第四章「修羅と混迷」
都合三度目の襲撃を受け、フランが単独で殺戮を成した夜――森に張られたテントの中に、二人の人間がいた。少女は横になっており、毛布にくるまって静かに寝息を立てている。ユイ・ヤマブキである。
もう一人の少年、フラン・トライバルは傍らで少女を見守っていた。
フランが殺害した敵を治癒しようと無理をして、彼女は気を失ったのだった。そもそもフランを発見した夜に、体力をほぼ使い果たしていたのだろう。
体力を極端に消耗する治癒能力を、敵に対してさえ施そうとしたユイの行動が、フランには理解できなかった。
(それでも、僕は守る――仲間を死なせないために。そのためには、敵に情けをかけている余裕なんてないじゃないか。やるか、やられるか――それが戦いだ)
じんじんと響いていた頬の痛みを思い出しつつ、自問自答を繰り返す。
(けれど、その僕をおじさんはどう思ったんだろうか――ユイが眼を覚ましたら――そして、)
何より、この世の誰よりも大切だったあの人は――
(母さんは、どう思うんだろうか――)
〈ホワイト・ナイト〉――白夜の二つ名を持つイレギュラーの少年はそれから数日間というもの、悶々と眠れぬ夜を過ごすことになった。
*
月のない夜だった。日が沈んだ空は全天が深い藍色に染まり、世界の唯一の光源として星が瞬いている。
星が見下ろす暗い森の中を、ゆっくりと動く影があった。
ヒビキ・チハラノだった。
(もうすぐのはずだ――待ってろ、吸血鬼め……)
小さなその人影は、星明りのみを頼りに歩を進めていた。
「お前、吸血鬼を殺してこい」
ウォズニアックが言った。
「え?」
ヒビキは訊き返した。彼が仲間として認められた翌日のことだった。
「フラン・トライバルだ。俺達の目標だ。――お前が殺してこい」
「ボクが、ですか……?」
ヒビキはまず、お頭にからかわれているのかと思った。自分のような子どもが簡単に殺せる標的であれば、わざわざ徒党が組まれたりしないだろう。
「し、しかし、どうやって――」
「こいつを使っていい」
と、小さな巾着袋を放って寄こす。
「これは……?」
「毒だ。利くかどうかはわからんがな。試しにそいつを飲ませてみろ」
袋の中を覗くと、枯れ葉のような乾いた植物が少量入っている。ヒビキはウォズニアックが本気で言っているのかどうか、まだ判断しかねていた。
逡巡を見てとったウォズニアックが背中を押す。
「言ったろうが、俺は腕のいい奴は嫌いじゃねぇ。お前は見どころがあるから直々に命令してやるということだ。――あれか、それとも止めておくか?」
「い――いいえ、やります。やらせて下さい」
復讐を遂げるチャンスを与えようというのだろうか。お頭の本心はどうあれ、ヒビキにはこれからの行動の指針ができたことが嬉しかった。
仕事が与えられたこと、そのこと自体が嬉しかった。
彼はこれを、自覚していない。
慎重に歩を進めながら、少年が吸血鬼に迫る。
ウォズニアックから預かった猛毒を、ヒビキはティーバッグの中に仕込んだ。迷子のふりをして吸血鬼に接近し、お茶を淹れてもらう。その時に、手伝いを申し出て毒を盛るのだ。
ヒビキには枯れ葉の屑にしか見えないが、口にした人間は十分以内に呼吸が止まり、そのまま窒息して死ぬのだという。念のため、刃物も服に忍ばせていた。
森を抜けた。峠の頂、開けた場所にトラックが停まり、離れてテントが張られている。人影は見えない。
ヒビキは表向きの警戒を解き、普通にとぼとぼ歩き始める。迷子が人のいそうなテントを見つけたら、期待と不安を込めて近付いていくのが自然だ。冷静な殺意を抱いたまま、ヒビキは目標の居場所を探った。
(もう少しだ――ここまでは問題ない)
彼は大人の世界で過ごしてきた。
悪い奴も汚い奴も屑のような奴も嫌らしい奴も、たくさんの大人を見て関わってきた。もちろん優しい大人もいたが、ヒビキにとって問題なのはそいつが自分の利益になり得るかという一点のみだった。
その誰しもが、何かしら心に欠陥を持っていた。人生に足りないものと言ってもいい。その欠落に合わせて相手の心を満たすような演技を見せてやると、ヒビキのことを気に入り、悪いようにはしなくなるのだ。
期待された役割を演じる。それがヒビキという少年の処世術だった。そうして生きるうち、相手がヒビキという他人の中にどんな〝役割〟を求めているかを見抜く観察眼と、提供するための演技力が鍛えられていった。
どんなタイプの人間が出てこようと対応できる。幼いながらも濃密な人生経験に裏打ちされた確固たる技術と自信が彼にはあった。
(いける……このまま潜り込める……ボクが吸血鬼を殺せる!)
すると、テントの脇から人影が現れた。
ヒビキは集中した。相手がどんな人間か見極めようとした。発見されることは想定内であり、下手に身を隠すこともない。初めて出会う大人に〝都合のいい奴〟として認識されれば、そのまま潜入できるはずだった。
しかし、ヒビキはそこに予想していなかった事実を見ることになる。
「あら――どうしたの、こんな夜中に」
優しげに響いたその声は、
(お――)
ヒビキの集中を掻き乱した。
この相手に対応できそうな記憶を探して必死に脳内を検索したが、すべて空回りに終わった。
「迷子さんでしょうか……? 君、どこから来たの? お名前は? お腹は空いてない?」
矢継ぎ早の質問に対して、パクパクと口を動かすことしかできない。ヒビキの豊富な辞書の中にも、年頃の異性との関わり方だけは載っていないのだった。
(お、女の子がいるなんて、聞いてないっ……!)
ウォズニアックがたき火の前で暖を取っている。光を受けた火傷痕が、不気味な影を揺らめかせている。
「お頭、なんであんなガキを引きいれたんで?」
周囲の男の一人が彼に訊ねた。
「……あれか、お前はあの事件を知らないのか」
彼が質問で返答すると、
「チハラノと言やあ、吸血鬼に惨殺された名門貴族ってことで一時期、話題になったよな」
別の男がその答えを継ぐ。
「確か、帝国の管理から抜け出した吸血鬼が、たまたまその貴族の家で暴れたんだよ。当然皆殺しだな。しかし唯一生き残ったのが、あの小僧だってわけだ」
「そうだ。チハラノって名の通り、元は帝国の出らしい。ネイティヴにしちゃ珍しいがな。事故ってことにはなってるが、裏はどうだか怪しいもんだ」
ウォズニアックが引き継いだ。
「……? そしたら、なんだってそんな、貴族さまのガキなんぞがここにいるんで?」
「あいつはな、吸血鬼退治が自分の使命だと思ってやがるんだ。教会からのつてでも何人か声をかけたからな、志願して紛れ込んでたんだろうよ」
「それは眉唾だぜ、お頭。金持ってんなら危険を冒さずに、俺たちみたいな輩に出資して始末すればいいんじゃないのか? わざわざ自分で仕留めようとしなくてもよ」
部下のまっとうな疑問に、ウォズニアックは肩をすくめた。
「そこはそれ、俺ら〝何でも屋〟の雇い主――イカれた吸血鬼撲滅派と同じだろうさ」
「吸血鬼を狩るのが我が人生だとか盲信してんのか。偉い奴の考えはわからんね……」
「ま、とりあえずひと勝負といくか? お頭もどうだい」
と、いつもの話題に落ち着く。
(しかし、チハラノか――使えるかもしれんぞ)
無論、毒薬と称してヒビキに渡したものはただの雑草である。こうして賭けの材料を提供するために、興味本位で向かわせたにすぎない。
彼がこの集団の中で賭け事を認めている理由もここにある。最近無駄に勝ちすぎていると感じた時に、賭け事に臨むことで敢えて〝負け越し〟の状態になるためだ。
一番の多額を賭ける彼はこれまで勝ったことがなく、運が良かった者にはそれなりの臨時収入が入るために集団としての勢いをつける目的もあり、彼としては一石二鳥なのだ。
(気にかかるのは、あの光だ。娘が同行していることがまず不自然だったが……あいつも、小僧と同じくイレギュラーだったか?)
前回ぶつけた下請けの襲撃も、ウォズニアックは観察していた。
もっと近くで光を見ていれば、その体中を蝕む火傷が治癒されることでユイの能力に気付いたかもしれない。しかし前回のように遠距離から慎重に観察していたため、光がもたらす効果までは把握できていないのだった。
直に獲物に接触するのは、勝利を確信した時だけである。
運を節約するため、なるべく運任せにならないようによく下調べをしてから殺しを行う、それがウォズニアックの常套手段であった。迂闊に勝つわけにはいかないのだ。もちろん負けて死ぬわけにもいかないが、後遺症程度ならば彼は何とも思っていない。
(とりあえずは、チハラノの小僧に賭けて運を貯めるか。吸血鬼やらイレギュラーやらが相手となると、さらに負け込んでおく必要があるからな……)
炎に揺らめく不幸の痕跡が、その歪んだ価値観を如実に物語っていた。
困惑をどうにか隠しながら、ヒビキが返事をする。
「お……あ、あのボク、ヒビキって言います。道に迷ってしまって――」
「まあ、それは大変。どうしましょう……」
彼より数歳年上に見える少女は、素直に驚いている。ヒビキが一方的に動揺してしまっただけで、感付かれたわけではない。
無駄に緊張する必要はない。ヒビキは鼓動を落ち着かせ、大丈夫、と自らに言い聞かせた。
「と、とにかく大丈夫。もう暗いから、私たちのテントにいらっしゃい。ね?」
すると女の子も同じようなことを言い、ヒビキに嬉しい提案を出してきた。
「うん……ありがとう、お姉ちゃん」
(作戦通りだ――うまくいっている。焦ることはない――)
あくまでも困惑している幼気な男の子、という演技をしながら、案内されてテントへ向かう。
ヒビキがテントの入り口をくぐると、
「誰だい、その子は」
と声がした。
(いた――)
ヒビキの背筋がひんやりと冷えた。
(お前が――お前を始末することが、ボクの使命だ……!)
それでいて、身体の奥は沸々と熱くなっていくような――
「ヒビキくんです。外にいたんです。道に迷ってるうちに暗くなってしまったみたいで」
「迷子か……。寒かったろう、遠慮しなくていい」
少しは疑われるかと構えたが、吸血鬼の方もすんなりと受け入れてくれた。凶悪な吸血鬼という雰囲気はなく、むしろ覇気がないというか、腑抜けた感じがある。
「あ、ありがとうございます……」
「あ、私はユイっていうの。こちらはフラン」
「こんばんは、ヒビキ・チハラノです」
内心では使命感に燃えているが、決して表情には出さない。そこでユイが、
「お茶でも淹れましょうか。ティズさんはもう寝ちゃったかしら」
と、さらにヒビキの目論見通りの行動に出た。
(きた……!)
ヒビキの眼が光る。
「あの、お構いなく……」
警戒されないために社交辞令として遠慮してみせると、ユイは、
「そう? ごめんなさいね」
と言って、あっさり引き下がってしまった。
もう、動く気配がない。
(……え?)
彼の経験では、こういうとき大人は「子どもが遠慮するものじゃありません」とか言って、施しをして自己満足を得ようとするはずだった。
(いや、ちょっと手間をかけてでも普通、お茶くらい出すだろ……! 寒空の中を彷徨ってきたんだぞ?)
心の声ではもちろん、他人は動いてくれない。
想定外であった。
ヒビキは大人の世界で生き、様々な人間と関わってきた。それに間違いはないのだが、子ども同士となるとほとんど繋がりがなかったのだ。
彼の処世術の中に、子ども相手に通用する技術は少ない。ここに至って本人も薄々は感付き始めていたのだが、今は冷静に分析している余裕などなかった。
吸血鬼はなんだか想像と違うし、女の子とはろくに話したことなどない。ヒビキは混乱していた。
フランも特に助け船を出さず、むっつりと押し黙っている。こちらは女の子に比べてなんとなく〝空気が読めそう〟な雰囲気があったが、そもそもヒビキのことなど興味がないようである。
(夜中に火を熾すことを嫌ったのか? それなら――)
と考え、
「あ、あの。何もお礼できないけど」
自前の水筒を取り出してみせる。
「家から持ってきたお茶です。これ、どうぞ」
「あら、優しいのね」
ユイが受け取ろうとすると、フランが横から手を伸ばして奪った。迷いのない動作だった。
「君は、いつから迷子になってるんだい」
と訊きながら、蓋を開けて無遠慮に中を覗く。
「えっと、お昼ご飯を食べた後に遊びに出て――」
嫌な予感がした。
「少しも減ってないな、その割には」
「それは、大事に取っておいたから――」
「まあ。そんなに大切にしてたのなら、これはあなたが飲むべきです。お家の方が持たせてくれたのでしょう?」
「…………」
朗らかに、そんな結論に導かれてしまう。
「あ、ありがとうございます……」
ヒビキは水筒を受け取るために腕を伸ばした。その際、服の裾から出た手首を見て、
「あっ」
とユイが声を上げた。
ヒビキの肌に、ぴいっとみみず腫れが浮かんでいる。森を抜ける際に枝に引っかかり切っていたのだった。
「いけない、ちょっと見せて」
「あ、ユイ」
フランが声をかけるが、すぐにユイはヒビキの手を取る。
「え? ええ――?」
うろたえていると、ユイに握られた腕が俄かに温かくなる。瞬間、テントの中がぽうっと明るくなった。
「え……」
光っている。彼女自身のほんのりとした温かさが、眼に見える形になって出現しているような――
驚いているうちに、光は消えた。
「い、今のは――?」
「すごいでしょう? 私は怪我を治すことができるんです」
ユイは得意げである。そこで初めて、ヒビキは腕の腫れが引いていることに気がついた。
「…………!」
ヒビキが絶句している間にも、
「ユイ、あまり人に見せない方がいいと思うよ」
「あら、人助けに理由なんていりませんよフラン」
と二人は自然に会話を続ける。言っていることはちぐはぐなのだが、妙に噛み合っている。
鋭すぎる吸血鬼と天然っぽい少女のコンビは、なんだか奇妙な安定感を感じさせた。ヒビキの考えなど初めからばれていて、掌の上で遊ばれているのではないか――
(いやいや、考えすぎだ――)
一度立て直そうと思った。整理が必要だった。
この少女は何者なのか、吸血鬼とどういう関係があるのか。
フランは時間帯に関わらず吸血鬼でいられる特殊な存在らしいが、どこかに弱点と呼べるような特徴はないのだろうか。
(そうだ、例えば……今のような夜中は逆に、普通の人間になってしまうとか――)
と想像したが、その考えはすぐに自分で否定した。そんな都合の良い話があれば、彼の前に差し向けられた刺客たちがとっくにけりをつけているだろう。
(と、とにかく吸血鬼は目の前だ。何か、他に方法はないか――)
「本当にいいの、放っておいて」
ティズが不安げに言った。問われたエインズワースは、
「…………必要はない」
と熟考の末に返事をする。
二人はトラックの荷台にいた。幌の隙間から、フラン達のいるテントを見張っているのだ。当然、見知らぬ子どもが中に入っていくのも確認している。
「まあ、あんな小さい子が刺客ってことも考えにくいし。迷子かしら」
「…………」
エインズワースが応えないので、話題を変える。
「だいたい、あの二人だけ別のテントって危険じゃないの、やっぱり」
ユイを仲間に加えた夜から、二人の寝床だけは別にテントを張って目立たないよう離しているのだ。車を狙われた際にも対応可能で、フランの負傷はすぐにユイが治癒できるためということだが、建前のような理由ではある。
「…………」
しかし、これにも反応がない。
普段から口数が少ない男ではあるが、妻の前では少しは喋るのかというと、これが逆である。気心の知れたティズと一緒だと、さらに遠慮なく押し黙ってしまうのだ。
ティズも慣れているのでいつもなら深追いはしないのだが、
「……あのさ、訊いても良いかな」
しかしこの夜は、違っていた。
「ワークも気にしてたけど、ユイちゃんを連れて来た本意はなに? 確かに、治癒能力は魅力的だわ。敵の中にイレギュラーがいないとも限らないし、こちらも対策はしておくべきだと思う」
ティズとしても、この件に関しては中途半端に引くことはできないのだ。
「でもそれはこっちの都合で、あの子にしてみれば危険でしかない。フランも反対したんでしょう? それでも無理矢理引き入れたんなら、あんたがそばにいて守ってあげるのが筋ってもんじゃないの? どうしてフラン任せなの?」
「…………」
「久々に同年代の子と関わってフランも少し変わって、やる気を出してくれているみたいだけど、結果……あの惨事よ。あたしは、フランにあんなことをして欲しくない。大戦争は終わったのよ。吸血鬼の力を使わせるべきじゃない」
「…………」
「あんたが考えなしに動いてるわけじゃないことはあたしが一番よく知ってる。だけど、今回のあんたは……そう、やりすぎな感じがするわ。せめてユイちゃんに声をかけてあげるとか、事後処理ってものがあるんじゃないの」
「…………」
「ねえヴォルフ、あんたはなにを考えてるの――?」
ティズの詰問に対し、エインズワースはただじっと押し黙り、視線を返すだけである。
フランは少年を見ていた。じっと観察していた。
この闖入者はおどおどしていて一見迷子らしい態度ではあるが、ふとした時の眼には鋭い印象も感じられる。水筒のことといい、どこか違和感がある。
しかし一方で、ユイの能力に驚いている様子などはやはり普通の子どもでもある。見張っているはずのエインズワースが駆けつけて来ないことからも緊急性はないものだろうと判断し、様子を見ることにした。
するとそこに、
「フラン、改めて訊ねたいのですが」
とユイが話しかけてくるが、その声がどこか重い。
フランが応えないでいると、さらに、
「フラン、なぜあんなことをしたのですか」
「……お客さんがいる前で話す事じゃないよ、ユイ」
「なぜ、あんなことをしたのですか」
「…………」
「なぜなのですか」
はぐらかそうとしても、ひたすらにまっすぐな瞳で見つめてくるだけだ。
問われていることはわかっている。数日前の襲撃についてである。眼を覚ましてからというもの、フランがたった一人で反撃に出たことについて問い質そうとしてくるのだ。
傍らではヒビキ少年が、何の話かと不安な顔で二人を見比べている。
見ず知らずの来客の前ですら頑なに姿勢を貫こうとする、エインズワースもかくやという頑迷さを見せるユイに対し、フランは嫌気が差し始めていた。
……沈黙が続いている。
返答を待つティズの厳しい視線を、エインズワースは黙って受け止め続けている。やがてエインズワースが、
「……あの夜」
と重い口を開いた。
「初めに襲撃を受けた夜……。フランはおそらく、死ぬつもりだった」
「…………ええ」
これはティズも薄々、感じていたことだった。
母親が殺されてこの旅を始めてからというもの、フランは変わってしまった。最愛の肉親の死と、母と自分が人々から憎まれる吸血鬼であったという事実に、そのあまりの理不尽に絶望していた。
「吸血鬼は夜になると、本能に強い凶暴性を抱えることになる。フランの場合は昼間だが……それを抑え込むのは、さらに強靭な精神力だ」
「……それは初耳で気に食わないけど、納得のいく話ではあるわね。フランは時々、怒りを堪えているようなことがある……。けど、話が見えないわよ。その精神力をフランに鍛えさせようってこと? あんたみたいな? どうやって?」
「君だ、ティズ」
「あたし?」
「私にとっての、君のような存在だ。大切な人間がいるといないとでは、人間の心の強さには天と地の差が生まれる」
「……ごまかしてんじゃないわよ」
と言いつつも、ごまかしているのはティズの方である。ティズは彼が本気で言っていることを理解している。この男は冗談など言えない。
「それで、フランにユイちゃんを守らせることで、大切な存在との絆を育ませて希望を持たせようって? 一石二鳥ってこと?」
「あの子の母親がいた間は良かった。吸血鬼の力を意識していない上に、母という大きな存在がブレーキをかけてくれていた……」
「それは間違いないけど……で?」
ティズの雰囲気が変わる。
「言い方は悪いんだけど、つまりはあの子に犠牲になれって言ってんのかしら。フランのために。だとしたら、あんた――」
その言葉の端々から、睨みつける瞳から強烈な圧力が放たれている。
たった今微妙に口説かれた女性とは思えない、ワークなどがあてられれば逃げ出すか卒倒するかであろう凄絶なプレッシャーであった。
「あんた――女をなんだと思ってんの?」
「……相手が撃ってきたんだ。仕方ないだろう」
「おじさまは、あのまま逃げるつもりだったそうです」
「おじさんが間違っていたとは思わないよ」
「私もそう思います」
「…………」
頑なである。
小さな身体に似合わぬその意志を、なんのためにフランに突きつけようとするのか。ユイは眼を逸らさない。
「……逃げてばかりいても勝てないだろう。〈ホワイト・ナイト〉能力があれば撃退できる。昼のうちにけりをつけておいた方が、君の安全にも繋がるんだぞ」
そうは言うが、フランはどこか自分の方が幼い感じがしていた。論理としては確実にこちらに分があるはずなのだが、頑なになっているのはむしろ――
「それが勝利というのなら、私達は勝つ必要などありません」
「じゃあ、負けて殺されてしまえばいいっていうのか」
「どちらでもありません。彼らが諦めるまで、逃げ続けるのです」
きっぱりとしたユイの物言いに、フランの表情が曇っていく。
「彼らも……死にたくなどなかったはずです」
「――そんなことに構ってられるか……!」
険悪になっていく。
ヒビキはすっかり縮こまっている。
「母さんはあいつらに殺されたようなものなんだぞ! 吸血鬼だからって何もしてない母さんが! あいつは吸血鬼だからって、それだけの理由で殺すんだ! そんな奴らのことを――」
「そのお母様も、フランに人殺しなどしてほしくないとお考えになるはずです」
この言葉に、フランの意識は空になった。
「……ふ――」
いったいなにを根拠に、母の心を語るのか。
「ふざけるなっ!」
ヒビキがびくっ、と反応したが構わなかった。心のままに、フランは叫んだ。
「何がわかるっていうんだ! 僕の……僕のことが! 母さんのことが! ユイに何がわかるんだよ!」
「わかります」
再び、きっぱりと断言される。
「…………!」
激情にまかせ、さらに言い募ろうとした時、フランは気付いた。
ユイは涙ぐんでいた。
「フランが……そんなに大切に想っていたお母様なら、きっと素敵な人だったのだろうと、それくらい私にもわかります」
ぽろり、と雫が落ちる。
「だから、お母さまのお気持ちもわかります。……フラン、あなたの大切な人は、きっとあなたに幸せになってほしいと願っているんです」
声はふるふると震えているが、調子を変えずに喋ろうとする。
「人はきっと、幸せになるために、この世に生まれてくるのです。だから……」
見開いた瞳から、あとからあとからこぼれてくる涙をぬぐおうとしないのは、それは彼女なりの強がりにも見える。
「だけど、人を殺めてしまっては、その相手はもう決して、幸せを探すことができなくなってしまうのです。だから、だから……」
「それじゃあ……」
フランは呻いた。
「じゃあ、許せって言うのか……。母さんを殺した奴を……!」
ぎりぎりと拳を握り締め、虚空を睨みつけていた。
……空気が乾燥していく。ピリピリと肌に突き刺さってくる。その中で、ティズとエインズワースが向き合っている。
それは殺気と呼ばれる気迫であった。
吸血鬼には及ばないものの、並の人間なら怯んで動けなくなるであろうティズの鋭い意志を突きつけられてなお、エインズワースに動揺した様子はなく、
「……フランは、あのままではいけないんだ」
と言った。
「たとえ無事に白夜の大地に辿り着けたとしても、希死念慮を抱えた吸血鬼として生きるのなら、フランに人間としての未来はない」
「だからってね――」
「逆だ」
「……逆?」
「そうだ。真に考慮すべきなのは、事態が逆に働いてしまった場合だ。ユイ君はフランの精神にとって、必ずしもプラスに働くとは限らないだろう。その精神から、さらなる残忍な凶暴性を引き出してしまう可能性すらある……」
「それって……」
「人間と人間だ。うまくいくとは限らない」
「そんな……結局は賭けじゃない。ユイちゃんはその道具ってこと? それにフランは――そもそも吸血鬼ってのは暴走することもあるんじゃないの」
四年前の貴族一家虐殺事件が頭をよぎった。帝国の支配から逃れてきた一人の吸血鬼が、戦場でもない辺境で暴走したのだ。
「もし、フランが吸血鬼としての能力に呑み込まれて――人生にさらに絶望して、本能に任せて暴れるようなことになったら、フランは――」
不安を膨らませていくティズに対して、夫の方は、
「そうなった時は、私が止める」
力強く、そう断言した。
できるかどうか、という常識的な問いなど受け付けない、鋼鉄の意志で以って語られたその言葉は既に〝決定〟されたものであることは明らかだった。
ティズは、
「…………」
と口を開くが、もはや言葉が出てこない。彼の決意を前にしてこれ以上何を伝えればいいのか、それがわからない。絶句していた。
彼女にはもう、自分が何を言ってもこの男を動かすことはできないということが直感されていた。
「……あーっ、もうっ!」
論理によって説き伏せられた、というのではなく――捻じ伏せられていた。
彼の鋼の如き魂の前には反駁できる言葉などなくなってしまうという、それが彼をして〝捻じ伏せ〟の異名で呼ばれる所以であった。
ティズは夫の頭を、ごん、と殴った。
音からして全力である。
「あんたね、死ぬ気? 止めるってことは、昼間のフランに勝てるとか思ってんの? 馬鹿なの?」
言いながらも、拳でごんごん殴り続ける。
「あんたがいなくなったら、それこそフランは荒れちまうわよ。そんなこともわかってないっての? 馬鹿なの? そうなの?」
「…………」
罵倒も殴打もまったく遠慮がないが、エインズワースの方は反撃せずやられっぱなしである。やがて、頭をがしがし掻きながら呻く。
「あーっ、そうね、今更だわ。そういうことにならないように、あたしが頑張らなきゃいけないわけよね。いつものことだわ、まったく」
「……すまない」
「まったく、ホント石頭なんだから……」
とぼやきながら、ティズは拳をさすった。
(なんだ――?)
ヒビキは困惑していた。
フランという男は、彼にとっての吸血鬼ではなかった。吸血鬼とは、幼い頃世話になっていた親戚一家を惨殺した、紛れもないこの世の悪だった。
(それが――)
許せない、らしい。吸血鬼の母親を殺した相手を。同じ考えを持つ人々を。握り締めた拳を震わせ、瞳には涙を湛えるほどに、許すことができないらしい。
許しを請うのは、吸血鬼の方ではなかったのか――
ヒビキは、己が眼の前の男を殺害する光景を、どうしても想像できなくなっていた。ヒビキが想定していたのは、吸血鬼が毒を飲んで「うっ!」と苦しみ「バタン!」と倒れて死ぬという単純なイメージだった。仲間がいきなり倒れて、周囲が動揺しているところを暗闇に紛れて逃走する、というシナリオだった。
いや、いっそナイフでのどをかっ切ってやったらどうか。今のこいつはどう見てもただの腑抜けた青年だ。小柄なヒビキの方が動きは素早いはず――
(いや――)
それではヒビキが殺したことが誰の眼にも明らかになる。混乱に乗じて逃げ出すなどという作戦がうまくいくとは思えない。
(いや、いやいやいや! 落ち着くんだ。な、ナイフもだめだ――)
ここで、はたと気がつく。
そもそも刃物を持っていることが二人にばれたら、疑われるのではないか――? そうなればいよいよ窮地に落ちってしまう。使用する覚悟もないのなら、無用の疑念を持たれるだけだ。置いてくるべきだった――
ヒビキは重大な思い違いをしていたことをやっと理解した。人が人を殺すとはどういうことなのか、それを全く理解できていなかったということを。
(む――無理だ……)
ヒビキとて、死という現象に対して無知であるわけではなかった。
実体験がないわけでもない。幼い頃に火事で両親を亡くしているし、その後世話になった叔父の家族も吸血鬼の手にかかり既にこの世にいない。そもそも、昨日の戦闘で血の雨すら眼の当たりにしている。しかし――
(無理だっ……。ボクにはこいつを殺すことはできない……!)
しかしそれらは、自らが手を下して〝人を殺す〟ということは全く別次元の問題であることを、ヒビキは今、汗を握り込みながら痛感しているのだった。
(だめだ……ボクには――)
吸血鬼に復讐するために生きてきたつもりであったが、それは思えば、どこまで本気だったのだろうか。
(ボクには――)
自分が、もはや復讐という役割を果たせなくなっていることを理解していた。何の覚悟もできていなかった。吸血鬼を殺すことなど初めから不可能だった――
「君、どうしたんだい」
フランが声をかけてきた。
いつの間にか、ヒビキは泣いていた。
「え……」
己に与えられた役割を果たせなくなっていることを自覚したとたんに、途方もない虚無感に襲われていた。
なぜこんなことをしているのだろう、どうせ役に立たないのに。役割を遂げられない癖に、何のためにここにいるのか。自分は一体誰なのか。漠然とした疑念がヒビキの全身を、魂を支配していた。
あとからあとから、涙があふれてくる。
「え……いや、ボクは……」
人間には誰しも欠陥がある。足りない部分を補ってやれば、思うまま操ることも可能である。
それはヒビキの持論であったが、しかし彼自身に欠落しているものとは、いったい何だったろうか。
「ボクは……?」
不足ではない。
欠陥どころではない。
そんな生易しいものではない。
彼にはそもそも、自分というものが〝無い〟のだから。
ヒビキには自分が涙を流すことしかできない無能な人形のように感じられていた。
「妙な話をして悪かった……これで拭くといい」
落ち着いたのか、フランが急に優しくしてくる。意味がわからない。手渡された布切れも、自分が流している涙の意味も、なにもかも――
「大丈夫ですよ」
ユイの方も、突然に泣きだした少年に優しい言葉をかけてくる。今の今まで自分が泣いていたくせに、眼を拭おうともせずにこちらを心配してくる。
「大丈夫、明日また会えますよ。朝になればきっと、家族のところへ案内してあげます」
なにがどう大丈夫なのか。ヒビキは疑いを持つはずだった。
「うん、きっと安心できるから。大丈夫だから」
それは何の根拠もない言葉だった。
それはヒビキの嘘を信じての言葉であり、作り物の不安を拭うために紡がれた言葉だった。
実際の彼の人生とは無関係であり、何の解決にもならない言葉だった。ヒビキを襲う膨大な不安と恐怖とはどこにも繋がっていない、そんな意味のない言葉のはずであった。
しかし――
「う……」
ヒビキはその声に、ユイのぬくもりの中に、遠い過去に置いてきたような、ひどく懐かしいものを感じていた。
「ううう……」
理由も底も知ることのできない不安が渦巻く暗闇の中、ぽうっと光る道しるべのように感じられた。
「大丈夫、大丈夫。泣いてしまっていいの。涙を流して恥ずかしいことなんて、なにもないんだから」
「ううううう…………!」
ヒビキは考えることを止めた。疑うことができなくなった。ただその暖かなぬくもりの中に顔をうずめ、声をあげて泣いた。
「大丈夫、大丈夫――」
包み込まれるようなユイの声を聞きながら、泣いた。
目標であったフランがいなくなっていたことにも気付かず、ただただ、心に溜まって淀んでいた感情を吐き出し続けた。
……暗く冷たい静寂が、少年の嗚咽に震えている。
フランはテントの外にいた。中ではユイがヒビキに声をかけている。かけ続けている。
「…………」
あの少年も、ユイの心に懐かしさを感じているのだろうか。
テントに招かれた時のヒビキは、戸惑いながらも目的を持った顔をしていた。決してただの迷子の眼ではなかった。しかしユイとの話の途中から、彼の心情が変わったようだった。
(たぶん、賊からの刺客なんだろうが――)
敵陣のただ中に単独で乗り込む度胸のあるヒビキが、急に不安におびえ始めた。フランやユイが直接プレッシャーを与えたわけでもなく、二人の涙や会話の中に恐れを感じたかに見えた。
(あの子は、これからどうなるんだろうか……)
しくじれば殺されるとでも思ったのか。夜とはいえ、フランもあんな子どもに殺されるつもりはないし、逆に恨みを晴らしてやろうという気も起きなかった。それは賊の方も同じことだろう。
ヒビキが賊に期待されていないとすれば、これは遊ばれているも同然である。生死も気にかけられていないなら逆に、任務に失敗しても罰せられないことを期待できるが――
(僕の知ったことじゃない……そうだ、構っていられるか――)
フランは月のない夜空を見上げた。無間の闇の中に煌く微かな光源が、柔らかな慰めの声と重なり心に届いてきた。
「…………」
優しい声を聞きながら、ゆっくりと閉じたフランの瞼から、
(母さん……)
ほんの一筋、涙が頬を伝い流れた。
「本当にもういいの? 一人で帰れる?」
ユイが心配そうに訊ねた。ヒビキは、
「うん、明るくなってきたから思い出したんだ。もうここで大丈夫」
と、挨拶もそこそこに踵を返して、森の中に入っていった。すぐに見えなくなる。
「かわいい子でしたね。ご両親が心配なさっているでしょうから、無事に帰り着けることを祈っていましょう」
安心した顔で見送っている。
フランは、ああ、とどうでもよさそうな声を出したが、
「おっと、忘れものがあった。……ヒビキに渡してくる」
と言って、彼が消えた森の中へ入った。なにを、とユイが訊く暇もなく駆け出してヒビキを追いかけていった。
その背中を見ながら、
「……やっぱり優しいんですね」
夜明けの薄い明りの中でひとり、少女が微笑んだ。
「おい――」
背後から声をかけられて、ヒビキは身体を震わせた。ばれたのか、と恐れを抱いてフランに顔を向けると、
「お前……吸血鬼には、やはり毒など効かないようだ、と仲間に伝えろ」
と言われた。
「え――?」
やはりばれているようで、毒のことまで見透かされているが、様子がおかしい。
「なんでもいい。少しでもいいから適当に、奴らに役立ちそうな情報を伝えてしまえ、いいな。自分の手柄を報告するんだ。でっち上げてもいい」
ヒビキが敵であることを理解した上で忠告してくる。脅されているといった空気でもない。気迫を感じない。
「そうすれば、失敗したからといって奴らもすぐに君を殺そうとはしないと思う。確心じゃあないが」
早口で伝えてくる。
たぶん大丈夫であろうがその後のことは知らない、という、忠告するにしてもあまりに投げやりな態度だった。
ヒビキとしては確かに今後のことに不安は感じていたが、それは吸血鬼に心配される筋合いなどかけらもない問題のはずだ。
「一体あなたは――? ボクが賊の仲間だってわかってたの? なのに、どうしてそんなに心配をしてくれるんですか」
本当に不思議に思ったが、これにフランは面倒臭そうに首を振った。
「お前がどうなろうと、僕の知ったことじゃない」
「なら、どうして……」
「けど彼女は、きっと悲しむんだ」
そして呻くように呟く。
「お前が幸せになれないと知ったら、ユイはきっと悲しむ。自分には関係ない、なんて思えない性格なんだよ」
「…………」
「だから、だ。僕は関係ないが、お前には幸せになる義務がある。それだけのことだ。あと、吸血鬼狩りなんてもう止めておけ」
言いたい放題に伝え終えると、すぐに踵を返し戻ろうとする。
「あのっ」
ヒビキは引き留めた。
「えっと、あの……」
ユイという女の子を悲しませないため。フランはそう言ったが、それにしても命を狙って近付いた相手に対しあまりに不用心というか、大らか過ぎやしないか。
器が大きい、というのともちょっと違う気がする。
「あの――」
「なんだ」
「あの、すみません、でした……」
述べてから、毒殺しようとしたことに対しての謝罪には全く足りていないかと思ったが、
「ああ。……しかし言ったろう。どうでもいいんだ、そんなことは」
フランの背中からは、そんな応えしか返ってこなかった。
*
「吸血鬼に毒は効かないようです」
ウォズニアックに対し、ヒビキが報告する。
「目標は、自身の特質について〈ホワイト・ナイト〉能力と呼んでいました。敵の出したお茶に混入して飲ませましたが、効果は確認できませんでした」
人殺しも厭わぬごろつき達を相手にして引くことなく言葉を連ねている。演技をしているのだ。しかし心は上の空である。
フラン達と関わって、人生の意味がわからなくなっていた。自分はなにをしているのだろう、という疑念が、心の底にこびりついたまま剥がれない。この場で期待される役割を演じてはいるが、意識はどこかぼんやりとして定まらなかった。
罰を受けることも覚悟していたが、ウォズニアックの興味は別のところにあるようで、
「フランという小僧に直に会ってみて、どんな感じがした」
と訊いてきた。
「どんな、というと――」
「お前の主観でいい。なにか感じたか? 例えば――恐怖を」
「恐怖は……不思議と感じませんでした。むしろ圧力がなくて拍子抜けというか」
ウォズニアックはヒビキの言葉に対し、ほう、と感心したり、むむ、唸ったりしながら聞いている。
「なるほどな。他には?」
「えっと、女の子が一緒にいて……」
「女の子、か。小僧と同じ場所にいたのか? 夜中に?」
「はい。そして、光を――不思議な光を放って、ボクの傷を治してくれました」
「治した――?」
ヒビキはなんとなく、これは報告しない方が良かったのではないか、という気がした。この言葉がユイとフランの運命を決定付けてしまったのではないかと、意味のない不安が湧き上がってくる。
「仲は良さそうだったか」
「え?」
「標的の小僧と、その女だ。どんな関係に見えた」
「ええっと、なんていうか。喧嘩しているようでしたが、その割には、とても……」
先の言葉を続けようとすると、妙な違和感を覚えた。
単語自体は知っているのだが、その意味を実感したことは人生で一度もなかったような、彼がその一言を口にするのは決定的に間違っているような、そんな捉えどころのない違和感が――
「とても、大事そうだった……」
(そうだ――あの二人はお互いを、大切に思っていた。そういう関係だった)
それは大人の汚い社会の中で生き抜くために、弱い彼が必要に迫られて培ってきた、人間関係を見抜く観察眼が捉えた感覚だった。二人は相手を想うが故に、本気で気持ちをぶつけ合っていたのだ。
(でも――ボクには、あんな――)
あんな関係があっただろうか。それが思い出せない。
両親が生きていた頃はあったのかもしれない。親戚に引き取られた時はどうだったろうか。しかしその頃の自分と今の自分とを重ね合わせてみても、どこか他人事のような、そんなことに意味はないような感覚がつきまとう。
大切だ、と呼べるような人間関係を持ったことが一度でもあったのだろうか、あの二人のように――
茫然自失としているヒビキに、
「良くやってくれたな。お前のおかげで見えてきたぞ……」
とウォズニアックが声をかけた。
失敗したにも関わらす誉められたヒビキが訝しむ。
「やはり、あの娘もイレギュラー能力を持っていたか――それも治癒能力ときた。そのためにエインズワースは仲間に加えたんだな。つまり、不死身の吸血鬼も怪我を負うことがあるということに他ならない――」
と、幾度となく仕掛けた刺客から得た情報を整理していく。ぶつぶつ呟きながら、論理を組み立てていく。
「そして、あの男だ。初回の襲撃の翌朝に死んだ男――あいつは下請けの中でいち早く小僧を吸血鬼だと見抜いた。非常識な時刻に遭遇したにも関わらずだ。なのに、その前夜に小僧を襲った時にはなにも感じることはなく、しかし攻撃自体には成功しているようだった」
自らが撃ち殺したにも関わらず〝殺した男〟ではなく〝死んだ男〟として認識している。死生観が狂っているのだが、ヒビキには知る由もない。
分析を続ける声は徐々に大きくなっていく。
「つまり、結論はこうだ――逆転している! 昼と夜とが、通常の吸血鬼とは逆に作用している……!」
ウォズニアックの顔に刻まれた痛々しい火傷の痕跡が、彼の感情につられてぐにゃりと歪んだ。歪曲した皮膚の中心で見開かれた瞳が、人間離れした不気味な光を湛えている。
「見抜いたぞ、フラン・トライバル。お前の急所と能力の性質を……!」
その時点で、集団の誰もがウォズニアックに注目していた。これから最も楽しい時間が始まるという期待を込めた、それは飢えた獣の眼だった。
「さあ、お前達の出番だ――」
静かなるウォズニアックの戟に、男達が雄叫びを上げた。
敵に感付かれるのを避けるために決して大きな声ではなかったものの、それは人間を手にかけることになんの躊躇いもないどころか、生きがいを感じる者のみが発する轟きであることを、ヒビキは本能で理解していた。
「…………!」
圧倒されていた。
これが大戦争を生き抜いてきたプロの殺し屋なのだ。相手を徹底的に分析し、勝利を確信するまで決して敵に底を見せない。
そして今――牙を剥く。
「狩りの時間だ……運を使うべき時だな――」
ヒビキの戦慄をよそに、ウォズニアックはにやにやと不気味な笑みを浮かべ続けていた。
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