第五章「決定と戦慄」
「ああ、そうだ」
ウォズニアックがヒビキに声をかけた。ヒビキが潜入の報告をした後のことである。周りでは血に飢えた男達が武器の手入れと確認をしている。
「作戦の前に、お前に確認しておきたいことがあったんだ」
「なんでしょうか」
「いやいや、大したことじゃないんだが」
ヒビキは未だふらふらと宙を漂っているような、なんとも落ち着かない感覚が続いているのだが、相手が期待する役割を忠実に担って生きてきた彼は反射的に対応することができる。
「お前は昨夜、フランという吸血鬼に会ったわけだが」
「はい」
「しかしだ、ヒビキ・チハラノよ――お前は過去に一度、吸血鬼に遭遇しているんだよな。一族郎党を皆殺しにされているよな? その時お前は、その場にいたのか」
トラウマになっていてもおかしくない他人の過去を平気な顔で掘り返してくる。しかしこれにも、ヒビキとしては期待に応えるだけである。
「はい、同じ屋敷の一室で寝ていました」
これを聞いたウォズニアックは、
「ああ、」
と、得心したように頷いた。
これで決まりだ、というようなその顔は、彼が数日前にも川岸で見せた表情だった。
「あれか、つまりお前はこれまでに二度吸血鬼に会い、そして二度とも生き延びているわけか……なるほどなるほど」
声の調子に、ヒビキはひどく不吉な感触を覚えた。まるで、お前のことはよくわかった、じゃあこれでお別れだ――とでも言われているようだった。
するとウォズニアックは急に難しい顔になり、
「と、これだけならまぁ単純な話で、ここからが重要なんだが――ところで、お前は誰だ?」
と奇妙な質問をした。
何が単純でどこからが重要なのか、この男に何を期待されているのか。ヒビキには話が見えなくなってきた。
「あの、名前は、ヒビキ――」
「いやいや、そうじゃなくてだ。お前は、別人になったよな? フラン・トライバルに会って戻ってきてから、お前という人格は変化しているようだ。すっきりした、ともちょっと違うな。なんと言うか――ああ」
そして今のヒビキが最も気にかけている、その言葉を発する。
「あれか、お前には〝なにもない〟のか。生きている間に、普通なら蓄えてきたはずのものがない。ある意味で俺とはまったく反対だと言えるな。お前という人格を支えているものはどうも、とても脆いものらしい」
「そ、れは……どういう……」
「人間の人生には一定量の運がある」
ヒビキが反応できずに固まってしまうが、一方的に話を進めていく。
「しかし、お前のように他人の中でしか生きてこなかった奴の場合は、まだ人生が始まっていないとも言える。では、お前がこれまで生きてきた分の運は、二度も吸血鬼を退けた強運はどこから生まれたのか? ――俺としては、非常に興味深い」
興奮した様子でまくし立てる。
「そこで、こういう仮説を考えた。お前のように確固とした己を捨てて、他人に迎合しながら生きることで、その間は他人の人生の運を〝つまみ食い〟することが可能なのではないか? ――つまりお前は、さらに効率のいい幸運の蓄え方を俺に教えてくれるかもしれないわけだ。しかし今、お前が取り入っている相手は誰だ? この俺だ。俺の幸運を勝手に使われちゃ困るよな。そこで、」
理解不能な論理を展開し続けるウォズニアックだが、それは要約すればつまり、
「俺は、お前にちょっかいを出してみることにする」
彼にしか通用しない歪んだ人生哲学の新たな理論を、ヒビキの人生を使って〝実験させろ〟と言っているのだった。
「お前の役目は、ここで終わりだ」
「…………!」
ヒビキという人間にとって、決定的な一言だった。
死刑宣告にも等しかった。
他人に期待される人間を演じることでしか生きてこられなかったヒビキが、迎合する相手から〝もう要らない〟と宣言される事態とは、すなわち絶望であった。
先程までがふわふわと宙に浮いていた茫然自失の状態だとすれば、これは羽虫が地面に叩き潰されたような死に至り得る衝撃だった。
衝撃は、一瞬後には物理的にヒビキを襲った。
ヒビキの頬をウォズニアックの拳が打ち抜いていた。小さな身体は一撃で吹っ飛ばされて、ごろごろ転がって動かなくなった。
「さて……」
それは無理矢理だった。
誰が見ても理不尽であり、どう考えても不条理であった。
誰の身にも降りかかり得る無慈悲な理が、一人の少年の人生に決定的に喰い込んだ瞬間であった。
「お前がどんな風に生きていくのか、これからは陰から観察させてもらうことにしよう、ヒビキ・チハラノよ……」
絶望の中で気を失った少年に対し、ウォズニアックは冷徹な視線を向けて見下ろしていた。
*
日が暮れようとしていた。
太陽は森の梢に差しかかり、弱い西日を送っている。そろそろ今夜の寝床を決めようかという時刻が近付いていた。
前を走る車両には、いつものように男三人が搭乗していた。運転席にロブ、荷台にワークとエインズワースである。ロブは運転に集中しておりエインズワースはいわずもがなという、ワークとしては微妙に話し相手に困る空間であるが、
「まあ、そう難しい顔してんなよ旦那」
襲撃を警戒してか、いつにも増して黙りがちなエインズワースに声をかけた。
「敵が襲って来たら、前みたいに返り討ちにしてやるからよ。走ってる荷台の上からでも当てる自信はあるぜ? フランは俺がきっちり守ってやるよ」
と普段の軽口を叩いてみせる。
「…………ワーク」
対照的に、エインズワースは重々しく口を開いて質問した。
「君は、本気になったことはあるか」
「なんだって?」
「君は、君という人生を本気で生きようとしたことはあるか、と訊いたのだ」
「……いや、俺は馬鹿だから難しいことはよくわからんが……。ろくでなしなりに、手前の食いぶちを稼ぐだけの腕はあるつもりだぜ」
「腕、とは」
これにワークはおいおい、と呆れた。
「旦那、俺は狙撃手だ。銃の腕っぷしだけで生きてきたんだ。だから今もこうして用心棒の仕事ができてるしよ」
「しかし私には、君という人間の底にあるものは、銃とは異質なものである気がしているのだ。フランを守る、と言ったが……本当にそうか?」
「……い、いや、この間の夜みてぇにもしもってことはそりゃ、あるかもしれないけどよ? 今のは旦那を安心させようと思ってだな――」
「君の心には、この用心棒という生業の他に信念とも言うべき何かがあるのではないか、という予感がしてならない。そしてごく最近になって、そちらの傾向が強くなっているのではないか、と」
「…………」
普段はぺらぺらと軽薄な台詞の多い彼が、珍しく押し黙った。
「それは、そう――彼女が来てからか」
「……だったらなんだってんだよ。仕事には関係ねぇだろ? 役割はきっちりこなすつもりだぜ」
「そうだ。それだ」
突き放そうとする言葉だったが、エインズワースは逆に大きく頷いた。立場が逆転したかのように饒舌になる。
「責めるつもりはないのだが、君はあまり真面目な姿勢で任務に取り組む人間ではなかったはずなのだ。どこかで〝なるようになれ〟と感じている、軽薄というよりある種の自暴自棄ともとれる精神の持ち主だった。ユイ君が来るまでは、だ」
「…………」
「心変わりというような劇的な変化ではなく、その感覚は君の中にずっと昔から存在していたものではないのか……。それは君という人間にとってどのような意味をもたらすのか。関係がないと言ったがそんなことはない。君のその心の動きは、この旅の目的に大いに関係しているのだ」
この男がこんなに連続して喋っているのを聞いたことがあったろうか、というどうでもいい疑問がワークの頭をよぎったが、答えも即座に出たのですぐに思考を戻した。
「とにかく、白夜の大地に着きゃあいいんだろう」
「場所の問題は二の次だ。辿り着くだけでは意味はない。人が幸せになるためにはどうすればいいのか、私にはその真理を見極める必要がある」
「…………」
またしても、黙ってしまう。
それができれば誰も人生に苦労しないであろうという次元の、とんでもなく遠大な目標だった。彼が大真面目だということも同時に理解しているため、ワークは呆気にとられる。
「……旦那は一体、何がしたいんだよ?」
いつもなら、自分の感情ですら確定するまでは断言を避ける男にそもそも答えを期待してはおらず、ワークとしては半分独り言のような無意識の問いであったのだが、これにエインズワースは、
「フランに幸せになってほしい。それが私の願いだ」
と即答した。
フランとユイ、そしてティズが、一緒に荷台に揺られていた。
「ヒビキ君は、お家に帰れたでしょうか」
「……どうだろうね」
生返事である。
今朝、ヒビキ少年に助言をしてからというもの、フランはどこか収まりの悪さを抱えていた。〝心ここにあらず〟という状態で、同時にその自覚もあるような、落ち着かない感覚だった。
「そうねー、今頃は帰りついて、疲れて寝てるんじゃないかしら?」
ティズが代わりに返事をする。
ヒビキのことは既にティズを始め仲間には伝えているので、その辺は自然である。しかし彼が敵の仲間であったことは、これは誰にも言っていない。フランしか知らないことだ。
(そう、敵の一味だった……。なのに、僕は……)
どうして敵に助言をしたのか。
ユイのために、という理由はあったはずだが、それもどこか自分自身へ言い訳をしているようにも感じられていた。その辺りのことが未だ心の中で整理がついていないのだった。
(ユイの態度に引っかかっているのか……?)
死別ではないにせよ、親と離れ離れになっているのはユイも同じである。さほど年が離れているようでもないヒビキに自分を重ねる風でもなく、彼女はただ普通に心配している。
(彼女は強い、のかな……)
フランが母を殺害された時はそんな余裕はなかった。他人の悲しみや立場を考慮できる精神状態ではなかった。同時に、そんな精神に対して思いを巡らせることもできなかったはずだ。すなわち彼の心に余裕ができているということに他ならない。
自分の中から母を失った悲しみが薄れているのかと思うと、どうにも不安な気持ちになる。怒りなのか、悲しみなのか、後悔なのか――
フランはとりとめもなく悶々と渦巻いていく思考に辟易しながら、それらの手綱を取ることもできず心を振り回されていた。
と、森を走るトラックがカーブに差しかかったところで、
ごぎゃがりぎぎゃりゃがき―――――
耳をつんざく凄まじい異音が鳴り響いた。
*
あまりの音量と異様な激しさに、それが金属音だと瞬時に理解できた者は誰もいなかった。
走行中に投げ入れられた鋼鉄製の鎖が、回転するタイヤに絡みついたのだった。フラン達が乗った後方を走るトラックが、無理矢理な急制動をかけられてハンドルを取られる。
横転した。
側面を地面に叩きつけて跳ね上がり、派手に横滑りしながら止まった。
攻撃を受けていることを理解したエインズワースが、
「ロブ――」
と運転手に指示を出すより早く、車はカーブに入る。その道の上に、切り倒された樹木が山と積まれている。
ブレーキが間に合わない。
「くっ……!」
ロブは咄嗟にハンドルを操作し直撃を避けたが、車は道を外れて森の中へと入ってしまう。フラン達から離れていく。しかしこの状況にエインズワースは、
「止まるな、走れ!」
と命令した。
指示を受けたロブが速度を上げた瞬間、森に銃声が響いた。二台を分断すると共に、停止させて狙い撃ちにするのが目的だったのだ。
フランを狙う敵が攻撃を仕掛けてくるとすれば、まずは前方の車両のはずであった。追従している後方車両を一石二鳥で停止させられるためだ。そのためにフラン達は後方に乗っていたのだが、完全にその逆を突かれた形になっていた。
エインズワースは、
「こちらも転倒するぞ。その時はロブ、お前は脱出しろ!」
と即座に次の指示を飛ばす。
「了解……!」
「だ、旦那、俺は――?」
とワークが訊こうとした時、再び凄まじい金属音が響き渡り――
この世のものとは思えない、強烈に耳触りの悪い音が聞こえた直後、フランの乗る車はひっくり返っていた。内臓が浮き上がり、どこに何がぶつかったのかもわからない衝撃が辺りじゅうを駆け巡り――ぱち、と眼を開いた。
即座に身体を起こす。
一瞬、気を失っていた――もしくは軽く死んでいたのだが、フランにとっては同じことだった。辺りを見るとやはり、トラックが横転していた。フランは荷台から投げ出されたらしい。
幌の骨組みが弾け飛んでむき出しになった状態で横向きになり、地面にめり込んでいる。車両と地面との間に、ティズの方足が挟まれていた。
「ティズさん!」
すぐに車両を持ち上げる。意思はあるようで、ティズはうう、と呻きながら足を引きずり出した。
「大丈夫ですか」
フランが問うと、ティズは、
「追いかけなさい……私はいいから……」
と掠れた声を出した。
どこに、と訊こうとして気がついた。
ユイの姿が見えない――
「ユイちゃんが、連れていかれた……!」
(うおおおおおおっ――――?)
ワークは宙に浮いていた。
鎖による攻撃で急制動を受けた瞬間、エインズワースに投げ飛ばされたのだ。決して小柄ではないワークの身体は気がつけば荷台から飛び出していた。
(おおおおぉぉ――――)
前後不覚の浮遊感は、大地に叩きつけられた衝撃で一瞬にしてかき消えた。受け身をとるどころではなく、体中が痺れて動けない。
「ぐぉ……」
それでもなんとか首を回すと、トラックが木々に突っ込んで停止するのが確認できた。必死に草陰まで這いずり、呼吸を整える。
(旦那……ロブさんは……?)
ロブはわからないが、彼を投げ飛ばしたエインズワースが脱出できているとは思えなかった。
(くそっ、敵はどこだ――ん、)
ワークは、自分が狙撃銃を握り締めていることに気がついた。混乱の最中にも無意識で手放さなかったのだが、その事実を認識したワークは、
(…………!)
と、手中にある唯一の戦力を睨みつけた。
(こいつに頼るしかねぇってことなんだよな、俺は……)
そのことが、彼にはどうにも不快に感じられるのだった。
少女は、気を失っていた。
完全に脱力した肉体とは小柄であってもそれなりの重さがあるが、ユイを肩に担いだ男は悠々と森を疾走している。ハンズ・ウォズニアックである。
(ここまでは、当然の結果だ――運が良い、というものではない)
彼は己の幸運を無駄にすり減らさないために、最も確実な方法でフランを始末するつもりだった。夜が近いが能力が失われるまでではない、という中途半端な時刻に奇襲をかけて、戦力を分断させると同時に足を奪う。これには成功し、エインズワースの方は今頃全滅しているだろう。
(後は、肝心の吸血鬼だが……?)
ある程度の距離を稼ぐと、ウォズニアックは立ち止まり双眼鏡を取り出した。
辺り一帯から、散発的に銃声が響いてくる。
(おお、うおおお――どうすんだこれ……)
ワークは樹の陰に身を隠していた。時折、流れ弾により幹が削られる。
車が転倒する寸前に脱出した者がいたらしいことが敵に割れ、潜んでいると思われる場所に絨毯射撃を受けているのだった。
彼は大戦争中に狙撃兵として活躍したが、ここまで接近しての戦闘経験などほとんどない。聞き慣れている銃声だが、敵のそれが間近に迫っていることに対して怯んでしまっていた。
位置が特定されるのは時間の問題である。
(と、とにかく場所が悪りぃ――せめて樹上に登りてーんだが、畜生……めちゃくちゃに撃ってきやがって)
動きあぐねていると、その頭上にするっ、と影が降りてきた。幹に指を食い込ませて身体を支えたフランだった。
「うおっ? 脅かすんじゃねぇよ――」
驚きながらも、大声は出さずに会話をする。
「ユイが攫われました――僕は彼女を探しに行くので、ワークさんは逃げて下さい」
「なんだと!? ユイちゃんが――け、けど旦那はいいのかよ。それにこの弾幕じゃあ、さすがの俺も身動き取れんぜ。ロブさんもどこに行ったかわからんし、援護しようにもよ――」
「いや、心配要りません」
フランは混乱しているワークの言葉を遮り、
「おじさんはもう……決めていると思うから。ロブさんもワークさんもその隙に、いくらでも動けます。――もし余裕があれば、おじさんの援護をしてあげて下さい」
と奇妙な言葉を残すと、バネ仕掛けのような勢いで樹上へ飛び出していき、あっという間に視界から消えてしまった。
「決めているって、何をだよ……?」
そこに再び着弾を受け、びくっ、と身を竦める。
(打開策があるってのか……?)
自分が納得するまでは頑として言動を控えるあの大男が、瞬時の判断を要する戦闘に適しているとは考えられなかった。
(さっきのように、やる時はやる男だが――それでも、旦那はむしろ指揮官タイプだ。まともに戦ってもまず勝ち目はねぇ――つまり、旦那は囮になるつもりだってのかフラン。その隙に俺が……? しかしな、この人数を俺一人でってのは――)
遠隔戦闘での一対多ならば自信はある。しかし相手との距離が詰まりすぎて、ワークのような狙撃兵にとっては明らかに不利な状況だった。こちらの位置がばれればあっけなく押し負けてしまうだろう。
(あの人がそんな愚を犯すはずがねぇ……すると、まさか――)
止まない銃声を聞きながら、ワークは武器を握り締めた。
〝もう……決めていると思うから〟
フランの言葉が頭に響く。
エインズワースがリーダーとして責任を感じ、力ずくでこの状況を打破することを決意しているのだとしたら――
(まさか――自爆でもしようってんじゃないだろうな、ヴォルフの旦那よぉ――)
エインズワースが取り残されたトラックに、銃を構えた男達が迫っていく。
ウォズニアックは微動だにせず、夕闇に包まれつつある森の中でじっと何かを待ち構えている。
ややあって、ついに目当ての人物を捉えた。
(やはり追って来たな……!)
彼の双眼鏡の中には、全力で迫り来る吸血鬼の姿が映っていた。
フランが乗っていた方の乗組員をすぐに殺さなかったのは、少女の誘拐をフランに伝えさせるためである。
(お前が来たことがわかれば、もうお仲間には用はない――)
このまま日没まで吸血鬼を引き付けておけば、勝利は決まりだった。
追跡を確認したウォズニアックは再びユイを抱えて走り始めると同時に、待機している仲間に通信して冷徹な指示を下した。
〝……確認した。後は好きにしろ〟
ウォズニアックからの短い通信に、いやっほう、と男達が声を上げた。めいめいの手には当然のように銃火器が握られている。
彼らは横転しているトラックにゆっくりと接近しながら、周りを取り囲んでいく。
フランが敵を追いかけて行き、取り残されたティズは身体を起こした。
「うう……」
痛めた右足を引きずりながら、倒れたトラックにもたれて立ち上がる。折れてはいないが、まともには歩けそうになかった。
「ロブ! 無事!?」
運転席に向けて呼びかけるが、返事はなかった。気を失っているのかもしれなかったが、この足では救出も難しい。銃声が届いてくる森の中では、ヴォルフ達が襲われているのだろう。
ちっ、と舌を打つ。
車両の横転後すぐに、おぞましい火傷痕に覆われた男がユイを抱え上げて森に姿を消した。ちらり、とティズの方を見たのは、お前がフランに伝えろという意味だったのだろう。
(敵の目的はフラン……なら、おびき出すことに成功した今、ここにも……!)
と冷や汗を流した時、男達の気配がした。やはり用無しも始末するつもりらしい。車両の陰から、銃を持った男が姿を現した。
「おい、女だ!」
ティズを見て、そいつは下卑た声を上げた。
後からさらに五人の男が出てきて、ティズを見てにやついた表情を浮かべながら取り囲んだ。
「なあ、お頭は何て言ってた? 〝好きにしろ〟ってことだったよな?」
「大当りじゃねえかよ!」
などと喚いている。全員がまとまりのない銃を持っているが、構える者はいなかった。その様子を黙って見ながら、他に仲間が来ないことを確認したティズは、ふううう、と長い息を吐いた。
「助かったわ……あんた達みたいなのが来てくれて」
「あぁ?」
「なんだと?」
言葉の機微を捉えられず、男達が訝しむ。
「いやほら、怪我しちゃってたからさ? 問答無用でマジなやつが来てたら危なかったのよ、実際。あー、ほんと命拾いしたわ」
「……?」
武器を持った男に囲まれて、背後はトラックが横倒しになり逃げ場のない状況にありながら、ティズは心から安堵しているのだった。
「……ああ、手前の身体目当ての奴なら、少なくとも殺されることはないってことか?」
「確かにそりゃあ一安心ってわけだ!」
「なるほどな。まぁその後のことは知らねぇけどよ?」
男達は再び下品に笑ったが、
「〝頭の悪い奴は嫌いだ〟って、あの子なら言うんでしょうね。……まったく」
ティズの一言で口を閉ざした。
「あのね、どうしてあたしが、フランとユイちゃんの方に一緒に乗ってたんだと思う?」
一人が険しい顔でティズに近付き、腕を伸ばしたが、
「おいてめえ、調子にのっ、」
と言いかけたところで、どごん、という轟音と共に頭を殴られたかのようにもんどりうって転倒した。
「ひとつ忠告してあげるとね」
ティズは男の前で、大砲のような旧式リヴォルバ―を腰だめに構えていた。撃鉄に左手を添えている。男達が息を呑む。
「銃の撃ち合いに、男女の差なんて存在しないのよ?」
「て」「ふ――」
再び、轟音が響いた。
てめぇ、と言おうとした男は、額から血を噴きながら一回転した。
ふざけんじゃねぇ、と言うつもりだった男は、右眼の下にもうひとつ穴が開いた。
なにも言わなかった他の者達は、鉛弾に脳を破壊され永遠になにも言えなくなった。
全員が、一瞬で絶命していた。力の抜けた人体が崩れ落ちる音が発砲音の名残に共鳴し終えると、車の周囲は再び静かになった。
「痛たたた……。やっぱ片足じゃキツイわ……」
クイックドロウの達人は、六人分の死体を前に、空のリヴォルバ―を握ったまま地面にへたり込んだ。
ワークの心配は半分当たっていた。
突然、トラックが爆発した。
運転席から火を噴きあげた車体が頭を上にして跳ね上がる。接近していた敵は一瞬、熱風に顔を背けた。
その瞬間、飛び出している。
荷台から大柄な人影が現れたかと思うと、自ら視界を狭めている敵に突撃する。
エインズワースは銃を持った相手の両腕を掴み、捻りあげ――ぶん、と投げ飛ばした。もしもその動きに逆らえば腕が折れてしまうため、相手は自分から飛びあがってしまうことになる、そういう投げ方だった。
投げられた相手は、たった今炎上を始めた炎のただ中に突っ込んでいった。すぐに火達磨になり、人間のそんな光景を見せつけられた者は、どうしたって怯んでしまう――銃口を向ける動きが、ほんの少し遅くなる。
エインズワースは投げると同時に拳銃を奪っており、近くにいる者を狙い走りながら連射する。不安定な射撃のためほとんど当たることはなかったが、その勢いに押されて道が開いた。巨体が狙い撃ちになることを避け、手近な相手に突進していく。
眼前に迫られた一人がようやく銃を向け、発砲した。
今度は避けなかった。
奪った銃を弾き飛ばされただけで、怯むことなくそのまま突進し再び敵を炎の中に投げ飛ばしてしまった。
(…………!)
射撃で鍛えられたワークの眼は、エインズワースの神業を捉えていた。
拳銃が彼の手から弾かれたのではく、その逆――エインズワースが敵の銃撃を、手にした銃で受け止めて防いでしまったのだ。
ワークは驚愕に眼を見開きながら、フランの言葉を思い返す。
(決めてるから、って――そういうことかよ……)
そう――彼は既に決定しているのだった。
エインズワースに彼らしからぬ常時即断即決を可能にさせている理由は、本人にしてみれば実に単純明快であった。
殺し屋達から何としてもフランを守る。ティズを、ワークを、彼の仲間を守り抜く――それについては、彼にとってはこれ以上〝考えるまでもないことだ〟という結論の故なのだ。
人間離れした挙動にしても同じことである。
敵の銃口の向きと筋肉の動きを見切って、それよりも早く対処するだけ――一度発射された銃弾より早く動くことはできないが、引き金を引く人間の動作には対応できるからという、もはや論理とも呼べない無理矢理で無茶苦茶な捻じ伏せ方だった。
(いや、いやいやいやいや! ――――できるとか、できないとか……そういう次元じゃねぇだろ……!)
止まらない。
敵を投げ飛ばしては、相手の身体を銃の射線上に入れて撃ち抜かせてしまう。次々に放たれる銃弾はエインズワースを捉えられず、男達の仲間を再起不能にしていく。銃を構える者より、地面で呻く者が多くなっていく。
早く仕留めなければ全滅してしまうという焦りが、さらに自滅を加速させていく。
たった一人で、完全に圧倒している――ただ〝そうすると決めたから〟という、鋼のような意志の力だけで。
(け、桁が違う……違いすぎる! 俺は今まで、こんな化け物と一緒に居たのか……! これが……)
ワークは狙撃銃を両手で抱えるようにして、指が白くなるほど握り締めていた。
(これが――〝捻じ伏せ〟のヴォルフガング・エインズワースなのか……!)
フランが残した言葉の意味を、ワークはやっと理解していた。
〝もし余裕があれば、おじさんの援護をしてあげて下さい〟
あれは、ワークの状況に余裕があれば、という意味ではなかった。エインズワースが、干渉が可能な程度の余裕のある戦闘をしていれば、という仮定を示した言葉だったのだ。
(援護なんてできるわけがない……この場に俺の出る幕はねぇ……!)
冷汗が背中を流れる。気付けば膝が笑っていた。
ワークは今、吸血鬼の殺戮を目の当たりにした時とは比べ物にならないほどの戦慄を感じているのだった。
*
機械仕掛けの如く飛び出したフランだが、その動きは進むにつれて遅くなっていく。日没が間近に迫ったこの時間帯に、吸血鬼の能力が徐々に薄まってきているのだ。
〝ほらほら、日が暮れるぜ……お前の嫌いな夜がやってくる――〟
獣道に足を取られ、ついには息切れを始めてしまう。吸血鬼の視力には森を進む敵の姿が確認できたが、今はもう、闇に包まれゆく森の風景しか映らない。
〝――あれか。お前の〈ホワイト・ナイト〉ってのはつまり、〈眠れぬ夜〉って意味もあるのか?昼間は無敵でお気楽でいられるが、夜はそうはいかねぇからビクビクして眠れませんって、そういう意味が――〟
それでも追い続けることができるのは、声が聞こえるからだった。以前、通信機越しに聞いた男の声だった。風に乗って微かに響いてくるそれは、フランを挑発している。
〝ビクビクしてなきゃならん時間だな。それでもそうやって走っているのはあれか、仲間とかいうやつのためか――?〟
同じようなことを繰り返しているのは、風下にいるフランに届くかどうかというぎりぎりのところで声を発しているからだ。確実に意思を伝達しようという目的はなく、その中のどれかがフランに届いていればいいのだった。結果、途切れ途切れに漂ってくるその声は、ひとつのことを伝えている。追って来いと、そう言っている。
不思議な感覚だった。
鼓動の高まりとは裏腹に、フランの心は穏やかだった。先程までの、どうしようもなく思考が乱れている精神が嵐だとすれば、今は不自然に凪いだ水面のようだった。
数日前に森を駆けていたのは、自分の命を守るためだった。今も同じく命賭けなのだろうが、どこか現実味が薄い。
自分が何を求めて走っているのか、いまいちぴんとこなかった。無心と言っても良い程だった。息が切れ、肺が痛み、それでも耳を頼りに走り続けているうちに、漂ってくる敵の挑発はどこか焦点がずれているように感じられた。
ユイが攫われたことには自分への怒りを覚えており、あの少女がいなくなるのではないかと考えると心が掻き毟られるような不安を感じはするのだが、それはこの状況自体とは関係がないような気がしてくるのだ。
既に周囲は闇に包まれようとしている。能力が失われていく。このまま追いついたところで、敵を――と考えたところで、フランは気がついた。
彼は今、敵に対して憎しみを感じていなかった。
吸血鬼に恨みはない、という言葉を聞いていたからだろうか。母を殺した者とは 思想の異なる相手らしい、というこじつけのような理由で、仲間を襲いユイを攫った非道な敵を許してしまっているのか。
(いや――違う。そういうことではない……)
敵のことなどどうでも良かった。それは情けは無用、という冷酷な感覚とも違い、本当にもうどうでもいいとしか考えていないのだった。
ではなぜ足を止めないかというと、これにはすぐに答えが出た。
(僕は、会いたいだけなのか……。とにかく、ユイに――僕は彼女に、また会わなければいけない……)
罠である。それはわかっている。歩を進めるほどに自ら危険に近付いている状況なのだが、しかしそれを考慮しようという気になれない。
自分自身のことも、この世界のことも、後回しだった。彼女に会わなければならない、その一心で走り続けていた。
やがてフランは額に汗を流し、ぜえぜえと喘ぎながら立ち止まった。
視線の先には、男が立っている。ユイの身体を支えて首に刃物を当てている、顔面を火傷痕に侵された男だった。
「――やっと会えたな、吸血鬼よ」
そいつが口を開く。
「安心しろ、俺一人だぜ? 勝負ってのは他人の運に頼るわけにはいかないからな。運を味方につけるってことは、運命をこの身ひとつに引き寄せるってことだ。周りにあんな屑どもを置いてちゃあ、勝てるものも勝てなくなるんだよ」
滔々と自己哲学を語るが、フランは眼中にない。耳にも入っていない。
ただじっと、半ば意思を取り戻そうとしているユイの顔を見ていた。
「ん……」
呻く声と共に、うっすらと瞼が開いていく。
「さて。お前はもう、ここで死ぬことが確定しているわけだが――あれか、なにか言い残すことなんぞあるのか?」
日輪の面影が消える。太陽は既に彼方へ没し、紫紺の空に暮れ残された薄光もその後を追い急速に闇に滲んでいく。
夜が訪れた。
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