第六章「運命と太陽」
ワーク・バルジはろくでなしだった。
貧しい家に生まれ育ったワークは、毎日喧嘩を楽しんでいた。拳を握り締めて人を殴る時の感触が、衝撃で手の皮が裂けて血が滲み骨に響いてくる痛みが、たまらなく好きだった。母親は既に亡くしていたし、いつも働きに出て家にいない父親はどちらかというと嫌いだった。
彼にも大切に思う人はいた。たった一人の妹だった。ミクは頭が良かった。学校に通っていないのも、妹の将来の学費のためなら馬鹿な自分は行かなくてもいいと馬鹿なりの頭で真剣に考えてのことだった。
妹に仇成す奴がいれば相手が誰だろうが殴り倒してやった。ミクの目の前で泣いて謝らせたこともあった。彼が喧嘩に負けてぼこぼこにされ泣いて帰った日のミクの顔を見たワークは、もう何があっても二度と泣かないと決心しこれも実行し続けた。
いじめっ子のような卑怯なやり方は嫌いだった。いつも自分の拳だけを武器に喧嘩をすることはいつしか彼の矜持になっていた。妹のために身体を張り大げさでなく命を賭ける自分を、ワークは嫌いではなかった。
(…………う……)
大戦争で父が兵役に取られた時も大して悲しいと感じなかった。ミクの心配そうに見送る表情に、唯一心を痛めた。その父も戦争であっけなく他界した。妹を養うため少年兵に志願したワークは、狙撃兵としての才能を見出された。
しかし彼は、銃が嫌いだった。
初めて人を撃った時にはっきりとそう悟った。腕っ節の強さなど関係なく、一瞬で相手の命を奪うこの道具を憎んでさえいた。
戦争そのものよりも、相手の目の届かない場所から一方的に命を奪うという行いが大嫌いだった。卑怯なことをしている自分が許せなかった。ミクを守るためには仕方がない、ろくでなしの自分に他にできることなどないのだからと言い聞かせ彼は照準器を覗き銃を撃ち続けた。父の苦労を理解し、そんな父を最期まで軽んじていた自分を心底恥じた。
やがて大戦争が終結し故郷へ帰ったが、そこに妹の笑顔はなかった。この世のどこからも、失われていた。
それは、彼にとっての世界の終わりであった。
長い長い、余生の始まりだった。
(……しょ…………う……)
狙撃の評判を買われ、傭兵としてキャラバン隊に雇われた。しかし仕事に特に責任を感じたことなどなかった。なにしろ保護対象は吸血鬼であり、守ってやらずとも自力で戦えるのだ。吸血鬼には個人的な恨みこそないが、構ってやる義理もない。
男気溢れるリーダーを始め仲間は好いていたが結局は金のための仲間ごっこだと割り切っていたし、もしも対応できない危険が迫れば逃げ出すことも選択肢に入れていた。今が正にその時であった。
(ち……しょう………)
しかしある日、旅の仲間に少女が加わった。
ユイというその女の子は、彼の妹に、どこか――
(……畜生っ…………!)
戦闘が続いている。
発砲音が響いてくる。
草陰に隠れているワークは、湧き上がる猛りを抑えられずに歯を食い縛っていた。銃を握り締めた両手ががたがた震えていた。武者震いではない。それは焦燥だった。
敵の攻撃によってではなく、常人ならざるエインズワースの体技を目の当たりにして心が折られていた。
(畜生……! 畜生っ……!)
大戦争の悪夢を生き抜き、狙撃技術という特技一つで混迷の時代を突き進んできた男は今、仲間の覚悟を見せつけられて打ちのめされていた。
エインズワースが次々に敵を捻じ伏せていく、その強さを支えているものといえば強靭な肉体と精神、たったそれだけである。一対多にあって銃口を向けられても怯むことなく、それどころか逆に利用している。
(俺には、できない――できなかった――)
そんなことが可能な人間などいるとは思えなかった。認められなかった。彼が矜持を持ち、誇りと掲げ、しかし成し得なかった生き方を実践している人間が今、眼の前にいた。
(誇りを捨てても……こいつを持っていても、俺は……妹を守れなかった――)
大嫌いだった。
憎悪さえ抱いた。
大嫌いな銃に頼って生きる、その自分こそが大嫌いだった。
銃を撃たなければ生きていけないという事実がもはや我慢ならなかった。己の人格と生業との摩擦に耐えられなくなっていた。
ワークは空を見上げた。夕暮れを過ぎ、太陽のない空。
(ミク……)
そして、移動を始める。
(ミク……せめて、俺は――)
ワークのいた場所には、一丁の狙撃銃が残されていた。
「……ん――」
と、ユイが呻いた。
「起きるようだぞ」
意識を戻し、ぱちぱち、と眼をしばたく。
「あれ……。え――?」
「もちろん、怪我はない。人質であるこいつが傷ついてしまうと困るからな、俺の運で守られたというわけだ。感謝しろ?」
ウォズニアックがまたも訳のわからない説明をしてくるが、フランは無視した。状況について行けず混乱しているユイに声をかけるために、息を吸った。
「ユイ、僕は――」
吐いた声は、どこか震えていた。
ヒビキ・チハラノには自分が無かった。
両親は彼に期待をかけ、小さな頃からあらゆる稽古に励ませた。
ヒビキが期待と異なる反応や結果を見せると両親は悲しんだ。体罰を受けたことは一度もなかったが、失望する保護者の視線は彼の心に死にも等しい恐怖を植え付けた。自分はこの人たちを喜ばせるために存在しているのだと幼心に理解した。
五歳の頃に火事で親を亡くした時、彼は涙を流した。それは家族の死に対してというよりも、存在証明の方法を失ったことへの涙であった。
ヒビキは叔父の家に預けられた。知恵が働く年頃になっていた叔父の長男が、あいつがきたせいでおれ達の遺産の取り分が減るぞと弟達を唆し、執拗ないじめを始めた。ヒビキの両親の遺産の大部分を叔父が受け継いでいたために実際は大きな利益になっていたのだが、そんな金銭事情は子ども達には知る由もなかった。
彼はその環境にも慣れてしまった。この人達に虐げられることが自分の次の役割なのだとごく自然に受け入れ、期待に答えようと思った。いじめられるのは嫌だったが、手に入れた役割を失うことこそがヒビキにとっての恐怖だった。
その後三年に渡って務めてきた役割は吸血鬼によって奪われた。その夜、脱走した帝国軍の吸血鬼が家族と使用人を皆殺しにし、普通に部屋で寝ていた少年はたった一人生き残った。
それは正真証明、ただの偶然だった。
誰の思惑も特別な運命も介在していない無情な現実のひとつであったが、人々は奇跡だと信じた。吸血鬼から生き残った悲劇の主人公として注目される中で、彼は自分の次の役割を理解していた。
その後しばらくして、吸血鬼を憎みその滅殺を謳う団体の扉を叩いた。子どもであるからと門前払いを受けることも覚悟していたが、無事に仲間として認められた。彼が将来、一族の膨大な遺産を受け継ぐ御曹司だと知った者が組織のために引き入れたのだった。
ヒビキは森の暗闇に縮こまっていた。
フランを襲った日、吸血鬼の殺戮を前にしても僅かもブレることのなかった少年の精神が、もはや原型を留めぬほどの微塵に打ち砕かれていた。
己の価値が失われたことに恐怖していた。自分がその辺に転がる石ころや砂粒と変わらない存在のように思えた。
(う――――)
震えている足を抱えようとするが、その腕もまた震えているので、がくがくとお互いをぶつけることしかできない。
そもそもヒビキは、打ち砕かれるような立派な精神力など、初めから持ち合わせていなかった。続けていることで安心できる、他人から与えられた人生の役割の中で演じていた、安っぽい借り物の心しか持っていなかった。それが彼自身のものであったことなど、本物であったことなどこれまで一度たりともなかった。
〝吸血鬼に復讐する〟という自らの役目を剥奪された今、荒野の真ん中で迷子になった小さな子どものように、人生の方向を完全に見失っていた。
(う、う、うう――――)
彼は安心して隷属できる場所を探してきた。己の存在価値と所属を認め、役割を与えてくれる何かを必死に求めて生きてきた。そのなまぬるい安心感を手放さないことだけが、彼の生きる理由だった。
舞台上の役者のように、これまで彼が感じ、培ってきた経験のすべては彼の演じる〝役割〟の表面に塗りたくられたペンキだった。役を降ろされ丸裸になった彼自身にはもう、なにも残ってなどいない――
(――――ボクは――なんで――)
何のために生まれて来たのだろう、とヒビキは思った。
それは裸になった彼の心の奥底にたったひとつだけ、こびりついていた問いであった。〝演じている自分〟には見えないように精神の内奥に閉じ込め、役割を果たして安心しているうちに、そこにあったことも既に忘れ去っていたものだった。
(ボクは――――)
自らの存在意義を問う、凶悪な肉食獣にも似たひとつの意識が今、彼の心で眼を覚ましていた。その怪物が心を喰らい尽くそうと舌なめずりしているのがわかった。
(ボクは――一体――――)
例えようのない恐怖を感じていたが、涙は流れてこなかった。身体は震えていたが、頭の中は奇妙に冷ややかだった。ヒビキの冷たい意識は、狂ったように暴れる問いに対して静かに見つめることしかできなかった。己の心が傷つき破壊されていくのをただただ感じていた。
壊れた心の隙間から洩れてくる、これまでの役割達が喋っていた台詞を、語られた言葉を、ヒビキは聞いた。それはある種の走馬灯であったのかもしれない。
走馬灯の中に、一つの声が聞こえた。
〝……人はきっと、幸せになるために、この世に生まれてくるのです――〟
人生であまり関わり合いにならなかった女の子の声であるそれは、彼がごく最近耳にしたものであり、またひどく昔に言われたことがあるようにも感じられた。
(そうだ――――ボクは――)
彼はお礼を言うことに決めた。
自分という精神が壊れてこの世からいなくなってしまう前に、彼女に伝えなければならないと感じた。ただ一言、ありがとうと言おうと思った。
このくだらない世界の、どうしようもない自分に、幸せになる、という役割もあることを教えてくれたあの女の子に。
*
「僕は……頭の悪い奴は嫌いなんだ」
フランが言った。
む、とウォズニアックが眉をひそめたが、口は挟まなかった。
「人間ってやつは、すべてそうだ。どいつもこいつも頭が悪い。どこを見ても屑ばっかりだ。だから僕は人間が大っ嫌いだ。でも――」
フランの声は揺れていた。身体もがくがく震えていた。さっきからどうにも足に力が入らず、立っているのがやっとだった。
「君が隣にいて、君が、人間を好きだと言ってくれていれば……僕も、好きになれるような気がしていたんだ」
震えてはいるが、寒いわけではない。むしろ暑い。身体中がひりひりと熱くて汗が止まらない。足場の悪い道を走ってきたために息が切れている。
「知ってしまったんだ。いや、思い出すことができたんだ、なんというか、温かさを……君の温かさを。……僕には君が必要だ」
言葉を絞り出す度に喉が痛んだ。焼けつきそうなほどに乾いていた。フランは自分が何を言っているのか、よく理解できなかった。違う世界で別の誰かが喋っている声を聞いているようだった。
「あのまま、一人きりでも良かったんだ。怖かったけど、終わってもいいとさえ思ってた。だけど君が……君があのとき、見つけてくれたから」
フランは今何をしていて、ユイにどんな言葉を伝えたいと思っているのか、我ながら理解していなかったのだが、しかし結局のところ――
「だから……一緒に白夜に行こう、ユイ。僕と一緒にいてほしい」
――それはなんということもない、この世界の中で幾度も繰り返されてきた、至極ありふれた陳腐な行為だった。
一人の少年が、彼の好きな娘に対して愛の告白している。
つまりはただ、それだけのことなのだった。
「え……へ? はい?」
ただでさえ状況がつかめていない上に、そんなことを伝えられたユイは顔を真っ赤にして益々混乱していた。しかしおかげで、ナイフを突き付けられていることには気付かない。
「なるほど……あれか、命賭けで、死ぬことを覚悟で追って来たってことか。命に代えてもこの娘を守るって、そういうつもりなわけだな」
ウォズニアックが得心したように顎を上げる。
「ま、安心しろ。この娘にも便利なイレギュラー能力があることはわかってる。ただで殺しはしねぇよ」
「違う」
フランは否定した。再び眉をひそめるウォズニアックに言い放つ。
「僕は死ぬ気で来たんじゃない。生きていくためにここにいるんだ」
これにウォズニアックは苦い顔になり、
「……あれか。お前は、自分だけは死なない強運の持ち主だとか思ってやがるのか」
そして片手で拳銃を取り出して、撃った。
弾はフランの腹を貫通した。
「っぐ!」
「フラン!」
崩れ落ちたフランにユイが駆け寄る。吸血鬼の無力化に成功した段階で、既に人質として捉えておく意味はなくなっているのだ。
「俺はな」
ウォズニアックがその後を追う。
「銃ってのは嫌いなんだ。殺したって実感がない上に、当たり外れは運の要素も強い。無駄なく確実に殺すには、この手に感触を残してこそだと思うわけだ」
言いながら、武器を持ち替えている。闇の中ですら僅かな光を捉えきらりと反射するそれは、大型のサバイバルナイフだった。
「きゃ――」
ユイを背後から引き倒し、フランの喉にナイフの切っ先を当てた。そして、
「こんな風にな?」
鮮血が噴き出した。
フランを追いかけて森を駆けていると、付近で銃声が聞こえた。
(くっ……!)
すぐにそちらに向かう。
(死なれちゃあたまんねぇんだよ、畜生。ちくしょうちくしょう――なんでお前は日が暮れたのに、まだ追いかけてこんなとこまできてんだよ、罠だろ絶対……!)
心の中で毒づきながら、ワークは疾走する。
ユイの悲鳴が聞こえた。
(畜生――っ!)
もしもエインズワースのような超人が待ち構えていれば、到底勝ち目はないことは理解していた。理解していながら、二人を追わずにいられなかったのだ。
(これが罠だって気付いてんのは、俺も同じじゃねえか――――)
人影があった。
大きさから、二人のどちらでもないと見て取れた。
「…………ぅうおおおおおおおっっ!」
雄叫びを上げながら、ワークは突っ込んだ。
突然に現れた男に体当たりされ、ウォズニアックはナイフを取り落とした。
「ぐあっ!?」
ごろごろと転がったが、すぐに身体を起こす。するとその顔に、
「うおおおぁっ!」
ごつっ、と拳が直撃する。
(……っ!)
顔の中で、何かが捻れる感触がした。咄嗟に顔を背けたが、更に反対側から殴られる。
「無理なんだよっ! このっ!」
「ぶっ! がっ!」
息が詰まり、血の味が広がる。
「ろくでなしの……っ! 俺にはぁっ!」
「……っっっ!」
叫びながら次々と放たれる拳撃は、的確に顔面を狙ってくる。明らかに喧嘩慣れしている連続攻撃に、反撃する暇もなく瞼が裂け視界が奪われてしまう。
「お前がっ! 死んじまったらっ!」
頭部を防ごうとすると、胸に蹴りが入った。
「おぁっ――」
身体から、みしっ、と嫌な音がした。
「誰があぁっ! 守るんだよぉ……っ! ちくしょう……っ!」
叫び声が弱まり、連撃に一瞬の隙が生まれる。ウォズニアックは袖の下からもう一本のナイフを取り出した。
(このイカレ野郎……っ!)
ぶん、と振りまわすと僅かな手応えがあり、相手が怯む気配がした。瞬間、先程の拳銃を抜き、
「じねっ!」
気配のした方に向けて、引き金を絞った。
びっ、と腕を切られて怯んだ間隙に、銃を向けられていた。
(ああ――――)
ワークは泣いていた。
ぼろぼろと涙をこぼし、情けなく喚きながら敵を殴っていた。ユイとフランを絶対に助ける、という崇高な覚悟ではなく、自分には無理なのだ、という過酷な現実こそがワークを突き動かしていた。
(ミク、俺は――――)
今更誇りを取り戻そうとしても、やはり間に合わなかった。どこにも辿り着くことはなかった。
「じねっ!」
火傷痕を顔に刻んだ男が叫んだ。叫ばれた言葉は、死ね、という意味だった。ワークは受け入れようと思った。自分への罰なのだと思った。
死を覚悟した彼が最期に考えたことは、
(俺は、泣いちまったよ――ごめんな――)
妹への誓いを守れなかったことに対しての、謝辞であった。
銃声が響いた。
同時に、敵の腕から血がほとばしった。
「ぐあっ!」
衝撃に銃を取り落とす。ワークは無意識に顎を開いた。
「……あ?」
「ぐう、ぐおおお……」
顔面を砕かれ血に汚した男は、必死に地面をまさぐって武器を探している。その様子をぽかん、と眺めながら、
「そうか……。おお、そうかよ……つまり、」
涙でぐしゃぐしゃになった顔に、次いで満面の笑みを浮かべた。そして片足をぐいん、と高く掲げると、
「やりたいようにやれってことだよな、ミク……!」
渾身の踵落しを放った。
脳天へ直撃を受けた男は、呻く間もなく意識を失った。
泣き喚きながら格闘しているのは知らない男だったが、ヒビキにとってそっちの方はどうでも良かった。
ウォズニアックの言動から、彼がユイに危害を加えるつもりであることは明白だった。それを阻止するため、ヒビキはウォズニアックを撃った。何でも屋連中が去った後に残されていた銃であり、放った銃弾は腕に命中した。
悶えたウォズニアックにとどめを刺そうと再び銃口を向けたが、すんでのところで身体が硬直した。
(ボクがあいつを殺したら、お姉ちゃんは何て言うんだろう――)
という疑問が頭をよぎったためだった。
一瞬の躊躇の間に、格闘していた男が見事な踵落しを決めて、ウォズニアックの意識を奪ってしまった。どうすべきかと考えていると、男が、
「おい、誰だ? 出て来いよ」
と彼を呼んだ。先程までの涙ぐんだ声ではなかった。
「……あの」
ヒビキがおずおず、といった調子で姿を見せると、男は大袈裟に驚いた。
「お前がやったのか。良い腕してるじゃねえか! 命の恩人だぜ、ありがとよ!」
と陽気に笑いかけてくる。
「…………!」
その言葉と笑顔は、空っぽになったヒビキの精神に何物にも代えられない潤いを与えてくれた。生まれて初めてその言葉をかけられた気がして視界が曇りそうになったが、それでも訊かなければならないことがあった。
「あ、あの……お姉ちゃんは……?」
「っ!」
はっとすると、男は駆け出した。
本気で失念していたらしい。
「フラン!」
男について行くと、森の一角から光が射していた。人生を変える一言を聞いたあの夜に、テントで見た治癒の光だった。
ウォズニアックに髪を引かれ、ユイは地面に突っ伏した。その一瞬後にワークが激突して戦闘に入っていたのだが、顔を上げてフランを見ると同時に、周囲の状況など感じられなくなった。
フランの首筋がぱっくり割れていた。
鼓動の一拍ずつに合わせて、赤い噴水が上がっていた。
「……!」
悲鳴は上げなかった。
すぐさま治癒の光を放ち、フランの身体を包み込んだ。
「大丈夫、フラン。絶対に……、」
そう信じてフランの顔を見たが、すぐに眼を逸らした。見開かれた彼の瞳は、硬直した表情は、ひとつの事実をユイに告げていた。
(……大丈夫……。あの時だって……)
しかし本当は、理解していた。
あの夜とは違う。
死人を生き返らせることはできない。
それでも受け入れられなかった。たった今自分を必要だと言ってくれた相手の、その人生の終わりなど認められるはずがなかった。
(あの時、だって……!)
強く、より強く、限界を超えて光を放った。
傷自体は塞がり始めたが、あまりの出血量はどうしようもなかった。血の雨を降らせるほどに失われた血液が、フランの命と共に大地に吸収されていくように感じられた。
(…………!)
強烈な疲労感と眩暈に襲われた。それでも放出を止めなかった。辺り一帯を昼と変えんが如く、全開の能力で治癒の光を放ち続けた。
「――おい、フラン!」
ワークの声がした。
「死んでんじゃねぇぞテメェ!」
叫びながら駆け寄り、檄を飛ばす。
「俺には無理なんだよっ! このろくでなしの俺にはよぉ。俺は困るんだよ、お前が死んだら誰がユイちゃんを守るんだよ! 死にやがったら殺してやるからなっ! お前に死なれちゃぁ困るんだよぉぉ――――」
優しさにこそ欠けていたが、彼の本気の心だと理解できる言葉だった。
「お……お兄ちゃん、頑張って!」
なぜかヒビキ少年の声も聞こえたが、考えている余裕はなかった。
「フラン……お願い……」
眼から涙が溢れ、フランの頬に零れ落ちた。その時、
「……やっと、わかった……」
と、涙を受けた唇が小さく動いた。
「うぅ……」
ウォズニアックの呻き声を聞いたヒビキが振り返ると、いつの間にか彼は上体を起こして座っていた。樹の幹に寄りかかっている。
「…………」
ヒビキは身体をずらした。治癒の光が届かないようにしたのだ。万が一にも復活されてはたまらない。するとウォズニアックは、
「聞いた話なんだが……」
うわ言のように、ぶつぶつと喋り始めた。
「イレギュラー、能力ってのはよ……他人に移るってことは、ほとんど、確認されてないんだとよ……」
ヒビキの様子に気付いたワークも振り向き、訝しげな表情になる。
「……? なに言ってんだ、おい」
元々が痛々しい顔面が腫れて膨れ上がっている。どう見ても満身創痍である。反撃できる余力はないはずであり、腕などもだらん、と脱力し地に落ちている。
しかし、眼光だけは妙に粘ついた生気を放っている……。
「これは、賭けの話だ……。自慢じゃねぇが俺は、賭け事には勝ったことがない。今もこの様だ。しかし――」
ゆっくりと、腕を上げる。手には大型のサバイバルナイフが握られていた。刃物の煌きはなく、べったりと黒ずんだナイフだった。
「だからこそ、だ――。時間は今、場所はここだ――今、ここで、俺は勝利する」
そう宣言すると、手にした刃物を、他人の血液が付着したそれを躊躇なく、自らの喉元に突き立てた。
どくっ――と傷口から、唇から鮮血が溢れ出す。
「……!」
「うお……」
出血が止まる気配はなく、服を赤く染めて流れ続け――そして身体が、ぐらりと傾いた。
死んだ……自殺した。
絶命し、生きることを止めた肉体が倒れ、地面に触れる――そう思われた時、ばっ、と死体の腕が伸びて身体を支えた。
「な……?」
ヒビキは眼を疑った。
死んだはずの男が、顔を上げる。
生気に満ち満ちてぎらついているその瞳は、言外の意思を伝えていた。
〝……あれか、死んだとでも思ったのか――?〟
ウォズニアックが勢いよく立ち上がると同時に、
「ひゃぁぁぁあああぁあははははははははっはははははーーーーーーーーーーーー!」
……治っていく。
首の致命傷が、腫れた瞼が、頬の痣が、折れていた歯が、撃ち抜かれた腕が、破壊されていた筋肉が、血管が、皮膚が――なにもかもが、瞬時に治癒していく。
フランから分けられた吸血鬼としての血が、その生命を復活させていく。顔面を覆っていた大火傷の古傷さえも、今や滑らかな肌へと再生していた。
「……勝ったっ!」
吸血鬼として生まれ変わることができれば無敵になれるが、もしもフラン特有のイレギュラー能力の方まで同時に受け継いでしまえばその瞬間に致命傷を負うことになるという、これはふたつにひとつの賭けであった。
ふたつにひとつ。
生きるか、死ぬか――たった一度の勝負、その選択の瞬間に人生のすべての幸運を無理矢理に詰め込まれた運命が、ウォズニアックを劇的な勝利へ導いたのだった。
「もうお前らに未来はねぇ――賭けに勝ったのはっ! この俺だ!」
吸血鬼の雄叫びが、夜の闇に響き渡った。
*
ぴく、とフランの唇が動き、
「やっと、わかった……」
弱々しい声を出した。
「フラン……!」
ユイが震えた息を吐く。
その様子を見たウォズニアックは、変わらずにやにやと笑っている。
「ほう、死んでなかったのか。それともあれか、やはりその治癒能力がそれだけ絶対的だということか」
皮膚も筋肉も再生しているため、もはや不気味に歪む要素のない笑みであったが、凶悪さはむしろ以前より増していた。
「てめえ、まさか――吸血鬼に?」
「やりたい放題に殴ってくれたな。覚悟はできてるんだろうな?」
ワークがたじろぎながらも、その身を子ども達の前に僅かに進ませた。
「しかしおかげで、幸運の使いどころを間違えずに済んだというものだ。ヒビキよ、お前の実験ももう必要ないかもしれんな」
「ち……くしょう……」
ワークが呻き、ヒビキは眼を見開いて硬直している。そこに、
「退がっていて下さい、ワークさん」
狂人の復活、そして変貌――最悪と呼べる状況に脂汗を浮かべる二人に、フランが声をかけた。
明瞭になったその声に、ウォズニアックの視線が向けられる。フランはゆっくりと立ち上がり、もう一人の吸血鬼に対し語りかけた。
「不思議だったんだ、初めから……。なぜあの夜、僕は助かったのか」
ユイは彼を止めず、引き続き光を当てている。内臓と首の動脈に致命的な破壊を受けていたはずが、もう直立しても問題ないほどに回復されている。
(実際、大した能力だ……)
ウォズニアックは、娘の治癒能力も確実に頂くことに決めた。少女を手元に置いておけば、なにしろ昼間も無敵でいられるのだ。
心を読んだかのようにフランが口を開く。
「ああ、すごいものだろう。けど――彼女にいくら治癒能力があると言っても、それには限界があるはずなんだ」
ウォズニアックはしかし、もはや聞く耳を持たずに、
「らぁっ!」
気合いと共に拳を打った。
ただの正拳突きであったが、吸血鬼の一拳がどれほどの破壊を人体にもたらすことができるのか、その場にいる全員が理解していた。
しかし、
――――ぱしっ
と、フランがその拳をつかむ。
片手であっけなく、止められてしまう。
(は――――?)
しっかりと握り込まれた手は、びくとも動かなくなった。
「こ、これは……!」
明らかに人間の握力ではない。フランというイレギュラーは、夜は常人に戻るのではなかったのか。
「あの時、僕は明らかに致死量の出血をしていた……。ユイの治癒能力の作用が加えられたとしても、常人の肉体で僕が生き延びる可能性なんてなかったはずなんだ」
フランはというと、涼しい顔で語り続けている。
「ぬうっ――くそっ……!」
特に力を込めている様子はない。しかしウォズニアックがいくら苦心しても、握られている右手が万力で固定されているかのように動かない。
「死にかけている者を回復させるなんて、そんなことができるのは吸血鬼の血を持った者だけなんだよ。つまり――」
フランが何を喋っているのか、興味などなかった。これまでに蓄えてきた全ての幸運を全賭けにした勝負に勝ったその瞬間から、既に結末は確定しているのだ。
フランの背後では少女が治癒を続けており、まだ完全には傷が癒えていないようだった。少女の手から放たれる光がフランのシルエットを浮かべている。
(ならば、もう一撃だ――!)
方法は分からないが、万が一フランが吸血鬼の力を発揮しているのだとしても、もはやこちらも吸血鬼である。少なくとも互角の戦いはできるはずであり、ならば相手が完全に回復する前に先手必勝だ――と考え、攻撃動作に移ろうとしたが、
「――――?」
あることに気がついて、その動きを止めた。
(何か……匂う?)
顎を上げて鼻をひくつかせる。
食欲を刺激する、香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
「あぁ――?」
それは肉を焼く匂いだった。嗅いだことがない匂いからしてあまり上等な肉ではなさそうだが、珍しい種類のようだ。何でも屋連中がさぼって肉を食っているのか、しかしこんな夜半に、作戦中に、森の中で――?
続いて、ウォズニアックは腹に熱を感じた。それも炎のような強い熱気だ。匂いもその辺りから漂ってきている、どういうことだ――と、彼は反射的に視線を下げた。
(?????――)
一瞬、意識が空になった。
腹が焼けていた。
腹部の皮膚から高熱が発せられ、服を燃やしながら焼けただれていた。
肉を炙るような、その香ばしい匂いが自らの肉体から発せられていたことを受け入れるのに、視認してからさらに数秒の時間を要した。
(こ、これは――? なんで――?)
夜の吸血鬼。
それは無敵の肉体。
それは無双の膂力。
それは無慈悲の殺戮。
それは無差別の暴力。
それらすべてを手に入れたはずの自分が、いったいなぜ、焼け焦げているのか。
「なんだ――なんだこれはぁぁぁーーーーーっ!? 焼けているっ! 俺の身体がっ!」
絶叫した。フランを睨みつける。
「どういうことだ――何をやりやがった!」
「僕はなにもしていない。この状況に於いて、僕なんかはただのおまけだ」
フランは拳をつかんだまま、身体を少しずらしていた。背後で治療を続ける少女が放つ治癒の光をウォズニアックに届けている。いや――
「あんたは賭けに負けたんだ。あんたがやったことは最初から、勝ち目のない勝負だった」
傷はもう塞がっている。
既に治療は終わっている。
ならばなぜ、少女は光を発することを止めないのか。そもそも治癒の光はもうフランには向けられておらず、まっすぐにこちらに届いている。
「僕はあの夜、弱ってはいたが日中と同じ吸血鬼の状態になっていたんだ。その上で治療を受けられたから、助かることができた」
まっすぐに、光が――――
「まさか……その、娘……」
「そう――太陽だ」
母を殺した人間から、フランの存在が割れることは時間の問題だった。
「君はここにいてはいけない。君にとって世界で一番安全な場所に行くのだ」
母からフランを頼まれていたエインズワースはそう言った。
やがて人と物資が集められ、旅は始まった。親しい人にも別れを伝えることなく出発した。フランがそう望んだ。
年頃の少年にとっては刺激に満ちた旅のはずだったが、フランは何も感じなかった。自分に残された長い余生の、その暇つぶし程度にしか思えなくなっていた。フランは母と暮らしたあの家に、魂を置いて来ていた。
昼間は特に空腹を感じなかったが、食べないまま夜になると急激に腹が空くため事務的に食事をした。初めて口にする物もあったが何の味もしなかった。
この命に、この人生に、フランはもはや意味など感じられなかった。
旅が始まって一年が過ぎた夜、キャラバンが襲撃された。フランは馬車を降りた。夜中は常人であり傷を負えば死の危険もあったが、何も考えていなかった。それでもいいとすら思っていた。冷めた頭で男達の反応を観察して、やはり自分が目当てなのだと確認し、フランは刺されてやった。終わらせるつもりだった。
しかし結果、フランは無様に逃げだした。死の恐怖を前にして、生き続けようとする肉体と本能に突き動かされていた。死ぬ覚悟があったわけではなかった。〝どっちでもいい〟という半端な意思など、絶望していた理性など現実の前に吹き飛ばされた。
フランは力尽きるまで走った。昼間でさえも、こうまで全力で移動したことはなかった。やがて意識が朦朧とし、冷たい地面に横たわると、ここでいいと思った。 ここでもう、終わっていいと。
しかし、フランは見た。
あれは――
「あれは……、太陽の光だった」
遠くを見るような眼で、フランが言った。
「ユイはずっと、僕に陽光を与えてくれていたんだ」
「ぐぐぐ――」
ウォズニアックが唸る。
身体中が焦炎に包まれているかのように、皮膚がふつふつと泡立っていく。
「思えば初めからそうだった。ユイが光を与えてくれていれば……いや、側にいてくれているだけで、僕は夜であっても吸血鬼でいることができたんだ」
昼夜を問わず吸血鬼であり続け、さらに超越した能力を引き出される。
ライフル弾を握り込むという音速を超えた駆動を実現させたように、〈ホワイト・ナイト〉にとってのユイの治癒能力は吸血鬼を超える力を発揮させる陽光なのだった。
「けれど僕以外の、イレギュラーではない通常の吸血鬼にとっては――あんたにとっては、彼女の能力は正に〝天敵〟だ。常人に戻るばかりか、強すぎる陽光の波動を受けた肉体は治癒能力が反作用して、傷という傷を開いてしまうようだな――」
拳はフランに握り込まれており、光を遮る物もなく、ウォズニアックはぶり返した火傷の苦痛に襲われている。
「負けた――? そんなはずはない」
炎熱に苛まれているウォズニアックの喉から、怨嗟の言葉が溢れ出す。
「俺はあらゆる勝ちを捨てて、ずっと蓄えてきたんだ。そのすべての幸運を今、ここで使うと決めたんだ! 全部費やしたんだぞ……! その俺が……負けるなんてことが、ある筈はない!」
「そいつは違う……人生で一度も勝ったことがないなんて人間がいるとすれば、そいつはとっくに死んでいるはずだよ」
フランは淡々と語る。
「あんたは勝ち続けてきたんだ。あんたが生きていることがその証だ。決定的な敗北もなければ、絶対的な勝利もない。それが世の中だ。あんたのようにここからここまでは良い事、そこから先は悪いこと、なんて捉え方じゃ、世界と噛み合ってないのは当然なんだよ」
「ぐおお、おおおお――――」
ウォズニアックの全身の皮膚を覆っていた火傷痕は、もはや痕跡ではなくなっていた。
顔がただれていく。肉が溶け落ち骨がみしみしと砕けていく。あまりの熱に衣服が発火し焼き尽くされていく。
「ぶうおっ――」
熱気を吸い込み、肺が焼かれてしまう。体中に銃痕が空く。へし折れた歯が口から零れる。びしっ、と首が裂け始める。
ウォズニアックの肉体が過去に受けたありとあらゆる苦痛が同時に再現され、地獄の火炎と共にその生命を蝕んでいるのだった。
ユイは光を止めなかった。
(う……)
ぎゅっと眼をつむり、うつむいて泣いていた。フランが助かったという喜びの涙ではなかった。フランを、彼女の仲間を守るために、ひとりの人間を焼き尽くさんとしていることに躊躇していた。
(だって……)
何をしようとしているのか。フランに言ったのは誰だったか。人は何のために生まれてくるのだったか。
この、治癒の光に蝕まれ絶命していく男は、何のために――
(だって……やらなきゃ、みんなが……!)
守ろうとしているのだ。仲間を守ろうとしているのだ。もう体力の限界だったが、それでも頑張って、みんなを守ろうとしているのだ。
(だから……!)
決意を固めた時、陽光を放ちほんのりと暖かい両手が、もっと暖かで大きな手に包まれた。フランだった。
「え――?」
光が弱まっていく。
「もういいよ、ユイ。僕の怪我はもう、大丈夫だから」
「でも……」
「いいんだ」
「う……ぬぐうう――?」
焼け死ぬかに思えたウォズニアックが、今度は再生していく。
「わかったんだ。ユイ、君の言った通りだ。僕は君に人殺しをしてほしくない。仕方がない、なんて君には言ってほしくないんだよ」
「フラン……」
握られた手の感触を感じながら、ユイは再び意識を失った。フランが身体を支える。
「なに言ってんだフラン、やられるぞ!」
ワークが叫んだ。
「ぐおおっっ――」
再生するにも苦しんでいたウォズニアックが、力を振り絞って駆け出した。森の闇に潜り込み、見えなくなる。気配が遠ざかっていく。
「い、今のって――」
ヒビキが心配そうに訊ねる。
「に、逃げたの……? お姉ちゃん、どうしたの?」
「お、おう、流石にあんな目に遭えばな……。さすがの吸血鬼も逃げ出すか」
「……ヒビキか」
ヒビキはフランに名前を呼ばれてびくっ、と反応した。
「どうした?」
「い、いえ――」
「ヒビキっていうのか。おうフラン、さっきはこいつが助けてくれたんだぜ」
なぜフランが少年の名を知っているのかなど瑣末なことだといった様子で、というより疑問に思っていない様子でワークが伝えた。
「へえ……ありがとう、ヒビキ」
「…………!」
自分が伝えるはずだった台詞を再び言われてヒビキは硬直した。
もじもじしているヒビキを横目に、ワークが、ん、と何かに気がつく。
「おい、あいつが逃げた方向って――」
*
ウォズニアックは逃走していた。
身体中からぶすぶすと煙が上がっている。肉体の損傷は光から逃れて回復を始めたが、地獄の苦しみは未だ脳裏に焼き付いていた。
(しくじった――敗北した――)
ひたすらに森を駆ける。治癒の少女から距離を取ることに必死だった。あれか、などと考えつく余裕はなかった。彼の歩んできた人生に、この状況を理解するに役立つ記憶などなかった。
はっきりと、後悔していた。
しかし命を危険に晒したが故の後悔ではない。
(命賭けともなると、だいぶレートが高い……ツキをかなり使ってしまったはずだ。しばらくは不用意に動かない方がいい……!)
あくまでも、幸運を使いすぎてしまったこと、不用意に命拾いしてしまったことへの反省であり、彼の価値観の中では己の命すらも二の次なのだった。たとえ勝利してもそこで運を使い果たしてしまえば生きている意味がない、とでもいうかのような、徹底した幸運至上主義をこんな状況でも貫いていた。
(しかし、底をついた訳ではない……! もう依頼など、金などどうでもいい。必ずお前を殺してやるぞフラン・トライバル。そうとも、弱点はわかっているのだ――)
ウォズニアックは、珍しく憎しみに燃えていた。金で依頼されたから、という理由は意味がなくなっていた。なんといっても、吸血鬼の肉体を手に入れたのだ。何でも屋などというせこい商売をせずとも、資金も戦力も力ずくで略奪できる。
(何としてもだ……必ずだ……!)
とにかく、今は逃げることだ。
態勢を立て直し、再び幸運を呼び込み、そして復讐する。憎しみの目標が、焦燥渦巻くウォズニアックの精神をかろうじて支えていた。
ざっ、と草をかき分けた時、地面に転がっている何かが視界に入った。
(……こいつは)
人間だった。
死体が、そこらじゅうにごろごろ転がっていた。
(こ、こいつら――『何でも屋』の構成員が、全員やられているだと――?)
人影が見えた。
木々に遮られ月も星もない暗闇であるが、吸血鬼として生まれ変わった彼の視力ははっきりとその姿を捉えた。
〝捻じ伏せのエインズワース〟であった。
こちらに気付いて、む、と視線を向けられる。黒ぬくれの闇の中に、そいつの両眼だけが丸く輝いている。その眼光に刺された瞬間、ウォズニアックは、
(……あ、)
と理解してしまった。
自分に残された幸運をどう使っても勝てないと悟っていた。
なぜか、という問いなどこの男の前では無意味であると直感していた。例えるなら山を登っていて、ふと見上げた頭上に大岩が転がり落ちて来て「あ、これは死ぬな」と悟る瞬間のような、そんな自然現象に襲われる感覚に似ていた。
「…………吸血鬼か」
人型をした岩石が動いた。そして、
「…………フランの血を、奪ったな」
転がり落ちてくる。
(ああ、これは――)
死が迫りくる。
運がどうとか、吸血鬼がどうとかいう次元ではなかった。身に迫る圧倒的な大質量の前には究極の生物であろうと淘汰される他ないという、理。
「……ふふっ」
ウォズニアックの身体が揺れて、唇から呼気が漏れた。
「ふ、ふふふはは――」
小刻みに震えた、虚ろな笑いだった。
「ふはは、あはははは――お、俺は、なあ――」
他に生きる道などなかった。
大戦争で家族を亡くし、火傷の後遺症に苛まれていたウォズニアックには、他人の血を啜る以外に暗黒の時代を生き残る術などなかった。
「ここで、お前に殺される運命だったのなら――は、ははは――じゃあ、ど、どうすればよかったんだ? なあ――ふはははは――」
「…………」
どうすればよかったのか。
如何にして生きればよかったのか。
幸せに至る道がどこかにあったというのか。
「ははは、あはははは――」
「…………」
眼前で岩が止まった。
それは走馬灯の中の、一瞬だった。
「…………誰もが、それを探している」
それは優しさであり、厳しさであった。
「その場所に到る道程を、誰もが歩いて……探し続けている」
流れる水であり、溢れる光であった。この世の理であると同時に、逆らうことは不可能な理不尽でもあった。
「君も例外ではない……そうだろう」
そして時が、動き始める。
「……そうだった、な」
呟くと、ウォズニアックは動いた。
大地を蹴り、全霊を賭けた一撃をエインズワースに叩き込むべく身体中の骨と筋肉を軋ませながら突撃した。
血飛沫が、舞った。
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