第3話

終わりというものは、突然にやってくる。



身構える間も無く。


いや。知ろうともしなかっただけか。








沙緒がしがみついて離れないまま、花火の音がやんだ。


「‥花火、終わったよ。沙緒。」


頭を撫でる手を、肩に当てそっと引き離した。

ここに来た時は、妖艶ですらあった沙緒の瞳は痛々しいほどに揺れている。


「‥どうした?また、家で何かあったの?」


俺を見上げ、ううん、と首を振った。

それが嘘だと俺は知っている。


追求することもできた。


けれど、一文ですら家にいない方が良いと判断した状況を、他人である俺が口出しできるものでもない。

仕方がない、と目を伏せた。


その時、すうっと沙緒の指が俺の額を撫でた。


「将太さん、汗かいてるね。」

「あぁ、流石にね。」

「‥糸川ってね、土手に桜が並んでるの。知ってた?」


降りてきた指が頬を撫でる。その沙緒の手に、自分の手を重ねた。

どうしてだろうか。

変わらない沙緒の甘ったるい話し声が、ゆっくりと闇夜に消えてく気がする。


「知ってるよ?糸川の向こうが下宿だからね。もう三年分、春にはあそこを歩いてるよ。」

「そっか。」


動かせなくなった、重なった手はそのままに沙緒がもう片方も頬を包んだ。

その勢いで引き寄せられ、思わず前かがみになった所を沙緒の唇が触れる。


「将太さんと、見たかったな。桜。」


鼻先が触れ合って、吐息混じりに沙緒が呟いた。


「春になれば見に行けるよ?」


ふるふると小さく首を振り、またゆっくりと唇を合わせた。今度は深く、そこに俺がいると確かめるように、ゆっくりゆっくりと。


「‥仕方ないよね。ここで生まれたんだもの。」

「‥え?」

「ごめんなさい。」

「沙緒?」


頬から、手が離れた。惜しむように、俺の手の指の先の先が離れるのを、沙緒はじっと見守っていた。


「あのね?私はまだ子供かも知れないけれど、知ってることもあるの。」

「‥‥。」


「あなたが幸せでいてくれたら、笑っていてくれるのなら、それだけを願ってる。

こう言うの、愛っていうんでしょう?ちゃんと知ってるよ。」



沙緒が紡ぐ言葉に、俺は何と答えたのだろう。


いくら思い出そうとしても、脳裏に浮かぶのは沙緒の悲しげな笑みと、甘い声だけだ。


愛してるよと、言えばよかった。

何言ってんだ、一緒に幸せになろうと。

言ってやれたらよかった。


後から嘘になろうとも。


思わぬ告白に驚いて、勝手に独りよがりに愛されてると満たされて、沙緒の首筋に顔を埋めるしかできなかった。



俺は、最低だ。








周りが就職活動に勤しむ中、呑気に伊東家に通っていられたのも、会社を継ぐという後ろ盾があったからだ。

俺が進学してからの数年の間に、好景気に湧き始めた世間に担ぎ上げられるように、父の会社も徐々に拡大をはかっていった。


このまま父の会社に入るつもりのくせに俺は、そんなことにまるで興味が持てなかった。


いつかは、向かい合わねばならない。

でも、まだ学生だ。

タイムリミットは、まだある。


そう、誤魔化していた。




沙緒を送り届け、下宿に戻ると滅多に会うことのない父がいた。

叔母が、兄さんはいつも急なんだから、と愚痴りながら、茶を出し食事はどうするのかと尋ねている。

それに一言、いらん、と答えながら父が俺を手招きした。


「将太、お前伊東の倅は知ってるのか。」

「‥ええ、まあ。」

「そうか。後輩だろう?」

「くだらないことを話すくらいだよ。流れで妹さんの家庭教師まがいなことはしてるけど。」


ほう、と言うと、父は吸っていたタバコをガラスの灰皿に押し付けた。

この家でタバコを吸うものはいない。

お飾りのように、応接室のテーブルに置かれたそれは、ただただそこにあるべきなだけのものだと思っていた。


黒い灰が、さっきまで光っていたガラスを曇らせる。カットが美しく、ダイヤのようだったというのに。


「すこし、こちらで仕事の話があってね。今日話をして来たが、なかなかうまく行きそうにないが。お前がとっかかりになりそうだよ。」


父が言ってる意味がわからなかった。

だから、そう、とだけ答え自室に戻ってしまった。


知らなかった。


それで済むなら、どんなによかったか。


この時、「どういう事?」と一言父に尋ねていたら、もしかしたら。


未だに、どっかに最善の道があったんじゃないかって。ずっとそう思ってる。


ほら、また俺は。

思うだけ。


思うだけで終わる。






父が来た花火の日の夜。

その数日後、突然に一文が「俺、成績いいから。」と俺と距離を取るようになった。

彼も先輩である自分よりも、同級生との時間が必要だろうし、ヤツは気まぐれだ。

そのうち、またひょこっと「コロッケ食べに行く?」と寄ってくるのだろうな、と。


ただ少し困ったのは、沙緒に会いづらい事だ。


伊東家に出向くわけにもいかず、あの人気のない神社にもしかしたら沙緒がくるのでは、と足繁く通うだけの日々が流れた。


呑気な俺は、此の期に及んで。


「梅野の親父が、伊東さんの所を買収しようとして、追い返された。」と学校内でも噂が漂い、俺の周りから人が消え、やっと事の重大さを思い知った時には遅かった。



なんとか一文や沙緒に、父の思惑など知らなかったんだと、説明出来ないかと唸ったが、ふと我に返っては押しつぶされた。


駒だと自覚していたではないか。

この後に及んで、俺はまだ。


自分は悪くない、と思い、

話を聞いてくれと一文に言うことも、

沙緒を救うことも捨てることもできずに、


卒業と同時に、あの街を出た。


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