穏やかな日
劉備が関羽とつるむようになって、数年が経った。
俺が簡雍になって、5年以上になるかな。
こっちの不便な生活にも、自分が簡雍であることにもすっかり慣れてしまった。
ある日目がさめたら、狭い部屋のほこりっぽいベッドにいるんじゃないか、なんてことを考えていたのも、最初の1年くらいかなぁ。
「はぁ……」
この日、俺は劉備の家の縁側に座って、ぼんやりと空を眺めていた。
いつも話し相手になってくれる張飛も、劉備も、そして関羽もいなかった。
ひとりぽつねんと、縁側ですごしていた。
このところ劉備はよく村を空けていた。
あれからどんどん世の中は物騒になっている。
凶作、疫病、盗賊の横行、怪しい宗教、小規模な叛乱、役人の不正……悪いニュースばっかり耳に入ってきた。
それでも、この村は変わらず平和だった。
たぶん、劉備と関羽と張飛とが、いろいろと走り回っているおかげもあるんだろう。
最初のころは俺も彼らについていったが、洛陽での事件よろしく、劉備らの行く先では
あのときは、
それでも、思っていたより平気なのは、俺が簡雍になったことで、精神に何かしらの影響があったからだろうか。
ただ、少々神経が図太くなったからといって、進んで人が死ぬ現場に居合わせたいとは思わない。
どうせ遠からず世が乱れれば、いやでもそういう光景を見続けることになるんだ。
だったらそれまで、のんびり過ごすのもいいだろう。
「ヒマだ……」
のんびり過ごすのはいいが、とにかくヒマだった。
この時代にはテレビもラジオもマンガもアニメもライトノベルもなにもない。
娯楽がないので、時間がありあまっていた。
いずれ世の中が乱れるのはわかりきっているので、自衛のために張飛から棒術を習っていて、自主練は欠かしていないが、そう何時間も鍛錬できるもんじゃない。
あと、乗馬の訓練もしているけど、村にいる数頭の馬は、劉備らが出かけるときには乗っていってしまうので、今日は練習できないのだ。
「お茶でもいかが、
柔らかな女性の声に、俺はぼへーっと上げていた顔を下ろした。
穏やかな雰囲気を纏った女性が、
「ああ、
そのたおやかな佇まいに、俺は軽く胸を高鳴らせながら、わたわたと姿勢を正した。
にっこりと微笑んだ目尻や口元にしわが見え、頭にも白いものが少し混じっているが、肌や髪にはまだまだ艶がある。
胸部の膨らみに視線が固定されそうになり、慌てて目を逸らした。
「ふふっ」
蓉さんがクスリと笑ったのは、俺の視線に気付いたからかな。
女の人は胸を見られるとすぐにわかるっていうし。
「隣、いいですか?」
「え、ええ。どうぞ」
すぐ隣に蓉さんが座る。
身体がほぼ密着しているため、ほどなく彼女の体温が伝わり、漂う汗の匂いが鼻を突いた。
「はい、お茶」
「ああ、どうも」
上目遣いにこちらを見る、蓉さんに差し出された椀を手に取り、ずずっとすする。
お茶といっても、俺が日本で飲んでいたものじゃなく、庭先にある桑の葉で淹れたものだ。
これが結構美味しかったりする。
「いい天気ですね」
半分ほどお茶を飲んだあと、ひと息ついてそう呟いた。
「そうですね。いい天気です」
そこから、なんでもない雑談が始まった。
ヒマだヒマだといいながら、俺が劉備に同行せず、村の中を歩きもせず、ぼんやりと家の軒先で過ごしているのは、こうやって彼女と話をするのがなにより楽しいからだ。
劉備の母親である蓉さんと出会ったとき、つまり俺が簡雍になったばかりのころ、彼女は三十代前半だった。
劉備の母親と言えば、病弱な老女というイメージがあったので、少し驚いたのを覚えている。
以前の俺とあまり変わらない年頃だったので、彼女とはすぐに打ち解けたんだけど、劉備は俺たちが仲良くしている姿を見るのは、あまり好きじゃないみたいだ。
まぁ多感な年頃だし、しょうがないよな。
「あの子はこの先、どうなるのかしら……」
とりとめのない会話がふと途切れ、しばらく沈黙が続いたあと、蓉さんがぽつりとつぶやいた。
「さて……皇帝にでもなるんじゃないですかね」
彼女の声になんとなく憂いが感じられたので、俺は少し冗談めかしてそう言った
すると彼女は、くすりと笑って俺を見た。
「ふふっ、
庭先の桑の木が、皇帝の乗る馬車に似ているせいか、“この家からはきっと貴人が出るに違いない”なんてことを言う人が、たまにいたそうだ。
子供のころの劉備はそれを真に受け、いつか天子になる! なんてことを言うもんだから、よく叔父さんに叱られていたんだとか。
「ただ健やかに育ってくれれば、それだけでいいのだけど……」
その言葉に俺はなにも言えず、椀を口に運んでずずっと茶をすすった。
ふと空を見上げると、もう暗くなり始めていた。
「ずいぶん話し込んじゃいました。晩ご飯の準備、しますね」
そう言って立ち上がり、俺の手から椀を受け取ると、蓉さんはぱたぱたと駆け出して厨房に姿を消した。
「ふぅ……」
なにに対してか、思わずため息が漏れる。
ぽかんと口を開けて顔を上げた俺は、暗くなっていく夕暮れの空を、ぼんやりを眺め続けた。
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