

尊大な姿勢の割に目線はぼんやりと天井を見上げていて威圧感はない。

今日の天気の話とか夕飯の話とか、とにかく下らないことを話し出しそうな気の抜けた空気が地下室に流れた。

「………何?」

けれどそんな空気であっても、ぽつりと落ちた言葉に反応して顔を上げるのが男の正面に座る少女だった。

答える声が不愛想であったとしても、男の零した言葉には逐一反応するのが彼女である。それゆえ今回も大した話はなさそうだったが顔を上げて目を合わせた。

「いや、うーん、今言わなくてもいいことなんだけど」

「だから何、早く言ってよ」

「うん、あのね」

視線が自分に向いたことをきちんと確認してから、男はゆっくりと笑顔を浮かべる。少女の反応が思った通りのものだったからつい笑ってしまったのだ。

浮いていた椅子の前足ががたん、と落ちて一瞬の後。

「————そろそろ始めることにしたから」

それは主語のない曖昧な言葉。詳細はどこにも含まれない。

だから少女は当然のように、開いた目をぱちりと一度瞬かせて言葉の意味を考える。考えて、もう一度、今度はゆっくりと目を閉じて、開いて。大きく息を吸って。

「ミナトの馬鹿!」

それは空気を震わせる怒声だった。決して広くはない地下の空間がぐらりと揺れたように錯覚する程度には、そして実際に天井からぱらぱらと土くれが落ちてくる程度には、全身全霊をかけた肺活量の叫びに男は「うわ、うるさ」と耳を塞ぐ。

表情は寸分変わらない笑顔で、本気でうるさいと思っているわけではないけれど。

「何それ、何その言い方!」

彼なりの丁寧なリアクションをとっている間に、目の前の少女は勢いをつけて椅子から立ち上がる。重力に従って椅子は倒れ、石の床と激突して大きな音を立てた。そろそろこの椅子も寿命が近いかもしれない。

間髪入れずに少女は自分と男の間にあった机の上に足をかけて身軽に上ると、相変わらず優雅に座った男を見下ろした。腰に手をあてて、怒りを込めた仁王立ちの姿勢だ。

「お行儀悪いよ、リアノ」

「ミナトに言われたくない」

机の上に立つ少女と机に脚を上げた男の言い争いなら、少女の方が少し不利そうではある。もちろんそんなことは論点ではないので、少女は男の軽口を歯牙にもかけない。その適当な返答を聞いて、少女の長い髪がぶわりと怒りで膨らんだ。

「行儀とかそんなことはどうでもいいのよ、それっていつ決まった話なの?」

「今決めたかも」

「そうじゃなくて!いつあの子から連絡がきたの!?」

「あ、それは昨日」

「それならどうして、その時点で私に言わないの」

————風の吹かないはずの地下室で、ろうそくの灯が揺れる。

室内の薄暗さが数段上がって、墨汁のような暗さが二人の周囲を包んだ。

それなのになぜか机の上に立つ少女だけが鮮烈に、太陽にように輝いていた。

「怒らないでよリアノ、これでも大事な隠れ家なんだから。壊されたら大変だよ」

「………」

「………ごめんね、すぐ言わなくて。ほらちょっと、色々考えてただけだから」

上げた両手をひらひらと振って降参をアピールする男。その姿をじっと見つめた少女はきっかり五秒後、ようやくふ、と体から力を抜いた。瞬間、室内が明るく、光っていた少女が暗くなる。不自然な明暗が調整されたように、一瞬でありきたりな地下室の光景に戻った。

「………分かった」

「ありがとうリアノ、分かってくれて嬉しいよ」

「白々しいこと言わないでよ、ミナトのくせに」

机から飛び降りるリアノと、机から脚を下すミナト。今さらながら、大変行儀が悪かったことに気付いた様子である。

「楽しみだね。あの子はどんなことをしてくれるんだろう」

「知らない、興味ない」

「あれ、興味はないんだ?」

「私はミナトがやりたいことをやるだけ」

先ほど自分が倒した椅子を起き上がらせながら、リアノの返事は淡泊だった。

「髪結んでよ、邪魔だから」

「はいはい。そこ座って」

「うん」

ミナトは従順に頷いて、椅子に座ったリアノの背後に回る。

背中にに挟まれていた長い髪を引っ張り出して、手櫛ですきながら闇より暗い瞳を猫のように細めた。髪を結ぼうとしている人間が浮かべない、裂けた三日月を浮かべたような口元の悪役チックな笑い方。

「前も言ったけど、あの子の未来は俺にも分からないからね。

 それでもとんでもないことをやってくれるのは確かだ」

「………本当に見えないの?」

「信用ないなぁ、俺だって全知全能じゃないんだよ」

「ミナト、くだらない嘘つくから」

「今回は嘘じゃないよ。困っちゃうよね」

そう言いながらも困った様子は全くないから、リアノは振り向いて疑いの目をミナトに向ける。当の本人はどこ吹く風で、「動くと髪が傷むよ」と常識的な注意をしてくるだけだったけれど。

「せっかく綺麗な髪なんだから」

「別に、何もしてないわ」

「その割に伸ばしてるよね」

「切るのが面倒くさいだけ」

「切ってくれたら結ぶ手間がなくなるんだけどなぁ」

「それなら切らない」

「意地悪しないでよ」

軽口を叩きながらミナトの手は迷いなく動く。

髪を二つの束に分けてからアップにすれば、綺麗なツインテールが完成した。

「はい完成」

肩から前に流されたツインテールを指先でいじって、リアノは一度頷いた。

報連相はできないし行儀も悪くて胡散臭いけれど、間違いなく髪を結ぶのだけは上手い。彼女はミナト以外に髪を触らせたことなんてなかったから、何と比較するわけでもないけど。

「それで、私は何をすればいいの?計画は?」

「え、計画?特に何にも考えてないけど、仕込みは済んでるし待ってればいいんじゃない?」

そう言って軽薄そうに笑ったミナトの瞳に、一瞬だけ金色の光が走る。

振り返ってそれを確認したリアノはじっと瞳を覗き込んだ。

「何か見えた?」

「何にも」

「………その女の子は、私たちの仲間になるの?」

「さぁ、どうだろうね。っていうか、仲間って面白い言い方するね」

膝の上に載せられたリアノの小さな拳に力が入るのを見ながらミナトは笑う。それは無味乾燥で、人間らしい温度のない笑い方だった。

「それだとリアノが俺の仲間みたいな言い方じゃん」

「………ごめん」

何に謝罪しているのかも分からない言葉に反応することなく、椅子の背にかけていた黒いマントを持ち上げて肩にかけるミナト。椅子の上で少しだけ身を縮めた少女のことも、彼女の小さな謝罪の言葉も、彼にとっては別にどうだってよかったのだ。

「いつまでもここにいたらカビちゃうし、そろそろ出かけようか」

「うん」

地上に続く階段に一歩足をかけて、ミナトがくるりと振り返った。つられて後ろを歩いていたリアノも振り返る。二人にとってこの地下室はアジトで家だった。だから。

「—————燃やしとかないとね」

ミナトがぱちりと指を鳴らした瞬間、置かれた蝋燭の灯が弾けて地下室を炎が包みこむ。熱風が顔にあたって目を細めたリアノの視界で、さっきまで座っていた椅子が、机が、音を立てて燃え上がって炭へと形を変えた。地下で火をつければあっという間に炎上する。それを好都合ととらえるから、ミナトはこの場所を隠れ家にしたのだ。

………まぁ、誰に見つかったところで大した問題にはならないのだけれど。面倒くさいのは好きではないのだ。

「………さっき私には壊すなって言ったのに」

「リアノの魔法で壊すと大変じゃん。こういうのは燃やすのが一番いい」

そうして彼はもう振り返らなかった。だからその背中を追いかけるリアノも、しばらく生活していた場所が、彼女にとっての家が、原形を失っても振り返ったりしなかった。ミナトが歩くのであれば、その後ろについて歩くのが彼女の生き方だったので。


—————彼らと波蝶が出会うのは、もう少し後の話。

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