第2話 光を奪う

 「夢を見ている」ということをはっきりと認識しながら見る夢を明晰夢、と呼ぶらしい。夢を見ていることは分かるのに意識が覚醒しない、そんな夢。

 これまでは一度寝てしまえば朝までぐっすりと眠ることができる、夢さえ見ない波蝶とは全く関係のない言葉だと思っていたのだが。

 ―――――ああ、これは夢だ。

 今まさに、波蝶は自分の見ている風景が夢だと認識していた。

 記憶ははっきりしている。とおりゃんせの洞窟に入って猫を探して、無事に見つけた猫が出口に向かって走っていくのを見送った。そして………そこからの記憶が曖昧だ。目が眩むくらい激しい光を見たのを覚えているけれど、それがなんだったのかは夢の中で冷静に考えてもさっぱり分からない。

「でも夢を見てるってことは、私寝てるのか?」

 夢の中で首を傾げる。体はなんの違和感もなく動いた。夢の中特有の地に足がつかない感覚もない。そんなことまではっきりと認識できるのは、なんだか不気味でもあったけれど。ともかく、目が覚めない夢の中なら不気味に感じたところでどうすることもできないか、と頭を切り替えることにした。

「それで、ここはどこだ?」

 発した独り言が思ったよりもむなしく響く。

 目の前に続くのは真っ暗な廊下。視線を横に向ければ水のしみだす壁。夢の中なのにかび臭い匂いが鼻をつく。現実感がありすぎて逆にリアリティがない。

 身動きをとることをためらうくらい劣悪な環境で、先が見えない廊下を進んでいくのはひどく恐ろしいことのような気がしたけれど、波蝶は一歩足を踏み出した。

(先に進まなきゃいけない気がする)

 理由はない。けれど夢の中の何かに急かされる感覚がしたのだ。

 夢とは自分が昼間に見た記憶の焼き直しだと、これまたどこかで聞いたことがある。人間の脳は、起きている間に目にしたもの、耳にしたものを寝ている間に整理する。その様子を夢で見てしまうのだという。きっととおりゃんせの洞窟で見た光景が、この夢の下地なのだろう。それならこの暗く淀んだ道に立っている景色だって不自然ではない。

 おおよそのことは理解している。夢、それに夢だとはっきり認識している夢なのだから、怖がることは何もない。目を閉じてしまえば、起きようと悪あがきをすれば、そんなことをしなくても時間が経つのを待っていれば、いつかは覚めてしまう夢だと思った。それでも。

「進まなきゃ、」

 ぽつりと落ちた独り言と同時に一歩足を踏み出した。水溜りを踏んでしまったのか足元が濡れる感覚。石の床を踏む固い音が狭い空間に反響する。

 壁に掛けられたろうそくの小さな明かりは今にも消えそうで、数歩先も見えない暗闇の中を歩く支えにはなってくれない。進めば進むほど暗くなる光景は、例え夢でも怖いと感じるには十分な迫力だ。それなのに波蝶はなぜか歩き続ける。好奇心でも使命感でもなく、「こうするのが当然」とでも言うような感覚に突き動かされて足を止めない。止めることができない。

「あ、」

 そして波蝶は、ようやく足を止めた。永遠に続くかと思われた廊下が終わって、目の前の行き止まりにさっきまでなかったものが現れたから、足を止めるしかなかった。

「これ、牢屋だ」

 これは何かを閉じ込めるための檻だと雄弁に主張する鉄格子が、暗い廊下の行き止まりにあった。もうあと一歩足を進めてしまえば、その頑丈そうな鉄格子に触れることさえできそうだったけれど、その異様な圧迫感に気圧されて距離をおく。いくら夢が昼間の記憶の焼き直しだとしても、これまでの人生でこんな牢屋は見たことがない。それだけに、この空間の異常性が際立つ。

「よっぽど怖いんだな」

 返事を期待したわけではないけれど、沈黙に耐えかねて呟いた。波蝶の腕くらいの太さはある鉄格子には、その上から鎖が絡み巨大な錠もかけられていた。そうまでして、この牢の中にいる何かを外に出したくないのだと認識するには十分すぎるくらいの処置だ。きっと数歩先を見るにも不自由なこの暗闇も、閉じ込めた何かが外に出れないようにするためのもので。

(中に何がいるんだろう)

 暗闇の中に目をこらす。牢屋の中はかすかな明かりさえない暗闇で何も見えない。それは分かっていたけれど、波蝶は牢の奥の闇を、呑みこまれてしまいそうな闇を見つめた。理由は全く分からないけれど、そこに誰かがいる妙な確信があったのだ。そして。

 ―――――暗闇の中に赤色が光った。

「え?」

 呆けたような情けない声が漏れる。暗闇の中にぽつりと赤い光。その赤が少し震えたのを見て、あれは瞳だと理解した。

 ルビーの宝石のような、滴る血のような、混じりけのない赤が、暗闇の中で一等星のように浮かび上がる。これまで見たことがない色の瞳で、そもそもそんな色の瞳があるのかと聞かれれば波蝶は返答に困っただろうが、なぜかその赤色の輝きは絶対に瞳だという自信があった。

 だから波蝶はその瞳を――――目が合った赤色を。まばたきもしないで見つめる。見つめた理由はとても単純で、その目をとても綺麗だと思ったから。

(すごく、綺麗だ)

 見つめる波蝶に気付いているのかいないのか、灼熱の色をした瞳もこちらから目をそらさない。綺麗な瞳だと思った、それは間違いがない。けれど、波蝶を見つめる目に何の感情も浮かんでいないことに気付いて波蝶は不意に目をそらしたくなった。

 ――――こんなに鮮やかな色の瞳なのに、この瞳は何も見ていない。

「………見るな」

 とても綺麗な瞳に見つめられているというのに、波蝶の口からこぼれたのは拒絶の言葉だった。感情がない。何も考えていない。激情のような赤色を宿しているのに、どうにもならないような諦めしか浮かんでいない。何も映していないから、まるで波蝶の心の中を見透かすようながらんどうだ。

「見るな!」

 この言葉が牢屋の奥にいる瞳の持ち主に届いたのかは分からない。けれど波蝶は、目をそらせないままに叫んでいた。

 そんな目で見るな、と。ありったけの拒絶を込めて。

 きっと見透かしているわけではないのだ。この目にはきっと何もない。閉じ込められていることに対する憤りもなければ、目の前に立つ波蝶と目を合わせているというのに、その存在にさえまったく興味がない。ただ目を開けたらその先に波蝶がいたというだけの、どうしようもないくらい空っぽの目で、人間らしさの欠片もない。

 だから波蝶は、逃げたくなるのだ。

 ――――――私には、どうすることもできない。

 助けを求められたわけでもないのに、言い訳みたいな言葉が脳裏に浮かぶ。そんな目で見られても、その空っぽの瞳をどうすることもできないのだと、言い放って逃げ出してしまいたい。

 誰のせいでそんな目をするようになってしまったんだ、そんな全てを諦めたみたいな目で。怒ってくれればまだましなのに、悲しんでくれたら励まそうと思えたのに。そんな風に空っぽでは、何の感情も注げない。

 その瞳に、既視感があったのだ。だから、口をついた言葉は拒絶と、そして。

「ごめん………!」

 その言葉は赤い瞳の彼に言いたかったものではないけれど、目をそらしながら謝罪が零れる。何に対して謝ったのかは、きっと波蝶だけが知っていた。



 ゆらゆらと、体が水の中をたゆたっているような心地よさを感じていた。それが体を揺すられているせいだと認識して、ぼんやりと瞳を開ける。

「波蝶、起きた~!」

 うっすらと目を開けた波蝶の耳に、声を張っているが間延びした緊張感のない声が届いた。ぱちりと一度瞬きをして、まだぼんやりとしている頭を振る。開けた目に映っていたのはさっきまで見ていた鉄格子と冷たい壁に囲まれた空間ではなく、どこかで見たことがあるような家の天井だ。そして間延びした声がうららのものであることは反射的に理解できたし、うららの家のベッドに寝ていることだけは理解できたけれど、なぜか胸の上に圧迫感が。

「………熊?」

「そうだよ、波蝶がうなされてたから寂しいのかなって」

 寝転がったまま視線を下に向けると、胸の上に巨大な熊のぬいぐるみが乗っていた。胸の圧迫感はこいつのせいだったのかと納得する波蝶。この熊には見覚えがある。うららが去年の夏祭りの時、射的でとった一等賞、巨大テディベアだ。うらら、運動オンチのくせに昔から射的だけは得意なのだ。

「こいつこんなに重かったのか………?」

「大きいからね~」

「ちょっと、どかしてもいいか?息が苦しい」

「いいよ~。そんなことよりも波蝶、私がわかる~?」

「それはうららだろ」

 初歩的なことから確認してくるうららに軽く答えながら、ここは間違いなくうららの部屋だと覚醒してきた頭が理解した。壁紙もベッドの柄も何度となく訪れたうららの部屋だ。さっきまで見ていた赤い瞳なんてどこにもない。

 ――――それなのに。

 体を起こして熊を丁寧にベッドの下に下ろしながら、波蝶は首を傾げた。見慣れたうららの部屋に違和感がある。どんな違和感かと聞かれると、はっきりと答えれるものではないのだけれど、まるで違う世界を見ているような。

「よかった、記憶喪失とかになっちゃったらどうしようかと思った」

「記憶はある………というか記憶がなかったらどうするつもりだったんだ?」

「救急車かなあ」

「勘弁してほしい………」

 こんな住宅街で救急車なんて呼ばれた日には、ご近所中の噂になってしまう。そんな未来を想像して首を振って、ぐしゃぐしゃと髪をかき回して一息。とにかく、行き止まりの洞窟からも見覚えのない夢の世界からも抜け出せたと体の力を抜いて、初めて自分が緊張していたことを自覚した。

「波蝶?記憶があるなら、何があったかちゃんと説明してよ」

「あ、えっと、とおりゃんせの洞窟に入って猫を探して………」

 言いながら、うららの声だけは聞こえるがさっきから姿が目に入らないことに気が付いた。

「うらら?どこにいるんだ?」

 だから呼びかけた。それは特に考えなしの、いつも学校から帰ろうとする時にうららを呼ぶ時と同じだったけれど、違ったことが一つだけ。

「え?お隣だよ、ここにいるよ」

 うららの声が、思ったよりも近くで聞こえた。

「………ん?」

 首をぐるりと回して、声の聞こえた方に顔ごと向けると当たり前みたいにうららの顔があった。波蝶がずっと眠っていたことを能天気な彼女なりに心配したのだろう、不安そうに眉を寄せたうららの顔がすべてを物語っていて、心配をかけたんだな、と反省する。

「あ、うららだ」

「よかった~。頭ぶつけて私のことを忘れちゃったのかと思った」

「救急車呼んでくれそういう時は」

 いつも通りの気の置けないやりとり。けれど、こんなに至近距離にいたうららに気付かなかったという違和感は、じわじわと波蝶を焦らせる。

 ――――おかしいのだ。

 とおりゃんせの洞窟で倒れたことも、嫌になるくらいリアルな夢を見て、夢の中で自分が見た光景をすべて覚えていることも。目が覚めた時、見慣れたうららの部屋を見覚えがないと思ったり、うららの姿さえ見つけれなかったり。

 おかしい。どこかが、何かが。それはさっきまでは見ていた半分だけ世界が見えなくなってしまったような。

「なぁうらら。私って変じゃない?」

「すっごく変人ってこと以外は普通だよ」

「つまりいっつも変なんだな?」

 どうにもならない不安から、うららに問いかけるといつも通りの答えが返ってきて少し気持ちが落ち着いた。そして、落ち着いたことでようやく気が付いた。

「うらら、」

 名前を呼んで。布団から出した手をそっと左目に当てて、視力検査のように目隠しをする。

 ――――その瞬間、当たり前に見えていたうららの部屋が消えた。

「私、目が見えない」

 正確に言うと、右目が見えなくなっていた。右側にいたうららの姿をとらえることができなかったのも、見慣れた部屋に違和感を覚えたのもこのためだ。

「………え?」

「右目だけ見えないんだ」

 左目を隠していた手を離すと、目の前には強張ったうららの顔があった。

「………嘘だよね?」

「………嘘じゃないみたいだ、どうしよう」

 どうしよう、なんて問いかけたところで波蝶もうららもこの状況に対してできることなど何も思いつかなかったけれど、二人はそうしてしばらく顔を見合わせて黙り込むことになったのだった。

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