蝗災の脅威と盧植の後任
盧植の話を聞いた俺たちのあいだに、なんとも言えない空気が漂った。
俺の知っていた三国志のとおり、盧植の戦略を左豊が邪魔をした、っていうんなら、宦官どもの悪口をいってスッキリすればいいのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。
黄巾軍を包囲し、持久戦の構えを見せた盧植の戦略に間違いはないだろうし、かといって皇帝の命を受けて早期決戦を促した左豊もまた、彼の仕事をしたに過ぎない。
包囲されている太平道の連中だって、やむにやまれず集まった人たちだ。
じゃあ彼らを追い詰めた漢の国がそもそもの元凶か? と問われると、そうとも言い切れない。
「先の
盧植が力なく呟く。
蝗災というのは、いまでいう
先代の桓帝の晩年、毎年のようにこの蝗災が発生しており、そのころから住民はかなり不満を溜め込んでいた。
それでも暴発しなかったのは、今代の霊帝こと劉宏に代替わりしてから、その蝗災がピタリとやんだからだ。
『蝗』の字が『虫』へんに『皇』と書くのは、蝗災をどう治めるかで皇帝の真価が問われる、という説があるほど、この国は古来より蝗災に悩まされている。
なので、代替わりと同時に蝗災が止んだことで、今度の皇帝は天命に恵まれているかもしれない、という期待をもたれたようだった。
まぁ、フタを開けてみれば、売官制度なんてもの生み出した守銭奴だったわけだけど、それでも蝗災よりはマシだった。
しかし喜平6年、いまから8年ほど前に、大規模な蝗災が発生した。
これにより飢民が激増し、なにより蝗災を防げなかったということで劉宏に天命なしと見る動きが加速した。
それが、太平道の乱につながったようだ。
いや、皇帝にそんな神通力みたいなものを期待するほうが無茶ってもんなのだが、この時代に生きる人たちにとってはそれが最後の希望みたいなものだったんだろうなぁ……。
もちろん、漢の国の責任が皆無ってわけじゃない。
売官制度なんてものがなく、役人が正しく働いていれば、蝗災が起きたあとの対応も少しはマシなものになっていたかもしれない。
だとしても、なにかしらの叛乱、あるいは暴動みたいなものは、避けられなかったんじゃないかな。
蝗災が恐ろしいのは、干ばつのあとに来るってところだ。
すでに干ばつでダメージを受けたところに、西の果てから飛蝗の群れがやってきて、残り少ない食料を片っ端から食い尽くしていく。
蝗災、あるいは蝗害と聞くと「イナゴの群れでしょ? 食べればいいじゃない」なんてことを、実は俺も昔考えたことがあったんだけど、それは無理だ。
そもそも蝗災で飛んでくるのは日本の一部地域で食べられてるイナゴじゃなくて、トノサマバッタだからな。
まずもって食べられたもんじゃない。
しかも連中は移動の過程であらゆるものを食べる。
草木はもちろん、動物も食うし、場合によっては土も食う。
毒のあるものも平気で食う。
そして死んだ仲間の死骸も食う。
その過程で、いわゆる生物濃縮みたいなことも起こるので、飛蝗の群れは毒の塊みたいになっているのだ。
そして、群れが去ったあとにはすべてを食い尽くされた荒野と、毒の塊みたいな飛蝗の死骸が残る。
控えめに言って地獄だよな。
俺も最初は国がちゃんと対応してればなんとかなったんじゃない? と思ってたけど、蝗災ってやつの話を聞くと、こりゃどうしようもなかったかもな、って思うようになった。
日本海に守られてるおかげで蝗災とは無縁な元日本人には、想像もつかないことだったよ。
「運が悪かった……」
思わず呟いてしまった。
そんな俺に、全員の視線が向く。
特に、盧植の目が怖い。
このおっさん、デカいし。
「あ、いや、その……」
なんとか言い訳しようとうろたえていると、盧植の目元がふっと緩む。
「そうだな、天命というほかないのかもしれん……」
みんな考えることは同じってことか……。
「ところで先生、後任は誰になったのですか?」
重苦しい空気を打ち破るように、劉備が声を出す。
「さて、私は聞いていないのだが……」
そう言って盧植は、鄒靖に目を向けた。
「東中郎将の
「おう、
董仲穎……あの
「うむ、彼であれば、うまくやりとげてくれるだろう」
ところがどっこい、董卓はなんやかんやと理由をつけて、ちーっとも戦わないんだよな。
「先生は、董将軍をご存知なのですか?」
「ああ。彼は異民族とうまく折り合いをつけて、
そうだった。
この場合、戦わないのが正解だったんだ。
いかんな、どうしても董卓に対しては悪いイメージが先行してしまう。
どうやら盧植は董卓を高く評価しているようなので、彼の
「あの、失礼ですが、盧将軍から見て、董将軍とはどのような人物でしょうか?」
俺がそう問いかけると、ふたたび盧植の視線が俺を捉えた。
……だから、真顔で見られると怖いんだって。
「ふむ、君は?」
あ、そういえば名乗ってなかったな。
「先生、彼は私の友人で
「そうか」
劉備の紹介に、盧植は目元を和らげて頷いた。
元の教え子に仲間ができたことを、喜んでいるようだった。
「董仲穎の話だったか。そうだな、彼がいなければ、
漢は涼州を放棄していたかもしれない、といえば、かの人物の有能さをわかってもらえるのではないかな」
「ほう、それほどまでの人物ですか」
盧植の評に、劉備が感嘆の声をあげる。
対して鄒靖は、納得したように頷いているので、官軍において彼はかなり高く評価されていることがわかった。
後漢において、実は何度か涼州を放棄しようという意見が出ていた。
理由は異民族の侵攻。
涼州は、
だから、いっそのこと捨ててしまおうぜって言いたくなるほどの激戦区なのだが、ぎりぎりのところで踏みとどまっているという状況だ。
涼州維持の現在における功労者が、董卓というわけだ。
彼は武人としてかなり優れていた。
特に騎射が得意で、左右どちらにも矢を放てるという特技が有名だ。
そして彼は、異民族をただ武力で押さえつけるわけではなく、彼らとの交流をはかって、うまく涼州を治めていた。
つまり、外交官としてもかなりの能力を持っていたわけだ。
……あれ、董卓ってめちゃくちゃ有能な人じゃない?
「彼が
司隷校尉ってのは洛陽を含む漢の中央地域である
東京都を管轄する警視庁のトップ、警視総監によく例えられるな。
「彼を洛陽に招いて大丈夫でしょうか?」
董卓を洛陽に呼び込むなんてとんでもない! って意識があるので、ついそんなことを尋ねてしまう。
「うむ、彼ならどのような官職についても、うまくやってくれると思うが」
ただ、盧植は特に問題ないというか、むしろウェルカムな感じだ。
実際、これまでの功績だけを見たらかなりの好人物ではあるんだよなぁ。
「そうですね……じゃあ、彼がさらに高い役職に就いたらどうでしょう?」
「ふむ……あの男であれば三公でもなんとかやり遂げそうではあるが」
「いえ、それ以上の、たとえば……」
董卓が就いたやつ、なんだったかな……。
あ、そうだ、思い出した!
「
「相国とは、あの高祖に仕えた
「ああ、はい、それです」
驚いたように目を見開いた盧植は、ほどなく豪快に笑いはじめた。
「はっはっは! さすがの董卓もそれほどの器ではないよ」
どうやら笑い話程度に捉えられたらしい。
「そもそも相国というのは天子に次ぐ権力を持つとはいえ、漢のはじめに蕭何、曹参、
漢は漢でも前漢の最初にちょこっとだけあった役職に、自分と同格だった董卓が就くというのは、彼にとって……というか、この時代の誰にとってもファンタジーのようなものなのかもしれない。
「でも、実際にそうなったら、どうなると思いますか?」
「ふむう、そうだな……」
路側は腕を組み、うつむいて考え込む。
そしてほどなく、顔を上げた。
「人は己の器にそぐわぬ大きな力を得たとき、萎縮してなにもできなくなるか、暴走して自滅するかのどちらかではないかな」
なるほど……。
「まぁ、相国云々はともかく、董仲穎なら張角をうまく抑えてくれるだろう。だから、劉備よ」
そこで盧植は、元弟子に真剣な眼差しを向ける。
「できる限りでいい。官軍を助け、1日も早くこの不幸な動乱を治めてくれよ」
「はい、先生」
師の言葉に、劉備は深く頭を下げるのだった。
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