菅長生

 俺たちより先に邸宅に侵入していた、かん長生ちょうせいなる男は、妹の仇として役人の鄧を斬った。

 昼間、警備のスキを突いて侵入し、夜まで身を潜めていたらしい。


 長生は妹を、鄧へ嫁に出したつもりだった。

しかし、ふたを開ければ情婦として囲われるという始末。

 ずいぶん酷い目にあわされたようだが、家族に迷惑はかけまいと、妹はずっと黙っていたらしい。

 しかしある日、街でばったり出会った若い男と恋に落ち、兄である長生に助けを求めた。

 助けを求める手紙には、過去に受けた仕打ちも書かれていたのだとか。


「オレがもう少し早く来ていれば、妹を助けられたのに……」


 長生はそう言って、唇を噛んだ。

 青白い肌の、端整な顔立ちの男だ。

 あれだけ張飛と暴れ回ったというのに、綺麗にまとめられた髪はほとんど乱れていない。

 形よく手入れされた短い髭も、黒々として艶があった。


「失礼ですが、妹さんが偶然出会った若い男というのは、もしかしてしゅう季平きへいという名では?」


 劉備の言葉に、長生は切れ長の目を大きく見開いて驚いた。


「確かに、妹の手紙にはその名があった! なぜ、それを?」

「ああ、なんという奇縁……」


 劉備の言うとおりだ。

 こんな偶然があるとはな。


「私はその習季平の仇を討つために、ここへ来たのですよ」

「なんと……」


 絶句した長生の目に、じわじわと涙が溜まっていくのが見えた。


「オレは、結局妹から直接話を聞くことができなかった。だが、受け取った手紙から、妹がここでの生活に絶望していたことは読み取れたよ」


 そこで、長生の目尻から、涙がこぼれ落ちる。


「だが、習季平という若者と出会い、彼と過ごしたときのことを書く文字は、まるで躍っているようだった。ただ苦しいだけの生活に、一時でも幸福な時間あったのだとしたら……妹は……」

「長生どの……」


 そして長生は、堰を切ったようにぼろぼろと涙を流し始めた。


「この、兄を……なにも知らずのうのう暮らしていた無能な兄を……許してくれ……おおおお……!」


 長生は膝をつき、うずくまって慟哭どうこくした。


「幸せにしてやりたかった! 都の役人に嫁げば、いい生活ができると……! オレのせいで、妹は……」


 劉備が長生に歩み寄り、しゃがみこんで彼の肩に手を置く。


「自分を責めてはいけない。あなたは悪くない」

「ちがう! オレは知っていた……どこにいようと、役人にロクなやつはいないと! いや、都の役人こそ腐っているのだと! それ知っていながら、オレは、妹を……ううう……」

「もう一度言いますが、長生どのは悪くない。もちろん妹さんも、季平くんも。悪いのはそこに倒れているその役人と」


 劉備はいったん言葉を切り、すっと息を吸った。


「鄧のような外道を役人としてのうのうと生かしているこの国です」

「……玄徳、どの?」


 劉備の言葉に、長生は泣くのをやめ、呆然と彼を見上げた。


「兄貴、まずい」


 長生がなにか言おうとしたところで、張飛が口を開く。

 耳をすませると、表が少し騒がしくなっているようだった。


「どうやらごく少数の真面目な役人が、折り悪く働き始めたらしい」


 劉備はそう言って肩をすくめた。

 まぁあれだけガンガンやりあったら、周りの人も不審に思うわな。


「長生どの、塀の一部に細工をしてあります。そこからお逃げなさい」

「しかし、玄徳殿は?」

「なに、私たちなら大丈夫。実際なにもしていないのですからね」


 不法侵入はしたが、そこは招かれたとでも嘘をつけば大丈夫だろう。

 そこで、たまたま賊に出会ってしまった、と。

 死人に口なしってやつだ。


 劉備から脱出経路の詳細を聞いた長生は、長柄刀を置いて立ち上がった。

 血のついた武器なんてのは、逃走の邪魔だからな。

 とはいえ、丸腰というのも心許ないだろう。


「長生どの、これを」


 そこで俺は、護身用の短剣を彼に預けた。

 もう必要ないからな。


「かたじけない」


 長生は俺から受け取った短剣を、懐にしまうと、踵を返した。


「長生どの」


 歩き出そうとした長生が、劉備に呼び止められて振り返る。


「鄧を討っていただいたこと、習季平とその親に代わってお礼を申し上げます」


 そう言って劉備は深々と頭を下げた。


「玄徳どの……」


 頭を上げた劉備は、少し困惑したような長生に、例の笑顔を向ける。


「なにかあれば幽州ゆうしゅう琢県たくけん楼桑村ろうそうそんをお訪ねください」


 長生は無言のまま力強く頷くと、走り去っていった。


「あいつ、仲間になんねぇかなぁ」


 張飛がぼそりと呟く。


「どうだろうな」


 張飛とあれだけやりあえるんだから、ただ者じゃないはずだ。

 そんなやつが劉備の下にいれば、少しは名を残しても良さそうなもんだが、管長生なんてのを、少なくとも俺は知らない。

 いみな――簡雍の雍や劉備の備にあたるところ――がわかればもしかしたらなにかわかるかも知れないけど、普段名乗りあうようなものじゃないからしょうがない。


「うまく逃げ延びてくれればいいのだが」


 劉備が長生の逃げていった先を見ながら、呟く。

 できればもう一度会ってゆっくり話したいけど、もしかすると、ここで捕まってしまうとか、そういう不運で再会できないのかもしれない。

 こればっかりは縁なので、しょうがないかな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る