盧植の戦い

 最初に言っておくが、官軍は強い。


 守銭奴のぐうたら皇帝、脚を引っ張り合う宦官と外戚、それらにおもねる官僚だけが残り、まともな士人はとうきんによって官職に就けなくなった。

 なので、乱れに乱れまくっている後漢末期においては軍も腐敗しているかに思われがちだ。


 実際、曹操の父であるそうすうは軍の最高位であるたいを金で買ったし、現在大将軍の地位にあるしんは皇后の兄というだけで大した実績を持たない。

 しかし太尉も大将軍もいわば名誉職のようなもので、軍権は腐敗していようとも、実際に戦う軍そのものは腐ってはいなかった。


 漢帝国は東の日本海を除き、西南北が異境に面している。

 外敵に囲まれているわけだ。

 がんせんきょうさんえつといった各地の異民族たちは、隙あらば漢の地を脅かし、官軍はそれに対抗し続けてきた。


 また、ここ数代の悪政にしびれを切らした者たちが、あちこちで叛乱を起こしていた。

 太平道はその最大勢力というだけで、彼らが蜂起する以前から各所で小さな叛乱は起こっていたし、治安が悪くなれば盗賊なども横行する。

 もちろんそれらに対応するのも官軍だ。


 つまり、官軍は常に内外の敵と戦い続けていたわけだ。

 そんな官軍が、弱いわけがない。


 訓練が行き届き、数多くの実践を経験している兵は精強であり、盧植や鄒靖といった将校も有能なのだ。


 何度も言うが、官軍は強い。


 そんな精強な官軍を相手に、食い詰め者の集まりである黄巾軍がまともに戦えるわけがなかった。

 軍経験者や兵法に通じている者が多少いたところで、勝負にはならないのだ。


 洛陽を出て北東に進んだ盧植は、大賢良師張角率いる黄巾軍を相手に連戦し、連勝した。

 そしてしゅうきょ鹿ろくぐんにまで追い返し、こうそうけんに追い詰める。


 張角らは城に引きこもった。

 城といっても、城壁に囲まれた大きな町なので、城下町まるごと収まっている場所、くらいに思っておいていいだろう。

 つまり、相当な人数であっても、長期間生活ができるだけの拠点である。


 盧植はその周りを、官軍で包囲した。

 馬防柵や板を組み合わせた防壁のうしろに幕舎を建て、簡易の砦を築く。

 さらにうんていをいくつも用意し、張角が篭もる城の城壁を越えて攻撃できる態勢も作った。


「将軍、準備は整いました。いつでも攻撃可能です」


 副官の報告に、盧植はため息を漏らす。


「いや、攻撃はせんよ」

「は?」


 指揮官の言葉に、副官は首を傾げる。


「しんどかっただろう、これまでの戦いは?」

「それは……」


 戦いというよりも虐殺に近い行為を思い出した副官は、顔を歪める。


「もう、充分ではないかな」


 これ以上黄巾軍を相手に戦えば、官軍はだめになる。

 盧植はそう判断し、途中からは敵を倒すというより、追い払うような戦いを心がけていた。

 鉅鹿郡に拠点があるのは知っていたので、そこへ誘導するように。

 そして盧植の思惑通り、張角は城に引きこもった。


「あとは連中が降伏するまで、気長に待つとしよう」


 城を完全に包囲し、物流は断った。

 その気になれば、攻撃できるぞという姿勢も見せている。

 あとは我慢比べだ。

 それに、ここで敵の首領である張角を足止めすることは、他方面へ向かったこうすうしゅしゅんへの援護にもなる。


 張角が降伏すれば、乱は平定される。

 また、張角を包囲し続けることで動きを制限された黄巾軍をたの軍勢が鎮圧すれば、それはそれでこの動乱も終息に向かうだろう。


 そんな思惑から積極的な攻撃をしないと決めた盧植だったが、朝廷はそれを許さなかった。


○●○●


 叛乱の早期終結を望む天子、およびその周辺の宦官や外戚たちは、一向に張角を攻める様子のない盧植にしびれを切らし、視察団を送った。

 その視察団を率いていたのが、宦官のほうだった。

 左豊は若く、中性的な顔立ちながらも、宦官にしては珍しくどこか精悍な雰囲気を思わせる容姿と、雰囲気の持ち主だった。


「盧将軍、天子はすみやかな乱の平定をお望みです。いますぐ攻撃を開始し、張角を討伐してください!」


 左豊の言葉にわざとらしく大きなため息をついた盧植は、副官を呼んだ。

 呼ばれた副官は、一抱えもありそうな麻袋を、左豊の前に置く。


「これは……?」

「それを持ってさっさと帰るがいい」


 面倒くさそうにそう言った盧植は、左豊に向けて小さく手を払う。

 麻袋には、銀が詰まっていた。

 賄賂をくれてやるから、さっさと帰れというわけだ。


「ふざけるなっ!!」


 左豊が、目の前に置かれた麻袋を振り払う。

 袋の口から、銀の粒がじゃらりと漏れ、飛び散った。

 予想外の反応に、盧植も副官も、目を見開く。


「私は陛下の心を安んじたいがために……ただその一心でここへ来たのだ!! それを……このような……」


 左豊はうつむき、拳を握りしめた。

 覗き見える目には涙が溜まり、しかし泣き出さないよう耐えるように歯を食いしばり、全身を震わせている。

 そんな彼と、まき散らされた銀とを交互に見た盧植は、その場で深く頭を下げる。


「すまなかった」


 その言葉に、今度は左豊が驚き、顔を上げる。


「どうやら君という人を見誤っていたようだ」


 そう言って頭を上げた盧植の顔に、左豊を宦官だからと侮る様子は見えなかった。


「ならば……」


 話を聞いてもらえそうだと思った左豊は、服の袖で一度涙を拭い、そのまま幕舎の外を指さす。


「いますぐ総攻撃をかけ、反逆者たちを討伐してください!」


 その進言に対して、盧植は真剣な表情のまま首を横に振る。


「反逆者ではない。漢の民だ」


 静かに告げられた言葉に、左豊が息を呑む。


「張角を討てば、この叛乱は一応の終息を見るだろう。だが、だからといって太平道の信者たちが消え去るわけではない」


 太平道信者のほとんどが、食い詰め、生きる術を失い、救いを求めてそこへとたどり着いた者たちだ。


 彼らの心には、漢の失政に対する恨みがある。


 もしここで、まだ各地に散らばった太平道の勢力が大きいままの状態で張角を討てば、指導者を奪われたという新たな恨みが信者の内に芽生え、下手をすれば暴発する恐れがある。


 叛乱を鎮圧後、信者たちにはまた漢の民として生きてもらわなくてはならい。

 しかしここで暴走を許してしまうと、彼らは殉教精神のもと、死に絶えるまで戦い続ける恐れもあるのだ。

 それを鎮圧できない官軍ではないが、それだと国に残るダメージがあまりにも大きすぎる。


 なので、いまだ組織的な動きをしている内に少しでも勢力を削いでおきたい、というのが盧植の考えだった。


「張角が降伏してくれるのが、一番なのだがなぁ」


 トップである張角が降伏し、彼自身の言葉で太平道を解散させる、というのが理想的な終わり方であり、盧植はそれを望んでいた。


「話が、通じますか……?」


 左豊が、不安げに尋ねる。

 彼からすれば、というか、大半の者からすれば、太平道とは狂信者の集まりにしか見えない。

 実際末端の信者には、そういった者が多いのも事実だ。


「下はともかく、上は通じるだろうな」


 洛陽に潜入し、皇帝を引きずり下ろす。

 それが失敗したあとも、洛陽を包囲し、各地で組織的な叛乱を起こす。

 上層部には、それを考える頭があった。

 であれば、勝ち目がないと判断した場合、降伏する可能性は、ゼロではない。


「どれくらい、かかるでしょうか?」

「さて、あの城にどれほどの備蓄があるかな」


 城は完全に包囲されているため、あらたに物資を運び込むことは不可能に近い。

 だが、それなりの規模の町である。

 こいうときのために備えていた可能性もあるだろう。


「半年か、1年かあるいはもっと……」


 盧植の言葉に、左豊は申し訳なさそうに小さく頭を振る。


「それほどのあいだ、天子のお心を乱すわけには……」


 盧植と左豊とでは、見ている方向が違う。

 太平道の乱を平定する、と言う部分は同じだが、盧植はその後の治世を、左豊はあくまで皇帝個人の心の安寧を重視していた。


 結局、ふたりの意見が交わることはなかった。



 洛陽に戻った左豊は、ありのままを報告した。

 盧植の考えについてもそれとなく伝えてはみたが、張角さえ倒せば万事解決すると思い込んでいる皇帝やちゅうじょう――宦官の上層部――には彼の真意をくみ取れなかった。


 結果、盧植は任を解かれ、厭戦の罪で囚われるのだった。


 

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