エピローグ セカンド・オブ・ファーストレコード


「よし、と……」


 荷造りを終えると、部屋の中がずいぶんと広く見える。大して散らかしていたわけでもないのに不思議なことだ。

 思いの外長く滞在していた宿の部屋はもう日常の風景となっていたため、いざ出て行くとなるとどこかもの悲しく感じてしまう。


 この街に来た時はパンパンに膨らんでいた背負い鞄は、今となってはすっかり萎んでしまっている。

 最後にその鞄を背負って部屋を出る。軽くなった感触は喪失の証だ。そのことを考えると胸が痛いが、今は考えないようにする。


 今日は、別れの日なのだから。







 快晴の空の下、女のすすり泣く声が響く。


「アークちゃん……アークちゃあん……」


 声の持ち主はアキから受付嬢と呼ばれていた、ある悪癖を除けば仕事のできる女として評判のいい人物である。


 そんな女性が恥も外聞もかなぐり捨てて、公衆の面前で泣いていた。その声は悲痛の色に染まり、彼女が感じている身を切るような痛みを否が応でも周囲に伝えてしまう。

 あまりの様子に彼女を囲むようにして立っている者達の誰も声を掛けることができず、遠巻きに見守ることしかできない。


 彼女がここまで感情を発露させる原因は概ね一人の少女に起因しており、それは今この時も例外ではない。しかしいつもと違うのは、喜びではなく悲しみを叫んでいることだ。


 彼女は今、ある少女との別れの場にいる。子どもの頃からずっと見てきた、姉のようで妹のようでもある少女との長い別れ。

 ずっと一緒だと信じてきたからこそ、別離の時を迎えた際の衝撃は計り知れず、心を引き裂く。


 世界を呪わんばかりに踞り呪詛とも懇願ともつかない慟哭をもらす彼女に、しかし近付く影が一つ。


 その影は両手で顔を覆う受付嬢へと近付くと、目線を合わせるために自らもしゃがみ込む。そして幼子を論すように肩に手をかけて……。




「え一っと、泣かないで? お土産買ってくるから」




「いやああああああ! アークちゃん行っちゃやだあああああああ!」

「いい加減にしろ!」

「ふぎゅる!?」


 旅装に身を包んだアークに泣きつく受付嬢の頭に、ギルド長の鉄拳が落とされた。







 いい年した大人が子どものように泣き叫ぶのを人混みからドン引きしつつ眺めていたアキの元へ、ため息を吐きながらギルド長が歩いてくる。その背後ではまだ泣き続ける受付嬢をアークが必死に宥めていた。

 アキと同じく引きながらそのやりとりを見ていた周囲の見送り人達が気を遣って避けたことで、二人で話ができるスペースができあがる。


「ったく、あいつは……悪いな。しばらくかかりそうだ」

「いや、いいよ。実際話すことは尽きないだろうし」

「そのために別日で送別会やったんだがな」


 今日この日は別れの場。アキと……アークが商業都市から旅立つ日である。




 実に一ヶ月も前、アーク奪還作戦当日。倒れたアークを抱え神と呼ばれる力と邂逅したアキは、光に包まれ意識を失った。

 すぐに意識を取り戻したが、その時にはあの気配が消えていて……そして、残された少年の腕の中で弱々しく消えようとしていた少女が、確かに鼓動を蘇らせていた。


 あの時の気持ちを何と表現したらいいのかアキはわからない。ただ、ぐちゃぐちゃになった感情を吐き出すように、アークを抱きしめてしばらく泣いていた。


 それから先のことはよく覚えていない。気付けばアークを背負って屋敷へと戻っていたようで、そこで大勢の人に囲まれたところで意識が途切れている。


 次に目覚めた時は前と同じ病院のベッドで寝かされていた。目を開けた途端にベッドの横に座っていたアークが泣きながら抱きついてきて、絞め落とされそうになったのはご愛嬌だ。


 助けた側が助けられた側に心配されるとはこれ如何にと思ったが、あとからやって来たギルド長によればアキは丸二日間も眠っていたらしい。無茶をやった自覚はあったが、そこまでだとは思っていなかった。


 ダメージはそれだけでなく、爆炎でできた火傷や魔力を吸われてできた凍傷が身体のあちこちに残ってしまった。

 アキ自身、その程度の傷は最初から覚悟を決めていたのでなんとも思わなかったのだが、アークはそう思わなかったようで泣き続けるのを宥めるのに苦労した。


 そして肝心のアークだが……彼女にもまた大きな変化があった。見送りの言葉を受け取っている彼女の姿を見ればすぐ違和感に気付くだろう。

 異常に肥大化していた身体はほぼ元に戻っているが……元からあった人外の特徴が大きくなっている。身体を覆っていた鱗はさらに面積を広げ、以前は服の中に納まっていた尻尾が大きくなって外に出されている。何より目立つのは大きくなった角で、以前に比べて二倍ほどに膨らんでいるだろうか。


 だが、それ以上に大きな変化がある。

 笑みを浮かべる彼女の顔に、白い傷が入っている。

 その傷は顔だけでなく全身に走っている。あの日……アークの全身に刻まれたひび割れは治ったものの、傷痕となって残ってしまった。

 それを見た時は助け出すことに失敗したのかと思ったが……アークは泣き笑いで否定した。


 彼女とこの土地を繋いでいた魔力パスは消滅していた。それだけならば魔力の供給がないことで彼女は死に至る。

 しかし、魔力パスの代わりのように、新しい器官が彼女の身体に生まれていた。


 それは魔力の炉心とでも呼ぶべき器官。一際大きく刻まれた胸のひび割れに潜り込むようにできたそれは、心臓の鼓動に合わせて魔力を生成する。

 それに身体が適応しようとしたためか変化が発生したが、それ以上の変化があった。

 アークの身体にとって多すぎず、少なすぎない量で……今までの身体に合わない魔力とは違い、彼女を傷付けることがない。


 つまり、彼女は残り僅かだった寿命から解放されたのだ。


 ギルド長を始め、アークの身体のことを調べていた魔術師達は原理がわからないと首を捻っていたらしいが、当の本人達にとっては原理などどうでもよかった。

 その時だけは恥も外聞もなくお互いの身体を強く抱きしめて、声が枯れるほどに泣いた。


 それからは早いもので、アキは治療、アークは身体に異常がないかの検査であっという間に半月が過ぎた。


 その間に聞いた話では、祭当日に街を襲った寒波で体調不良者が続出したらしいが、そのすぐ後に街を謎の光が包み、気付いた時には全員健康体になっていたという。

 その現象については何もわかっていないが、悪魔から街を守った神の奇跡と巷では騒がれていると聞いた時は、流石になんとも言えない表情になったものだ。


 そして今回の黒幕であるガランはと言えば、魔法陣から現れたところを取り押さえられ連行された。

 今は混乱を抑えるために情報が伏せられているが、協力していた者も含め、遠くないうちに沙汰が下されるだろう。


 正直な話、アキにとってはどうでもいい。過去にすがり付く亡霊と、明日を目指すアキはどうあっても相容れないのだから。


 そうして二人とも問題ないとして退院した日、二人はこの街に来た日に訪れた食堂で食事をしていた。

 とこれ以上ない笑顔でゆっくり食事を楽しむアークと、ようやく訪れた穏やかな時間を楽しんでいたアキだが、その時彼女からある話を持ち掛けられたのだ。




「レイス・フィードの墓参りがしたい、か」


 そう呟くギルド長は目を細めている。あるいは昔のことを思い出しているのかもしれなかった。


「自然な流れだと思うけどな」

「わかっちゃいる。が、自分からそれを言い出すとは思っていなかった」


 かつて一緒に街を出ようとして、その身を土地で縛られていたためについて行けなかった人。

 しかし、今のアークは魔力パスで土地に繋ぎ止められていない。完全に独立した魔力炉心によって自由の身を手に入れている。

 であれば街を出ることに問題もなく、かつての恩人の墓参りをしたいという話が出るのも納得できる話だった。


 なので場所を知っているアキに道案内をお願いし、アキもまたそれを了承した。

 ……ここだけの話、アキの所持金は諸事情あって底を尽こうとしているので、一度実家の商店に戻って手伝いをしようとしている事情もある。使い方に後悔はないが、金がなければやっていけないのはどこであっても同じことだ。


 以前のアークであれば、過去への執着から墓参りを提案することもなかったかもしれない。けれど、今のアークは純粋に過去へのけじめと、伝えられなかった想いのために踏み出した。ならば、アキもギルド長もその背中を押してやりたい。


 急な話であったため準備と挨拶回りに時間がかかりまた半月が経過したが、いよいよ今日が旅立ちの日。

 一年後、次の感謝祭にはまた商業都市に戻ってくるという話だが、それまでは二人旅ということになる。


 その見送りに来た大勢の人達が、アークがどれだけ愛されているかの証拠であり、アキは頬が緩むのを止められなかった。


 そんな中、ギルド長は何を考えているのか首を捻っていた。


「何だよその顔。納得いってないって顔してるぞ」

「……いくら考えてもアークが助かった理由がわからん。神と呼ばれてようが何かの魔法、魔術系統を使ったはずだ。そもそも何で儀式を介さないお前の声に耳を貸したのか……」

「方法はわからないけど、理由なんて決まりきってるだろ」

「ほう?」


 目線で答えを促すギルド長に対して、アキは多くの笑顔に囲まれて笑っているアークを眺めながら言う。




「あんなに優しい子ががんばってるとこをずっと近くで見てたんだ……神様だって、いいやつには報われて欲しいと思うだろ」




「……ははっ!」

「いった!? 何すんだよ!」


 その言葉を聞いたギルド長は驚いたように目を見開いた後、ニヤリと笑って思いっきりアキの背中を叩いた。

 突然のことに恨みがましい目を向けるアキに、どこか子どものようなからかう笑みを浮かべた。


「いや、そんだけ簡単に考えられたら世の中もっと楽になると思ってな」

「含みがあるな……どうせ俺は単純だよ」

「まあそう言うな。調べた限りじゃ問題ないとは思うが、あいつのことを頼んだぞ」

「わかってる。気をつけて見ておくよ」

「ならいい……おいお前らいつまでやってんだ。日が暮れちまうぞ」


 そう言うと、ギルド長は再び人波をかき分けてアークと話し込んでいる見送り達の某へ歩いていく。

 その様子をてからアキもそちらに行こうとして……ふと、視線を感じた気がして街を囲む外壁の方を振り向いた。


 そこには何もいないし、あの時感じた気配も感じない。

 あの時神様が何を思っていたのかはわからないけれど、二人は並んでここにいる。

 そのことを考えて、ゆっくりと姿勢を整えると街の方へと頭を下げた。

 それで何かが変わったわけではないけれど、本来はこれが正しい神様との付き合い方なのだろう。


 後ろから自分を呼ぶ声に返事をして、今度こそアキは歩き出した。







「みんなーっ、またねー!!」


 手を振る影が遠ざかっていく。それに応えて大勢の人間が手を振り返すものだから、相手もまた振り返す。

 いつまでも終わらないその光景に嘆息しながらも、ギルド長もまたゆるゆると手を振っていた。


 その隣で涙と鼻水で顔中を濡らしたまま手を振る受付嬢は、ギルド長の口元が珍しく笑みを形作っていることに気付く。


「ずびっ……どうしたんですかギルド長。何だかおかしな顔ですよ」

「今のお前に比べりゃどんな顔だってマシだろうが」

「だってアークちゃんに一年も会えないんですよ! ああ、人類の損失……!」

「そうかい、それはともかく仕事の続きだ。ガキに任せられない後始末がまだ残ってる、とっとと戻るぞ」

「あー待ってー! せめて見えなくなるまでここにいさせてーっ!」

「本当に日が暮れるわ」


 未練がましくその場に残ろうとする受付嬢の首根っこを掴み、ギルド長は街へと戻る。

 まったく、笑顔で送ることこそが餞になるというのにこの女はどうしようもない。それがわかっていながら我慢できなかったほど、アークのことを好いているという証なのだが。


 自身の胸中を占める感情と、油断すれば何かが零れ出そうな目頭。けれどギルド長の口元には確かに笑みが浮かんでいた。


(いいやつには報われて欲しいと思う、ね)


 まったくもってその通りだ。当たり前すぎて忘れがちな気持ちを持ち出されては、あれこれ考えていた自分が馬鹿らしく思えてしまう。

 しかし、言った当人は自分がいいことをしたという自覚がないと見える。だから、ギルド長がどれだけ感謝しているかを理解していないのだろう。


「さて、いったいいつ気付くことやら」


 さっき背中を叩いた時に、ギルド長が小さな封筒を鞄に入れたことにアキはまったく気付いていない。

 その中には小切手が入っていて、商業ギルドに持っていけば相当な額と交換できる。


 あの馬鹿は今回の事件で使った金を補填する当てもなかったようだが、あんな大金を用意するには今までの稼ぎをほとんど使ったはずだ。なのにそれを誰にも言わず立ち去ろうなどと、かっこつけるにも程がある。

 何より、そもそもはギルド長が依頼を出すことでアキがこの街へやって来て、依頼の報酬はまだ決まっていなかったのだ。あちらが忘れている以上、こちらが勝手に報酬を決めても文句はあるまい。


 そんなわけで自分が素寒貧だと思い込んでいる少年の鞄の中には、今回の騒動で彼が使った金額にギルド長が色をつけた報酬が入っている。

 報酬のことを忘れるなど商人失格と言わざるを得ないが……あの馬鹿がつくほどのお人好しがこれから何をやらかすかに、ギルド長は期待してしまった。あれはその先行投資といったところだ。


 それを気にするようなら、次来る時にまた菓子を買ってきてくれればいい。旅で見た景色を、出会った人を、二人の口から語られる思い出を菓子と一緒に味わい三人でテーブルを囲む。その光景を想像するだけで笑みが深まった。


「楽しみで仕方ない明日をありがとよ。アキ、アーク」


 そうして、誰にも聞こえないような小さな声で呟いて、ギルド長の背中は街の中へと消えていった。







 豆粒ほどの大きさにしか見えなくなった見送りの人達に、アークはまだ手を振っている。

 後ろを向きながら歩いているものだから少しずつしか前に進めないが、アキはそれを咎めることをしなかった。


 街道は日の光で照らされ、草花が風に揺れている。どこからか聞こえるせせらぎの音と、空を舞う鳥の声が交差する。

 長いこと旅をしてきたアキにとっては見慣れた景色だが、アークにとっては初めてのことだらけだろう。地下港からの移動は便利だが、景色を楽しむことができないためわざわざ徒歩での道を選んだのだ。その初めてを邪魔するような無粋な真似はしたくない。

 籠の中から眺めるしかなかった光景の中を、少女は今歩いているのだから。


「ありがとう」


 いよいよ手を振る影すら見えなくなったタイミングで、アークは隣をわざとゆっくり歩いてくれていた少年に語りかける。


「どうした急に。っていうか何のお礼だ?」

「何だろうね……僕にもわかんないや。君にはお礼を言いたいことが多すぎる!」

「なんだそりゃ」


 けらけらと笑うアークにアキは戸惑うが、彼女はそれに取り合わず、少しだけ歩く速度を上げて前に出る。

 それから立ち止まって振り向くと、アキの目に少女の全身が映る。


 初めて会った時から随分と変わってしまった姿。それはアークがこだわっていた人間の姿からは遠ざかっているが、彼女がそれを隠す素振りはない。

 顔を隠していたフードは被っていないし、どこかに消えてしまったコートの代わりにアキが見繕った外套は少女の身体に合ったサイズで、ぶかぶかだったコートに比べていくらか露出が上がっている。

 服の隙間から覗く鱗や大きくなってしまった角は隠したがっていた異形の証であるけれど、そんなことはまるで気にせず、少年に向けて満面の笑みを見せた。




「本当にありがとう、を助けてくれて!」




 その笑顔に、アキの心が揺れた。

 注ぎ込まれた感情は温かくて、彼の胸の内を満たす。


 ああ、最初は面倒ごとを持ち込まれて関わりたくないと思っていて、結局絆されて……正直今でも自分の身に余ることばかりだと思っているけれど、この手の中にある明日、それだけで十分だった。


 鱗とひび割れに覆われた手が差し出され、その上に火傷と凍傷が刻まれた手が重ねられる。


 横に並んだ二つの影は、同じ明日へと歩いていく。

























 暖かい日差しが降り注ぐ中、風が唸りを上げている。

 街で一番高いこの建物の上は、役所に管理されている上に立ち入ることも難しい程に風が強く、 時折見回りを行う者が訪れるくらいで滅多に人はやって来ない。


 ただ一人、毎日やって来る変わり者がいたのだが、今はその姿もない。


 その代わりに、外壁の上を囲む柵の一つに黒い何かが引っ掛かっていた。


 一見するとただの布切れのように見えるそれは、よく見ると元はコートだったことがわかる。

 いったいどんな扱いを受けたのか、穴だらけのコートは細い糸でかろうじて繋がっているばかりで、今にもほどけてただの布になろうとしている。


 けれど、それはまだ元の形を留めていて……風にはためく袖が、遠く見えなくなろうとしている影を見送るため、手を振る誰かの姿のように見えた。


 一際強い風が吹いて、風がコートを吹き飛ばす。

 ついに破けたその黒は、千々に別れて空へと消え……その風が、街道を歩く誰かの背を優しく押した。




 一度目の出逢いと別れは受け継がれ、二度目の始まりはここから紡がれる。


 二度目にして始まりの物語セカンド・オブ・ファーストレコード、二人の道は誰も知らない明日へと続いていた。








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