第21話 呪いと祈り
一人の少女を取り戻すための戦いは終わった。
崩れ落ちたガランは起き上がる素振りを見せないし、地上にはギルド長がいる以上負けることなどありえない。これ以上ないほどの完全勝利。
だが、一つ解決していない問題が残っている。
そして、その間題はもうどうしようもないほど近くに迫っていて。
ぱたりと、アークがその場に崩れ落ちた。
糸が切れた人形のように、何の前兆も見せずただ地面に倒れ伏す。
あまりにも唐突な光景に咄嗟の反応ができず、一拍置いて今起きたことを脳が認識する。
次の瞬間、アキは走り出していた。
「アーク!?」
悲鳴じみた声を上げて、傷だらけの身体を引きずるように駆ける。一歩踏み出すたびに痛みが全身を走り、すぐそこにいる少女に中々手が届かない。
遅々とした歩みでようやくたどり着き、焦燥感に背中を蹴り飛ばされるように、うつ伏せになっていたアークの身体を仰向けにひっくり返す。そして、その状態を見て息を呑んだ。
意識を失っているその顔、そこにあった異形と人とが混ざり合っていた姿は、むしろ先ほどより人間らしい部分が増え、いつもの姿へと近付いているように見える。肥大化した腕や捻じくれていた足も徐々に縮み、皮膚を覆っていた鱗が引いていく様は快調へと向かう兆しだとも受け取れたかもしれない。もう一つの変化を無視すれば、の話だが。
抱き起こした軽い身体、そのいたるところに亀裂が走っていた。
皮膚の裂傷とか、何かの模様なんていう次元の話ではない。明確に彼女の身体が『割れて』いる。
陶器のひび割れのようなその亀裂が縦横無尽に身体を走り、その奥に覗くのは本来見えるはずの赤色ではなく、まるで水晶のような透明な輝きだった。
今までの人外への変化とは異なる症状は、生物ではないナニカに変貌するという形で現れている。
まさかまだガランが何かをしているのかと確認するも、完全に意識を失っている。ガランの手から離れた黒い小箱も地面に転がったままでおかしな様子は見えない。
ならば何故と思考を巡らせ、そもそも自分がここにいる理由、その大前提を思い出す。アキが商業都市へと呼ばれた理由は、アークに残された時間が少ないからだということ。
即ち、今が寿命の限界だった。
「ふざけんな……」
ギルド長の話では残り数年という話ではあったが、あの時から大きく状況が動いている。元から迫っていた緩やかな限界に、ガランの企みによりかけられた無茶な負荷。少女の身体を襲ったそれらによって、致命的な一線はすぐそこまで足音を潜ませ忍び寄っていた、それだけの話。
「ふざけてんじゃねえぞちくしょうっ!!」
そんな話があってたまるかと、血を吐くように悪態を吐くがそんなことで状況は変わらない。
どうすればいいのかはわからない。だが、このままアークを放置しておけばマズいことなど火を見るよりも明らかだ。
とにかく治療を施すべきだと身体を抱え上げようにも、抱き上げようとしただけで軋みを上げる身体を地上へ運ぶのは危険に過ぎる。この亀裂がどういった性質のものなのかはわからないが、下手に力を加えれば最悪全身が崩壊することもあり得るのではないか。
ならばと地上から助けを呼ぼうにも、転移の魔法陣を通ることができる味方はどこにもいない。そもそもアキが通れたことすらどういった原理かわかっていないのに、新しい人員をこちらへ呼ぶ方法がわかるわけもない。
その上で、懊悩する少年を置き去りにするように事態は更に進行していく。
最初に違和感を感じたのはアークに触れている指先だった。
「冷たっ!?」
反射的にアークから離しそうになった手を無理矢理に押しとどめる。口を突いて出た言葉の通り、アキの指先を襲ったのは氷に手を突っ込んだ時のような冷たさだった。指先から手へ、手から腕へ、腕から胴体へ……冷気が全身を這い回るまでにそう時間はかからなかった。
炎に炙られ熱を持っていたはずの肌が感覚をなくすほどにかじかみ、歯の根が合わずにガチガチと勝手に打ち鳴らされる。物理的に、強制的に冷やされたはずの頭は未だ混乱の渦中にあるが、この冷たさがどこからやってきたものなのかはわかっていた。
最初に冷たさを感じた指先が触れている場所……つまりはアークの身体がこの冷気の発信源なのだと。
その考えの正しさを証明するように、アークを中心として辺り一帯に霜が降る。それはアキの身体も例外ではなく、汗と血で濡れていた衣服が固まり始めていた。
アークの身体から冷気が発され全てを凍らせていく……いや、違う。
アキも地面も凍えているが、これはどこからか冷たい風が吹くような、そんな凍え方ではない。まるで自己という器に注がれたお湯を何かに吸われているような。
そこまで思い至った時、幽鬼の口から発せられた忌々しい言葉がアキの脳裏に思い出された。
『前回は土地神の魔力の一部を流し込む術式だったが、今回はその魔力に馴染んだ器を拡張しこの神合め土地の魔力諸共全てを注ぎ込む!』
やつは土地の魔力と言った。だが、それが具体的にどういう物なのかアキは理解していなかった。それでも、魔力が生命に、大気に、大地に満ちているという一般常識は知っている。
連鎖的に思い出される記憶。季節外れの寒さで香辛料の育ちが悪いと教えてくれたギルドの受付嬢、おかしな気候だと話していた街の人々、寒さが深まった日に倒れたアーク。
もしも、土地の魔力という言葉が文字通りの意味だったなら、商業都市と呼ばれるこの地に満ちる、全ての魔力を喰い尽くすという意味だったのだとすれば……!
◆
同時刻。地上、ガラン邸周辺。
本来であればすんなりとは勝負がつかなかっただろう戦場は、皮肉なことに本丸への突撃を断念したことで乱入した嵐のごとき剣士の存在により予想よりずっと早く、安全に戦闘が終了していた。
ならず者達は命に別状こそないものの、フラストレーションが溜まりに溜まった
そんな彼らをしょっぴくために衛兵達と協力して動き回っているのは、こちらもまた大好きな少女を拐われた怒りから、魔石を使い切ってからも素手で大立回りを続けていた受付嬢だ。
彼女の戦闘力は大したものではないが、素手で殴りかかってくる鬼の形相の女に気圧された敵はそれなりの数に上る。
とはいっても、流石に気迫だけで武装した集団を倒すことができるわけもなく、最終的に見かねた味方に担がれ回収されていたが。
働いているのは彼女だけではなく、協力してくれた街の住民達も後始末の手伝いをしたり、負傷者達の治療を行ったりと忙しなく動き回っている。
本来であれば彼女達の役目は終わっているのだが、誰一人として動きを止めようとする者はいない。軽症とはいえ怪我人さえも治療を受けるとすぐに行動しようとする。
それはひとえに、拐われた少女とそれを助けに向かった少年が未だ戻っていないことが原因だ。ギルド長から事情が伝えられ、任せることしかできないとわかっていても気持ちは抑えきれない。その結果として不安と無力感を誤魔化すように作業に没頭し、彼女らの帰りを今か今かと待っている。
そして陣頭指揮を取っていたギルド長は大方の作業が終わったことを確認すると、引き継ぎのために受付嬢へと声を掛ける。
「大方の始末は終わった、怪我人の方は?」
「はい。みんな何かしら怪我はしていますが、ほとんどは擦り傷と打撲です。骨折と裂傷が数人いますが、応急処置で大丈夫と言い張って動こうとしてますね……」
「馬鹿は殴って寝かせとけ」
「あ、あはは……」
あまりと言えばあまりな物言いに苦笑いを返す受付嬢だが、その顔は緊張で固くなったままだ。どれだけ冷静さを保とうとしても、彼女もアークの身を何より案じている一人な以上無理もない。
その様子と周りの落ち着かない空気に、さしものギルド長もかけられる言葉がない、自身もまた、アキに決着を任せた以上彼を信じるしかないのだ。
「……アタシはまた魔法陣のところに向かう。ここは任せたぞ」
そうして、せめて二人が戻って来た時にすぐ迎え入れられるようにしておこうとした時、それは起こった。
音もなく、強い冷気が場を支配した。
それは人も建物も関係なく全てを凍てつかせる何者かの舌。その場に留まっていた者達を喰い尽くさんとする絶対者の息吹だ。
突然の冷気にほとんどの者は驚いた顔をするが、ただ季節外れの寒さが風に乗って吹き抜けただけだろうと判断し身を縮こまらせる。
だが、ギルド長と数名……魔力を感知することのできる者達は事態を正しく理解した。
今のは風ではない、『捕食』だ。何かがこの場の魔力を奪い去った。
そして魔力を目で感知することのできるギルド長の目が捉えているのは、今尚この場から吸い取られていく魔力だった。人の身から、大地から、少しずつ魔力が奪われていく。
それは自身の身体も例外ではなく、抑え込もうとしても着実に魔力が外へと流れていく。
「何だ、これは……!」
奪われていく魔力は僅かな量だが、吸い取られ続けたのならば生命活動に支障をきたす。有り体に言ってしまえば、このままでは魔力量の少ない者から死んでいくだろう。
混乱に頭を支配されるギルド長の目線の先、捉えた魔力の流れは屋敷ではなく街の中心へと向かっていて……。
街中に吹き抜けた冷風、それが通り過ぎた後の大通りは先ほどまでの賑やかさを失い、別種の喧騒に包まれていた。
「さむっ」
「何だ今の風……」
「おい明かりが消えたぞ、どうなってんだ!」
「あれ? おかしいな、その魔石灯新品なはずなんだけど」
「この魔道具買ったばっかなのに壊れたんだけどー!?」
「すいません通してください! 婆ちゃんが体調崩したみたいで……!」
騒がしさは変わっていない。けれど先ほどまでの明るい喧騒に代わって聞こえるのは不安な声の数々。
あちこちで寒いと声が上がり、魔力を使う道具が不調に陥る。寒さにやられたのか体調を崩すものも何人か出ている。
この場に魔力を見ることができる者がいなかったのは不運であり、幸いでもあった。
不運なのはこの現象がどういったものか理解できず混乱が生まれたこと。幸いだったのは、下手に魔力を奪われていることを自覚しパニックを起こす者がいなかったことだ。
実際に、他の場所では魔力を知覚することのできる魔術師や種族が、突然の事態にパニックを起こし混乱が広がっている所もある。
不幸中の幸いだったのは、あらかじめガラン邸での戦闘が街中に影響を与えないよう派遣されていた者があちこちにいたことだ。
彼らも今何が起きているかは理解していないが、それでも元から非常時に備えていたため想定外の状況でも動き、混乱を鎮めるために動くことができた。
とは言っても、現在進行形で魔力がどこからか吸われていることに変わりはなく、魔力……生命力が奪われ冷たくなる身体と魔道具の不調、更に体調不良を起こす者が増える中では混乱を抑えるにしても限界がある。
それでも事態の収集に動くが、このままでは何がきっかけでパニックが起きるかわからない状況。それがいつまで続くかもわからなかった。
商業都市中心部、その真下の地下港。
本来であれば港全体が飾りつけられ、花火に次ぐイベントとして魔術を交えた壮大な船上ショーが開催されていたはずの場所は、今は静まり返っていた。
数分前、地上とは比べものにならない強烈な冷気が地下全体を席巻し、港にいる全員の身体から力を奪った。
真冬の方がまだ温もりがあると思える極寒の息に、ショーで盛り上がっていた熱気が一気に奪われる。船上で魔術を使い跳ね回っていた演者も、それを見ていた観客達も、突然の異常事態に口を閉ざした。
最初に動きを止めたのは心理的な意味合いだっただろう。しかし、今彼らが動きを止めているのは物理的な理由だ。
身体が震える、歯の根が合わない、膝から力が抜ける。そんな状態でろくに動けるはずがないのだから。
息を吸うたびに肺が凍てつき、息を吐くたび熱が奪われる。唯一の救いはショーの最中であったために人の密度が高く、他者と触れあうことで僅かばかりでも暖を取れることだろうか。その温もりすらも、もうすぐ喰い尽くされようとしているが。
そう、これは捕食だった。
アークの身体、その中に在る魔力……神の残滓とでも言うべきそれは、宿主死に瀕して餌を求めている。
本来ならば緩やかに消滅していただろうそれは、ガランが作り出した黒い小箱型の魔道具、
人体実験によって神に至る力を蓄えるための調整を施された身体、その中に潜む神の残滓は、死を覆すためのエネルギーを求め力が届く限りの範囲から魔力を奪い取る装置と化した。
だが、それは無駄な足掻きだ。本来であればガランが儀式に合わせて調整を加えていただろう捕食行為だが、しかし文字通りにひび割れた器に魔力を注いだところで当然中身は零れ落ちる。
つまるところ、無駄な行為なのだ。この街の全てを喰い尽くしたところでアークも神の残滓も助かることはなく、喰われた人々が生き残ることがあるはずもない。
仮にガランが調整を施したとして、神の残滓自体は助かるだろう。だが『アーク』は助からない。彼女を喰い破って違う意識、魔神が生まれるだけであり、更に救えないことにこの被害自体は最初から計画に組み込まれていた。つまり、計画が正しく進んだところでこの街の死は変わらないこと、狂った幽鬼は大勢の死に頓着していなかったのだ。
そして捕食者は地底に在る。故に地下港という捕食者に近い位置では地上よりも大きい被害が発生していた。
蛇に睨まれた蛙のように動けない人々、そして蛇がその後で蛙をどう扱うかなど決まりきっている。
刻一刻と力を奪われていく群衆の中、ショーを見るために集まった人々の中に大小二つの影があった。
この場にアキがいたなら声を掛けていただろうその二人、数日前にアキとアークが出会った迷子の少女メリーと、その父親である。
もっとも、親子の姿を見て暢気に声を掛けることなどできなかっただろうが。
冷気に曝されているのは二人も例外ではなく、震える身体を密着させて暖を取ろうとしている。父親は娘に上着を着せているが、寒さの原因は体内から魔力を奪われていることであるため大きな意味があるとは言えない。更に言えば魔力量が多くない子どもの身体は、このままではそう時間が経たないうちに全ての力を喰い尽くされるだろう。
何とか娘を助けようとする父親の腕の中、もはや感覚がなくなってきた身体とどこかふわふわと浮かぶような思考で少女……メリーは考えていた。
港にいるのは祭の目玉でもあるショーを見るためだ。だが、地上で打ち上げられただろう花火すら見ずにここにいたのにはわけがある。
あの時、迷子の自分を助けてくれた二人組。少年にはお礼を告げることができたが、もう一人の少女にはなし崩しで別れたきりだったため何も言えていないのだ。
もう一度会おうにもメリーは彼女のことを何も知らない。ならばと、あの日出会った場所であれば会えるかもしれないと父親に連れられて早いうちからここで人探しをしていた。
しかし目当ての少女を見つけることは叶わず、ショーが始まり人混みが増えたことで捜索を断念した。そんなもやもやとした気持ちを抱えたままにショーを見る、そんな時に起きたのがこの事態である。どうしようもない不運、それが今メリーの小さな身体を襲っていた。
力が入らなくなってきた身体、まとまらない思考。だから、口に出た言葉は意識していないもので、
「おねー……ちゃん……」
直前まで探していた少女に呼び掛ける声。それは無意識で何の意味もない言葉だったけれど。
温かい風が吹いた。
いや、それは温かいと錯覚しただけでごく普通の風だった。それでもそう感じたのは、その風から冷たさが消えていたからだ。
ほんの一瞬のうちに、先ほどまで地下港を支配していた凍える風が消えて普通の気温へと戻っていた。
全てから魔力を奪っていた力が消え、通常の状態へと戻り始める。
温められているわけではないが、奪われ続けることが止まったことで熱がその場に留まり、徐々に人々へ活気が戻り始める。
体調を崩した者はすぐには回復しないが、手足を蝕み口を塞いでいた冷気が消えたことで人々は一斉に騒ぎ出す。今の冷気は何だったのか、急に元に戻ったのはどういうことなのかと。
そんな中かじかんだ身体をほぐすように父親と抱き合うメリーは、あの少女の声が聞こえたような気がしてならなかった。
蛇に睨まれた蛙が助かる方法などない……喰う側が喰われる側を助けようとしない限りは。
◆
時は僅かに遡り数分前、儀式の場である地下空間。
至近距離から体内の魔力を奪われているアキは、それでもアークから手を離さずにいた。
「アーク……! アーク、しっかりしろ!!」
力が入らない身体、凍傷じみた傷が刻まれた指先。動くことすら億劫で立ち上がることができない以上、もはやアキにできることは目を閉じたままのアークに声を掛けることだけだった。
今の状況とガランの発言から察して、この寒さの原因はアークが周囲の魔力を吸収していることだとアキは目星をつけていた。
この冷気がどこまで広がっているのかはわからないが、ここまでの寒さが地上に広がっているのだとすれば非常にまずいはずだ。しかも、この冷気はアークの身すら傷つけている。
確かにこの寒さが広がってから、アークのひび割れの進行は遅くなった。しかしひび割れ自体は今も続いている上に、魔力を吸収しているはずの本人すら明らかに凍えて傷を負っているのだ。何とかして止めようと声を張り上げ続けるのは当然のことだった。
アキが知るはずもなかったが、それは乱れた魔力パスと割れた器が原因で、魔力が注がれた側から外に漏れるためアークが満たされることはないために起きた現象だった。
このままでは魔力がなくなることによる粉砕か、自身の熱すら奪う過食で命を落とす。
そんなことにさせてたまるかと声を張り上げ、ついに呼び掛けが届いたのか閉じられた瞼が僅かに揺れた。
「アーク!」
逸る心を抑え、身体を揺らさないように慎重に抱き上げながら声を掛け続ける。
「おい、起きろ! すぐにギルド長のところに連れて行く! 絶対助ける、助けるから、起きてくれ!!」
半ば自分に言い聞かせるような叫び、こうなっては強行するしかないと震える膝を叱咤して……ふと、手足の震えが消えた。
「えっ……」
先ほどまでの熱が奪われる感覚が消え、血とともに熱が体内を循環するのがわかった。消えかけていた指先の感覚も僅かに戻り、硬い身体の感触が灯る。
アキの身体を生命の力が廻る、けれどそれは『食事』が終わったことを意味していて。
ピキッと、致命的な音が鳴る。
胸の中心、心臓がある位置に一際大きなひび割れができた。
魔力を喰うことで僅かばかりでも延命していた魔力の源、神の残滓。そこに決定的な亀裂が刻まれる。
何故、唯一の延命処置が止まったのか、それは身体の持ち主がそう望んだからだ。自分の首を絞める行いを、率先して実行した。
気付けば、アークの目が開かれていた。
ひび割れが走る顔はもう表情を読み取ることすら難しいけれど、それでもなぜか笑っていると思った。
呆然と、知らないうちに涙を流していたアキの目元を崩れそうになった指が撫でる。涙を拭き取るその手つきは優しさに満ちていて。
「きみは、いきて」
アキを生かすために延命の可能性すら捨てた少女は、そう言ったきり動かなくなる。
「は……」
死んではいない。だが鼓動は弱まり大した時間もかからず命の灯火は消えるだろう。
優しさしかない、あまりにも綺麗で穢れなき言葉。
彼女の手紙には、自分は偽善者であると書かれていた。かつて受けた優しさに報いるために、その真似事をしているにすぎないと。
だがどうだ? 死の淵に立って尚他者のために動き自身の身を火にくべる、その行いが偽善であると?
結局のところ、アークは救えないほど善人だったのだ。
そうして、誰かを救うために身を差し出した少女の前には一人の少年が取り残される。
腕の中で軽くなっていく感触を前に、彼の胸を占める感情は一つだった。
「ふざけてんじゃねえっ!!!!!!」
アークは何もわかっていない、この程度のことで諦められるくらいなら、アキはそもそもここまで来ていない。
君は生きて? 自己犠牲? 満足した最期? 糞食らえだ!!
その満足したふりをやめさせるためにここまで来た。助けてという言葉を引き出しそれに応えるために無理を通した。諦めなど、とうの昔に捨てている!
アークの行動は立派だろう、自分の身と引き換えに街の全てを守る。それは英雄的ですらある。
だが、そもそもアークは英雄なんかじゃない。あの時助けてと言った一人の少女をアキは見た。誰にも頼れず泣くことすら満足にできなかった、赤子のような泣き顔に英雄などが務まるものか!
いいや、いいや! もはやそれすらどうでもいい!!
アキは、アークのことが好きだ。
好きな子に幸せになって欲しい、目の届くところで笑って欲しい、それがアキの望みで最終目標、そこにアークの献身など関係ない! 死の覚悟など踏みにじれ、救えない善人をそれでも救うために、独善的な願いだろうと無理やりにその手を掬い上げろ!
胸に灯った熱を燃料に頭を回す。どれだけ意気込んだところで方法がなければ実現できない。だが、方法さえわかれば後は駆け抜けるだけだ。
立ち止まっている時間はない、諦めにかまってやる余裕があるほど、アキは賢くも強くもないのだから。
この街に来てから今までの出来事が脳裏を駆け抜ける。それは死の淵で見る走馬灯で、生き残るための悪足掻きだ。
(人体実験、土地神、魔力、ラカの血、巫女、魔法陣、感謝祭、レイス・フィード、方舟、祭壇、儀式……俺の存在)
鼻血が顎から滴り落ちる。限界を超えた身体とは別に動き回る脳が焼ける。
それでも、確かに細い道が見えた。
「……推測ばっかで根拠も薄いが、それでも可能性はある、か」
そして可能性がゼロでない限り、アキが止まることはない。
壊れないよう慎重に、軽くなった身体を抱上げ立ち上がる。腕の中の少女とは逆に重たくて仕方ない身体に鞭打つと反転して歩き出した。
向かうのはここから出るための魔方陣……ではなく、すぐ背後にある祭壇だ。
ゆっくりと、祭壇の上に少女を横たえる。奇しくもここへ乗り込んだ時と同じ状況を作ってしまったが、今からやることはガランがやろうとしていたこととは真逆の行いだ。
時間がない、アークの鼓動は今にも消えようとしている。
僅かに呼吸を整えると、アキも祭壇に登って……
気配を感じた。
何か、途方もなく大きな存在がここにいる。
心の内で冷や汗を掻きながらも、アキは自分の考えが合っていたことを理解する。
ラカ家は代々土地神と交信する巫女を輩出する家系だった。その立場を悪用して行われたのが人造魔族計画であり、その果てに生まれたのがアークだ。
そして、ガランはその計画を発展させるためにわざわざこの場所を選んだ。であれば、ここはアークに、神に関する何かがある場所と考えるべきだろう。
最初にこの祭壇を見た時、アキは誰かに説明されるでもなくただの台を祭壇だと認識した。そこに理由はなく、ただそう直感したのだ。
だから、これが儀式に関わる祭壇なのだと推測し……全身に突き刺さる視線がその考えが正しかったことを証明してくれる。
そしてここからは更に推測、アキの知りうる限りの知識を継ぎ接ぎしたパッチワークじみた考えだ。
ラカ家は巫女を輩出する。では巫女の条件とは何だ?
アキの答えは『認められた血』だ。ここに突入する前、ウーロと呼ばれていたガランの父は魔法陣を通るためには血の登録が必要だと言っていた。そして、何故かアキはその魔法陣を通ることができた。それはアキの血が既に認められているからではないか?
その理由は恐らくレイス・フィードにある。アークは八〇年前、地下水路から脱出艇を使ってレイスを逃がした。その時の逃走経路に使われたのがこの地下空間なのだろう。
アークに……神の力を宿した者にレイスの血は認められた。それゆえにその血を継ぐアキもまた、あの魔法陣を通ることができた。
皮肉な話だ。アークがレイスを助けたことで、今はアキがアークを助けることができるのだから。
そう、助けることができるはずなのだ。
巫女は神と対話することができる存在。では『血』を認められたアキが感謝祭の深夜という絶好の『時』に祭壇という『場』にいればどうなるか……最初から、謁見の条件は揃っていた。
轟、と水音が響く。場を満たすモノは目に映らない、だけどそこにナニカがいる。
それは力だ。絶対的な力であり、何者にも支配されない天上の存在。なるほど、神とはよく言ったものだ。
残滓などとは比べものにならない。そもそも魔力が尽きることなどないだろう。やはりアークの身体に残っていたものとは根本的に違う。
身体が震えた。これは人の手に負えないモノでどうしようもない存在。自然と頭が下を向き、我知らず平伏の姿勢を取る。
こんなモノを人の身に収めようなどと、馬鹿げたことを考える人間がいたものだ。まだ津波に蹴りを入れ雷に殴りかかる方が現実的に思えるほどの力の奔流。気配だけでアキを数万回殺してお釣りがくる絶対の存在。
気圧されそうになる心を叱咤し気配の前に立つ。今からやろうとしていることは、その存在に対峙しなければならないことなのだから。
アークの死は魔力パスから流れ続ける魔力、それが無理やり広げられたことによる身体の崩壊と暴走した魔力が原因で起きた。
ならば、その魔力パスの大元からの介入があれば彼女は助かるのではないか?
確証はなかったが、ガランがその力を利用しようとしたのであれば似たようなことができるのではないかと考えた。
だが、問題なのはここから先だ。今まで断片的に得た情報からこの状況を整えることはできたが、肝心の儀式の内容は何もわかっていないのだから。
もしも儀式に特別な手順や道具が必要なら、ほぼ丸腰である今のアキにできることはない。
いや、それどころかこの『力』に意識があるのかもわからないのだ。神と呼ばれるこれがただの現象であるならば、最悪の場合儀式は力の顕現だけで終わる可能性もある。
神と呼ばれている以上、何かしらの意識を持っているはずだと半ば縋るように予測したが果たしてどうなのか。
そして、アキが意を決してその気配に話しかけようとした時にそれは来た。
「ひゅっ……」
我知らず口の端から息が漏れた。
アキへと、巨大すぎる何かの視線が向けられている。
それに敵意などない。ただ目の前にアキがいて、視界の中に入ったから目を向けただけ。ただそれだけの行為が一人の人間を押し潰そうとしている。
アキの懸念はいい意味で外れていたと言っていい。目に見えないそれに、少なくとも目線を向けるだけの意識はあったのだから。
ただ、そこに在るだけで全てを呑み干してしまう存在の前では、人など路傍の石以下の存在に等しい。
震える身体は寒いわけでもないのに言うことを聞かない。口から出そうとした言葉は痙攣する喉のせいで音にならない。
それは無理もないことだ。今のアキは、津波や地震という、人の手ではどうすることもできない巨いなるモノと相対しているのだから。
涙がこぼれて、ここにいることを死ぬほど恐れて……ひび割れたアークの姿を見て、前を向く。
「か、かみさま……」
震える声はこれ以上ないほど恐怖を体現していて……。
「あんたは、何をやっていたんだ」
震える声で、喧嘩を売った。
「俺はあんたのことを何も知らない、今から話すことも的外れで、ただの八つ当たりなんだと思う」
喉が震える情けない声、だけど視線はまっすぐ前を向いている。
「勝手に利用されて、もしかしたら怒ってるのかもしれない。だけど言わせてください」
ああ、彼は紛れもなく何の力もないただの少年で。
「……何で、泣いてるあの子に手を差し伸べてやらなかったんだ!」
友達のことを思って怒れる、どこにでもいる善人だった。
「俺を見るってことは意識があって、その上であの子と繋がっていたんだろう? あの子の状態をわかってた、なのに何で何もしてあげなかったんだ!」
「俺が何か言える立場じゃないのはわかってる。それでも、あんないい子がずっと泣くのを我慢してがんばってるのを見て、あんたは何も思わなかったのか」
「そんなにすごい力があるのに、何でたった一人の女の子を助けてやらなかったんだ……」
「……こんなことを言っても意味がないのかもしれない。だけど、お願いします」
「あの子を助けてください。何か対価が必要なら俺の……命以外は好きにしていい。喋れなくなろうが、化物になろうがどうでもいい」
「あの子と同じ、明日を歩かせてください」
自分勝手でわがままな言葉の羅列。少女とは違い、自分の命を差し出すことなどあり得ないと言わんばかりの保身。
だって、アキの命を差し出したとしてもそれはハッピーエンドに繋がらないのだ。もしここで命を差し出してアークだけが助かったとしても、あの心優しい少女は泣き喚くに決まっている。
そんなもの、ハッピーエンドでも何でもない。
二人揃って一緒に帰る。そのためなら命だって賭けられる。矛盾しているようで、矛盾していない思いを込めて頭を下げた。
それは祈りと呼ぶにはあまりに傲慢で、だけど誰かのことを想う優しすぎる欲望だった。
自分では駄目だから力を寄越せと、神聖な場に相応しくないボロ切れ纏った小さなモノが放った傲岸不遜な言葉。それに対し、神と呼ばれるモノが何を思ったのかはわからない。
あるいはその言葉を聞き届けたのかもしれないし、そもそも何も感じていないのかもしれなかった。
けれどその時、アキは場に満ちる気配が自身と今にも崩れそうな少女を見たような気がした。
そして、大気を震わせる振動と共に光が場を満たす。
それだけで、気力だけで保っていたアキの意識が刈り取られる。
目を閉じる寸前、砕ける何かが視界に入ったような気がして、
そして────
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