第4話

捨てて行った家は、埃っぽい。


それでも、俺にとったらこの上ない場所だった。



かつての自室のベッドは、手入れされているわけもなく、引っ張りだしたサイズの合わないシーツを雑に引いた。


窓を開けるわけにはいかない。

いま、ここには誰もいない。

居てはいけないから。


こもった空気の中で、昔よりずいぶんと伸びた髪に触れた。

丸く桃色だった頬は、痩せて綺麗な顎を見せていて、変わらずに揺れる瞳はこんな場所でも美しかった。


「真っ暗。」


電気の通っていない家に、明かりを灯す術もなかった。遠くの方から花火の音が聞こえる。

あの日と同じように、今夜も空には花が咲くのだろう。


その音に紛れるようにだまって抱き寄せ、引っ張ったシーツにくるみそのまま腕に閉じ込めた。

ふふっと、胸元で柔らかく笑う。


懐かしくて、愛おしくて、額にキスを落とした。

2度と触れることはないだろうに、印のように。


「‥もう、帰らないとね。」

「うん。」

「綺麗だろうな。花嫁姿。」

「そりゃぁ。一世一代の粧し込みだもの。」

「そうか、そうだよな。」


クスクスと笑う沙緒が、本当は笑ってなどないことは、腕と胸が感じてる。

それでも、泣くわけにはいかなかった。


悲しいね、辛いね。

どうしてこんな目に合うのだろうね。


なんて。


なんの意味があるのだろう。



「‥紫陽花の浴衣。」

「‥‥うん。」

「似合ってた、すごく。あれよりも綺麗なんだろな。」


何も言わなくなった沙緒の頬を撫でた。

名残で汗ばんでいて、愛おしくて奥歯を噛む。

丸みの消えた頬が、時の流れをじんわりと伝えて来た。


「汗だくだな。」

「‥‥もう少し、遅かったら。汗も引いたのに。」

「‥約束‥してたらよかったな。」


う、ぁ、っと沙緒が泣き出した。

悲しいね

辛いね

なんて、なんの意味もないのに。

その言葉を使わないだけで、初めて触れた沙緒の肌にこれでもかと教え込もうとしてた。

これが俺だと。

これから人のものになっていくのに。


「‥ねぇ、沙緒。」


悲鳴みたいな泣き声は、彼女の必死の努力で喉の奥に抑え込まれてく。

泣かせてやりたい。でも、それはまた楽しい明日が無ければできない。

明日一緒に笑えるなら、泣いていいよと言えるのだろうに。


「俺もさ、かなり情けなくて馬鹿な野郎だけどね?」


「それでも知ってるよ。」


「沙緒が、幸せになりますように。

綺麗な姿で、優しい人の元で、笑って居ますように。


そう祈ることは、愛なんでしょう?」




でも、愛してるよ。

とは言えなかった。




祖母が亡くなったと同時に、叔母もこの家を捨てた。

手入れもされず、ほったらかしの洋館を、このままにもできずに売る手はずが整った。


もう来ることはないと思っていたここへ、何年かぶりに来た俺は、家を覗くより先にあの神社に向かっていた。

わざわざ、この日を選んだのだ。

年に一度の、糸川の花火の日を。


夕暮れ。もうすぐ日も落ちるだろう頃に長い階段を登る。今ではずいぶんと履き慣れた革靴だが、つま先が狭い石階段に擦れてく。


あの頃、浴衣姿の沙緒の手を引いて登った時は、あっという間だったのに。

こんなに、一段一段が重たいものなのだろうか。

荒くなる息すら、もう2度とない甘さに感じるほど、噛みしめるように登っていった。


家を売る。それがこの土地に、出向く最後の理由だった。


この土地から逃げて、どれくらい経っただろう。

それでも妙な確信があった。

花火の日、沙緒はいる。と。


息切れを誤魔化すように、登りきった先を見渡した。朽ちそうな本殿は変わりなくあって、鬱蒼とした木々も。

変わらない景色に一息ついたとき、


「‥‥沙緒?」


落ちてく夕日を背にした、沙緒がいた。

俺を見て目を丸くした沙緒は、一言も発しないままゆっくり歩いて来た。

記憶の中よりも、ほっそりとした沙緒はそれでも充分な面影で、


「‥将太さん。来ると思った。」


そう言った甘ったるい声は変わってなかった。白い手が俺の頬に触れた手を合図に、力一杯抱き寄せた。繰り返し、繰り返し唇を合わせながら、何度も力を込めて。


「なんでここに?」

「あのお家が、売りに出たと聞いたから。花火の日なら、来るかもしれないって。」

「そうか‥。同じこと考えてたのか。」

「‥うん。」


額を合わせて、鼻を寄せる。

触れたわずかな部分すら、熱を持つ。

さようなら、と言い合うこともなく元々の理由だった受験の助けになることもなかった。

俺はただ、あの一瞬の季節をただ過ごしただけだったのに、焦げ付いたままの想いはどうしようもなく剥がれない。

かすかに届く伊東家の近況に、筆をとっては紙を丸めた。ごめんなさい、と言えばいいのかと苛立ってはため息をついた。

あれから、伊東の家の中がどうなったかも知らないのに、何が言えるのかと。


「‥将太さん。」

「‥うん?」

「私ね、冬に結婚が決まったの。」

「兄の友達でね、うちとも取引のあるところにお勤めの人なの。

仕方がないよね。ここで生まれたから。」


紫陽花の浴衣を着ていた沙緒は、白いブラウス姿で綺麗に微笑んでそう言った。


諦めることに慣れているわけじゃない。

でも、ハナからあるはずの無い自由を頭に描く過ごし方はして来なかった。

目の前にある道以外を、自分が歩む事など選択肢に登らない。

それは多分、沙緒も俺も同じだったのかもしれない。

この狭い場所で生まれた沙緒を、連れ出して俺のそばで、と思うのに。

叶うとは、思えない。


「‥おいで。」


だからこそ。

ほんの少しの我儘を、互いに伝え合う事だけは‥と、この瞬間に俺たちは線を引いたのだと思う。


悲しいね

辛いね


と、あるかどうかもわからない檻を、壊す勇気もないままに。





沙緒が花嫁になった、と牽制のように一文から連絡が来たのは、その年が明けた頃だ。

会社宛てに届いたその封書には、彼は社名など書かず自分の名だけを書いていた。

一世一代に着飾った写真の沙緒は、この世のものとは思えないほど綺麗だ。何度もその顔を指で撫でた。


「20年したら、また会おう。」


一文からの手紙に、そう書いていた。


20年経てば、俺も一文も今よりかは多少マシな立場になるだろう。そうすれば、またくだらない話ができるのだろうかと、その文面に頬をあげていた。


やっぱり、俺は。

いつも大事なタイミングを、こうして逃すんだ。

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