第2話
都会育ちの俺が、片田舎にある大学に進学したのは、さほど深い理由があったわけではない。
それなりの会社を営む父が、この大学以外の進学を許さなかったからだ。
はじめこそ、何故こんな辺鄙な所へと腹も立てたが、暮らし始めてなんとなく父の思惑も見えて来た。
俺を、この地に根付かせようとしたのだと。
後々のビジョンが父には見えていた。
俺は、跡取りと言う程のいい理由をもった、その駒の1つなのだ。
そうであるべきだろう。まだ、何者でもない俺が、父と並べるわけもない。
大学は面白かった。
父に対して我が子の学ぶ意欲を削いでまで、駒にするというのかとイラついていたが、それは杞憂だった。
祖母と暮らす叔母を頼り、下宿しながら大学へ通い、時には友達と酒を飲み、学んだことを熱く語り合ったりする。
そんな、どこかの教科書にでも有りそうな、なんの変哲もない学生生活が、ふるりと色を変えたのは突然だった。
伊東一文が入学してきたのだ。
伊東家は、地元で長らく工場を営んでいた。そのためか、顔も広く地元の信頼も厚い。
いくらか従業員もかかえている。集落の中で、石を投げれば5投に1投は伊東の工場に勤めたことのある人に当たるのだろう。
伊東さんのご長男が、あなたと同じ所に進学したんだって。と、さほど伊東家に縁のない叔母からも聞いていた。
それくらい彼の一挙手一投足は筒抜けだった。
どんなやつかと思えば、色白で猫背のその男は、新入生のフレッシュさなど、かなぐり捨てたようだった。気怠そうに首を傾げ、様々な勧誘で賑わうキャンパスを遠巻きに眺めていた。
騒がしい景色に飽きたのか、ちらりと時計を見るとキョロキョロと周りを探り出した。
叔母から、「伊東さんのところとは、仲良くしておきなさい。兄さんもそう言うわよ。」と言われていたものだから、妙に気になって彼の動向を見つめていると、
「あ。」
不意に目があった。
にやり、とした一文はやはり猫背のままスタスタとこちらに歩いてきた。
「すんません、先輩?ですよね。」
「‥な、なに?」
「経済とか経営とかの成績が1番いい人って誰かわかります?」
「はぁ?なんでまた。」
「だって、成績いい人に聞いたら、提出物のコツとか分かりそうじゃないですか。要領とか。あんま、ガツガツしたくなくて。最短ルートでソコソコの成績取りたいんすよね。」
あんまりな言い草に、一瞬なにを言われてるのかわからなくなった。答えに困って、あー、それは、ええっと、と濁していると、
「経済?そしたら、梅野だよ。それ、目の前のそいつ。」
と、サークルブースから同じゼミを取る同級生が軽くいい飛ばした。
「‥なんだ。あんたか。じゃぁ、教えてね?面倒だし、俺のうちに来てよ。」
今思えば、それを拒まなくてよかった。
ああ、わかったと、何故だか身を任せた。
例え、叔母から吹き込まれた一言があったにせよ、今となっては。
そう。
結果的に、
沙緒に会えたのだから。
「母さん、この人梅野センパイ。ちょっと、勉強教わることにしたから。」
数日後に伊東家をはじめて訪れたとき、そう紹介されて会釈をした。
息子の友達が家に来た、それだけのことのはずなのに、母親は「これはこれは、梅野さん。」と板間に膝をついて頭を下げた。
一文はそれを忌々しそうに一瞥した後、「俺の部屋、こっち。」と俺の腕を引いて行ってしまった。
少なからず戸惑った。
「‥気にしないでね。梅野さん。」
「なにがだよ。」
「あの人、金とか地位とか肩書き持った人に弱いの。あんたの家って、なんか会社やってんでしょ?」
「‥なんで知ってんだよ。」
不満げに言い返すと、一文はケッと吐き捨てた。
廊下が軋み、ギリギリと鳴るのに合わせ、誤魔化したように。
「糸川の向こうに大きなお家がある。梅野家。あそこは、年のいったお婆さんとその娘さんが2人で暮らしている。お勤めもしてないようなのに、何故あの家を維持できる。」
ぺらぺらと一文が滑らす、下世話な言葉。
思わず、眉間にシワが寄った。
「ああ、なるほど。あそこのお家は、都会で大きな会社をなさってるそうだ。ご長男が社長らしい。そのお金があるお家なのだ。なんと、跡取り息子が下宿に来ている。一文、あなたあそこに進学しなさい。梅野さんと仲良くなりなさい。」
そこまで一気に言うと、一文はちらりと俺を見た。言い返すも妙で憮然としていると、ふふっと目尻にシワを寄せた。
「そう言うとこなのよ。こんな田舎で商売やってるとね。逃げんなら早い方がいいよ?」
「‥‥いや。そうでもねぇよ。」
「‥‥そ?」
「似たようなこと俺も言われたわ。叔母にね。伊東さん家と仲良くしておきな、つって。」
「‥‥へぇ。」
「下世話なもんだな。確かに。懐探って人付き合い検討すんだからさ。‥けど、まぁ。そんなもんだろ。」
「案外、擦れてんのね。」
「そういう家に生まれたからね。当面、俺は親父の駒から卒業するのが目標だよ。」
一文はふっと目を丸くして、あはは!と腹を抱えて笑いだした。
廊下での立ち話、ナイショの話が筒抜けそうなそれに慌てて、おい!っと声を荒げたら、また一文は笑った。
それから勉強を教えると言う名目で、伊東家に通った。
経済学などそっちのけで。
駅前のコロッケがうまい。だがしかし、駅までが遠い。その距離を乗り越えてまで食う価値のあるコロッケかと、見合う価格か、それならどこまで美味くなればその手間を惜しまないのか、などとくだらないことを気の抜けた調子で話した。また、ぼんやりと自分らの先々に起こるだろう理不尽を予想したりした。
起こってもいない事への対策を考え、苦笑いをした。
同級生らと熱く議論するようなものとは違い、ただポツポツと。それがやたらと心地よかった。
ウマが合うとは、こう言う事なんだろう。
一文のこぼす事に、同意する事もあったし、反発する事もあった。
けど、そのどちらもを、お互いにぶつけたりはしなかった。
そんなもの、成り立たないとわかっていたからだ。
居心地良いにも関わらず、一文は俺の家に興味などなかった。それは俺も同じ。
興味ない相手に、あなたの意見に反対する、などと伝えなければならない理由はない。
だから、
「香ばしさはやっぱ醤油が勝るんだよ。」
「俺としては、衣を殺さないソースだなぁ。」
と、アジフライにかけるのはソースか醤油かを、スイカ食いながら話す。
くだらない事でさえ、どちらでもよかった。
醤油もうまいよね。ソースすきなんだよ。
それだけの事。
そして、それだけのこと、ができる相手は滅多にいるものではなかった。
「お兄ちゃぁん!開けてー!」
と、襖の向こうで声がした。聞いたことのない、甘ったるい声。
一文が、めんどくせえ、と言いながら襖を開けた。
「はい。麦茶ですよ。」
お盆に麦茶が入ったガラスコップを乗せた沙緒が、縁側にひょいと置いたと同時に、
「私、アジフライにはなんにもつけない。醤油もソースもいりません。魚の味がいなくなる。」
と、オレンジ色の花の絵がついたグラスで麦茶をのみ、ツンと言い放った。
それに一文は笑い出して、「だ、そうですよ?」と俺に言い、「次回からは、塩にします。」と俺が呟いたものだから、また一文は笑いを腕で隠し、噛み殺した。塩って!そこかよ!と。
「あ。将太さん。これ妹、沙緒。」
「兄がお世話になります。梅野さん。」
聞けば俺より5つ下だと言う。その女の子が白い頬を桃色にして額の汗を手で拭うのは、あまりに色っぽく、
「あぁ!暑い!お兄ちゃん、貸して!」
と扇風機を独り占めして、あーわぁぁーと羽に向かって遊ぶのが嘘のような落差だった。
恋に落ちる、などとよく言うが。
なるほど‥。
堕ちるものなのだ。
「‥沙緒ちゃん?」
「はい?」
扇風機の前で、声を揺らして返事をした沙緒は、くるんとこちらに顔を向けた。
「17歳でしょ?受験、するの?」
「はい、一応は。」
「勉強、見てあげようか?どうせ、ほら。一文の勉強を見にくるんだし。」
勉強など一度も教えたことのない一文が、口をあんぐりとあけてこみ上げた笑いを逃してる。
あぁ多分、この一瞬にして落ちた恋心に気がついたのだろうな、と思ったが照れよりも沙緒から目が離せなくなった。
仕方なさそうに振り返った一文が、沙緒になんと言ったかは分からない。扇風機がぶわぶわと羽を揺らしていて、兄と妹の会話が飛ばされていたから。
けれど、
「ほんとうに?嬉しい。お兄ちゃん、全然教えてくれないから。」
そう、頬をあげて眉を下げた笑顔に、
俺は一生分の恋をした。
あっけなく、終わるとも知らずに。
沙緒へ、ただ。
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