彼岸花
おととゆう
第1話
狭い路地の奥の、奥。
大きな通りにつながった道の、更に枝分かれした末端。
毛細血管のような、葉脈のような細い路地が作る集落があった。
雨の日には傘を傾けなければぶつかってしまうその路地は、もちろん車なんて入り込めやしない。
だからだろう。いつも隅の方が崩れた荒いアスファルトの上には、ロウセキでかいたケンケンパの跡がいつもあった。
その白い輪を踏まぬように、少しだけ気をつけて、俺はすっかり歩き慣れた道を急いだ。
立派な門構えが向かい合った家々。
路地の細さから、軒先がまるで睨み合って顔を付き合わせたようだ。
門というものは、どこでも見栄の象徴なのだな、と呆れたのはもう随分前だ。
そんな門もくぐってしまうと、飛び石が玄関まで続き、玉砂利が綺麗に敷き詰められていた。
松の木、梅の木。
それからツツジ。
池こそ無いものの、玄関までの数歩は目を楽しませるに十分なほどに手入れされている。
見栄から少し奥には、普通にそこに日常があるもんなんだ。
玄関の前でこんばんは!と声をあげた。
すると、鈴を転がすような足音がしたかと思えば、カラカラと軽快に玄関は滑り、赤い鼻緒の草履を履いた沙緒が勢いよく飛び出してきた。
紺地に白い縁取りの紫陽花柄。夕焼けのような帯。17歳のはずが、その瞬間はあまりに幼い子供のようだった。
いつもより、更に。
「先生!」
「‥汗だくだね。」
「え!ついさっき着付けてもらったのに?」
差し出したハンカチを、上目遣いの沙緒は申し訳なさそうに受け取ると、そっと頬にあてた。
さすがに恥ずかしいのか、汗の滲んだ首や額を拭うことができなかったようだ。
その躊躇いが可愛いくて、細い指が握るハンカチを受け取るとからかうように額に当てた。
ひゃっ!と声をあげた沙緒は、ポンポンと額ではねたハンカチに観念したのか首をすくめてみせた。
「先生が、あと五分遅く来てくれたらこんなことになってないのに。きっと着付けの汗も引いていたはずよ。」
「約束は守るタチなんだよね。」
乱れた前髪を手櫛で直しながら、ふてくされて頬を膨らませる。
桃色のその頬が愛おしくて、つい撫でると真っ赤になってしまった。
「ちょっと、頼むからさ。玄関でイチャつくのやめてもらっていい?」
するっと俺と沙緒の隙間を縫うように出て来たのは彼女の兄、一文だ。
俺よりも3つ年下にもかかわらず、飄々とした様子でどの場所でも、まるで初めからそこにいたかのように溶け込んでしまう、不思議な奴だった。
「お兄ちゃん、どこいくの?」
「あ?お前と同じだよ。糸川の花火。」
「嘘、人混みは面倒だって言ってたのに。」
俺と出かける先に、兄も来るというのに照れたのだろうか。それとも慌てたのか。沙緒は早口で続けた。
そんな妹を頬を緩めながら、
「花笠が来いっていうからさ。少し行くだけだよ。お前もセンセーいるからって、遅くなんなよ。母さんがうるさいから。」
と後半、母さんが、あたりからは俺を見て言った。
猫背の彼が、門扉をくぐるのを見送って一息つくと沙緒の頭を撫で、開けっ放していた玄関から家の中に声をかけた。
「こんばんは。梅野です!」
すると奥の台所からだろう、顔を出した沙緒の母が歩いて来た。
「沙緒さんと糸川に行ってきます。花火が終われば、送ってきますので。」
「ワガママを聞いていただいて、すみません。一文も、行くなら早めに言えばいいのに。先生にお願いしてしまって。」
「いいえ、僕も暇でしたから。」
「本当に、お家の皆様にもよろしくお伝えください。」
会釈をして、家を出る。
門扉を越え、細い路地にやっと出たあたりで沙緒は、ふうっと息を吐いた。
いくら祭りの夜とはいえ、街灯などほとんどない路地は、各家から漏れる明かりだけが頼りだ。
そこに何か罠が仕掛けられていても、気がつかないほどの薄暗さ。
「やっと出れた。行こ、将太さん。」
そんな中を無邪気に俺の手を引くと、慣れた様子でずんずんと進んで行った。
花火など、見る予定なんかハナからない。
沙緒が綺麗に着付けられた浴衣で向かうのは、糸川とはまるで逆の小さな神社だ。
石階段を何十段か登ったら、やっと現れるそこは、地元の人ですらあまり立ち寄ることはない。
集落の中には、それなりに大きなお寺があり、冠婚葬祭はそこで済む。なんなら、人生を終えた後も世話になるのだ。
こんな不便なところにある、小さな神社のことなど、気にも留めないのだろう。
せっかくの高台だというのに、花火が見えそうな方向にはうっそうと木々が生い茂り、まるで見えやしないから、今日なんかは尚更だ。
沙緒と手を離すことなく、やっとの思いで石階段を登りきった。
ドン、ドンと音だけが届き、ほんの少し木々の縁が光る。
それ以外は何の音もない暗闇にやっと安堵した俺は、一度大きく息を吐くと、その後の息が整う間も無く沙緒を抱き寄せた。
腕に閉じ込めた、その勢いのままに沙緒の唇を奪う。
渇きを潤す勢いで、沙緒の口から水気を吸い尽くしてしまいそうなほどに。
ぎゅっと俺のシャツを握り、それに応える沙緒の薄く開いた目が、すぐそばの木々のように遠い花火の光を少し反射させた。
キラッとしたそれがあまりに妖艶で、舌足らずに言葉を紡ぐいつもの沙緒は一瞬で姿を消す。
「‥沙緒さぁ。」
「‥なあに?」
「これ、自分で着れんの?」
ひょいっとつまんだ浴衣の襟元の手を、沙緒は可笑しそうに、そっと掴んで離した。
「無理。着れない。」
「まじかよ。」
「だって。先生が私のワガママを聞いて、花火に連れて行ってくださるものだから、母が張り切って浴衣を出したの。自分で着替えたいから、ブラウスで行きますなんて言えないわ。」
甘い蕩けたような声で、沙緒はそんな事を当たり前のように言う。
その変わり身に、ふはっと思わず笑ってしまったら満足そうに沙緒は微笑んだ。
こんな風に、少し背伸びした会話を楽しんではいたけれど、俺が触れるのは唇だけ。
沙緒を抱くのは、もう少し先。
5つ年下の彼女が、後もう少し大人になるまで。
そう、決めていたから。
「それじゃぁ、まぁ。多少着崩れるのは、仕方ないね。ほら、沙緒は花火見てはしゃいじゃったから。」
丸い頬に手をあて、親指で唇を撫でた。
抱く代わりに、沙緒に免疫を与えるようなセリフを並べる。
目を細めてにこりとした沙緒は、スッと手を伸ばし抱きついてきた。
「‥将太さん?」
「うん?」
それきり、何も言わなくなった沙緒は俺の背に手を回し、離れなくなった。正直な欲を言えば、キスをしたかったし、多少着崩れる程度には触れたかった。けれど沙緒はぴったりとくっついて顔を上げない。
また、家で何かあったのだろう。兄の一文がいくら友達に誘われたからと、好きではない人混みに出かけて行ったのも、おそらく。
そう思いながら、沙緒の髪を撫でた。
浴衣に似合うようきちんと整えられた髪は、指に絡まることもなく、物足りない。その上白い花の髪飾りが、時々指に触れてチクリと刺した。
ふう、とため息をつくとぎゅっとしがみつく腕。
「沙緒。」
「大丈夫だよ、沙緒。」
「どこにも行きやしないし、今だってほら。
お前が捕まえてるだろ?」
いつもなら、それで多少はホッとした顔を見せるのに。この日、沙緒は顔を上げることはなかった。
ただ、ただ。
俺から離れなかった。
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