恩師の凶報

 早朝、目覚めると田豫はまだ眠っていた。

 どうやら華佗先生の薬が効いているようだ。


 彼を起こさないよう幕舎の外に出た俺は、水で喉を潤したあとラジオ体操を始めた。


 これは前世からの日課だ。


 デスクワーク中心の生活になると、どうしても運動不足になる。

 実際、俺もしばらく原因不明の体調不良が続いたことがあったのだが、同僚のひとりが運動不足が原因だろうと言い、ラジオ体操を勧めてくれた。

 最初は馬鹿にしつつも懐かしさもあり、遊び半分で始めたのだが、これがこう覿てきめんだったのだ。

 以来俺はラジオ体操を毎朝の日課とし、簡雍になってからも続けていたのだった。


「朝っぱらからなにしとるんや?」


 そんなラジオ体操真っ最中の俺に、声をかけてくる者があった。


「お、ファディ先生。おはようございます」

「華先生と呼べ、華先生と」

「これは失礼しました、元化どの」

「……それもええな」


 あざな呼びされた華佗先生は、まんざらでもないような表情を浮かべる。


「で、さっきからなにしとるんや?」

「これはですね……」


 さて、なんと言おう。

 ラジオ体操と言ったところで伝わるはずもないしな。


「なんというか、身体をほぐしているのですよ」

「身体をほぐす? どういうこっちゃ?」

「えーっとですね、寝起きとか、長いこと同じ姿勢を続けたあととかって、身体がガッチガチになるでしょう?」

「せやな」

「その状態でいきなり身体を激しく動かすと、怪我したりするじゃないですか」

「そういうことも、あるやろな」

「そういうのを事前に防ぐために、軽く身体を動かしてほぐしているわけですよ」

「なるほどな……」


 どうやら納得してもらえたようだ。


「ジブン、やっぱおもろいこと考えるなぁ」

「そりゃどうも」


 華佗先生は後年、『きん』という健康体操を考案するのだが、この会話が参考になったかどうかは不明だ。


○●○●


 鄒靖率いる官軍、およびそれに同行する義勇軍は、その後も南進を続けた。

 散発的に発生する黄巾軍との戦闘は、相変わらずだ。

 連戦連勝といえば聞こえはいいが、弱すぎる敵を蹴散らす行為は、精神をゴリゴリと削られる。

 官軍、義勇軍とも、表情は優れない。


「あと何日もしないうちに、洛陽だな」


 行軍中、ふと劉備が懐かしげに呟いた。

 曹操、袁紹、そして菅長生と名乗っていた関羽と出会ったあのときから、もう十年の歳月が流れている。


 そんなある日のこと、しゅうきょ鹿ろくぐんで太平道のボス張角を攻めていたしょくが任を解かれ、捕らえられたとの報が舞い込んできた。


 その事実を知った劉備は、慌てて鄒靖の幕舎を訪れた。


「鄒校尉、盧将軍が捕らえられたと聞いたのですが、本当ですか!?」

「ああ、俺もつい先日知ったばかりなのだが、よくその情報を手に入れたな」


 官軍の連絡網に遅れること数日で情報を得た劉備に、鄒靖は感心しているようだった。


「そんなことより、詳しい話をお聞かせ願えませんか? 盧将軍は私の師なのです」


 劉備は幼いころ、同郷のよしみで盧植に師事していたことがあった。


「ああ、いいだろう」


 このころになると、鄒靖の劉備に対する信頼度はかなり高まっており、必要とあらば軽く機密に触れるようなことも教えてくれるようになっていた。


「盧将軍が張角を相手に連勝していたのは知っていると思うが……」


 盧植に追い詰められた張角は、鉅鹿郡東南にあるこうそうけんに立て篭もった。

 盧植は張角率いる黄巾軍の立て篭もる城の周囲に砦を築き、うんていという攻城兵器を作らせた。


 雲梯ってのあれだ、学校の遊具にある『うんてい』の元になったもので、大きなハシゴで城壁なんかに取り付くため兵器だ。


 そうやって城内をかんできる状況を作り、あとは弓やらおおゆみ――クロスボウみたいなもん――やらで攻めるだけ、というところまで準備が進んでいた。


「そこまで準備が整っていながら、なぜ……?」

「盧将軍は敵を包囲するばかりで攻める気がない、と報告されたからのようだな」


 劉備の疑問に、鄒靖は淡々と答えた。


「そんな、盧将軍のような勇将が……」


 劉備のお師匠さんということで、なにやら線の細い文化人みたいな印象をもたれがちな盧植だが、実際は各地の叛乱やら異民族の侵攻やらを鎮圧した実績のある人だ。

 太平道の乱においても、張角を相手に善戦し続けたわけだし、劉備の言う勇将という評価は正しいだろう。


「朝廷の命を受け、現地の視察を行ったのは宦官の左豊という者らしいが……」

「宦官!? もしや、盧将軍は陥れられたのでは……?」


 張角を包囲した盧植のもとに宦官が視察にくるって話、なんとなく覚えてるな。

 たしかその宦官に賄賂を贈らなかったせいで、謂われのない罪を着せられたんだったか。


「さて、どうだろうな」


 鄒靖はそう言って腕を組み、難しい表情でなにやら思案していたが、ふと顔をあげて劉備を見た。


「気になるなら、直接聞いてみるか?」

「え?」


 突然の提案に、劉備が間抜けな声を上げる。


「将軍を収監したかんしゃは洛陽を目指しているからな」


 俺たちも南へ向かう前に一度洛陽を経由する予定だ。

 どうやら盧植を乗せた檻車が近くを通るようなので、タイミングを合わせれば出会えるということだった。


「ぜひ、お願いします!」


 劉備はそう言って、鄒靖に頭を下げた。

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