第三章「襲撃と殺戮」

 雲を浮かべた水色の中を、弱々しい冬の太陽が昇っている。時刻は昼だが天頂へは届かず、控えめな位置で留まっていた。

 ささやかに光を食べる広葉樹の森を、二台の小型トラックが走る。

 タイヤといわず側面といわずあちこちが泥で汚れたその車両は農業用であり、実際のところ昨日までは農業に使われていたものだった。

 二台のうち後方を走る車両、幌に包まれた荷台の上に、フランは乗っていた。

 震動は馬車より小さいが、使い込まれたエンジンの音がうるさい。風よけに幌が張られているが、もともと人が乗るための荷台ではないので、乗り心地はすこぶる悪い。そして少々薄暗い。フランはコートを丸めてクッション代わりにしていた。

 型自体はさほど古くないとはいえ農家の使い古しを馬車と交換したらしいので、性能の方も大丈夫かと不安になってくる。

 幌のスリットを開けて外をのぞいた。風が吹き込んでくる。森の景色の流れから、馬車よりも速度が出ていることが知れる。

 搭乗者は運転手を含めて四人。残りの仲間と荷物は前を走るもう一台に乗っていた。

「ティズさん、今まで通り馬車じゃいけなかったの」

 キャンバス地の幌から指を放し、乗員の一人に話しかけると、

「んんー?」

 と間の抜けた女性の声が返ってきた。

 彼女の名はティズ・エインズワース。エインズワースの妻である。

 むっつりしたエインズワースと比べて、幾分と爽やかな親しみやすさがある。ぱりっとしたその外見は姉御肌といった感じで、実際にワークなどからの呼び名は〝姐さん〟である。腰には護身用のリヴォルバーを下げている。

 エインズワースと同じく、フランとは幼少時からの顔なじみだった。関係としては、おばさん、と呼んでもいいはずなのだが、そして実際にいい歳なのだが、そうは言えない雰囲気があるためフランは昔から名前で呼んでいる。呼ばされている。

「そうねー、残念だけど」

 ティズは言葉通りの表情で言った。こういうところも、夫の方とはずいぶん違う。かと思うときりっと渋い顔になり、

「何者かに狙われる危険のある今、馬車で旅を続けるわけにはいかない。馬がやられた場合に対処できない……って、あいつは言ってたね」

「そうか……そうだね」

 物真似をしながら語るあいつというのは、いわずもがなである。

「あいつも腹では残念に思ってるよ、動物は好きな方だから。けどま、仕方ないわね」

 ティズが渋い顔で続ける。

 フランはその言葉が真実であることを知っていた。おじさんはリーダーのくせに誰よりも馬の世話をしていたし、愛でていた。安っぽい中古のトラックと交換することは彼にとっても抵抗があったはずだ。

 しかし彼はいつも、苦渋の決断でも必要とあらば一瞬で済ませてしまう。

「でもね、コネストーガワゴン一式と馬三頭では車両と釣り合わないって粘って、どうにか交渉して馬は農業用として貸してきたのよ。馬車は譲ったけどね。旅が終わったら引き取りにいくつもり」

「そう……良かった」

「それにね、農業用トラックにしてはこれでも大型なのよー? 乗り心地は良くないけど――」

「いや、わかったよティズさん」

 眼を逸らす。それは、話はもう終わりだ、という合図だった。

(馬達も、僕に付き合わなくて良くなったんだ――これでいい)

 フランは物思いに耽り始める。

 思考の海に浸り、考えを巡らせる時間を彼は好んでいた。普段から同行者の面々とはあまり口を利かないし、彼らもフランの性格は理解しているので話す際に深追いしてこない。

(けれど、彼女は――)

 深まりつつある思索を遮ったのは、

「今までは、馬車で旅をされていたのですか?」

 と質問してきた声のためであり、声を発した人物そのものの所為でもあった。

 荷台に揺られているのは、フランとティズだけではなかった。

「大きな馬車だったのですか? 実は私、馬車には乗ったことがありません。お馬さんに触ってみたかったです!」

 フランの対面に座るユイが、大きな瞳を輝かせていた。

「あらー、残念だったわねユイちゃん。でもこの先でまた乗り換えることがないとも限らないから、機会はあるかもしれないわよ?」

 フランの代わりにティズが説明する。

「楽しみにしています。目的地までは、どのくらいかかるのですか?」

「順調にいけば、あと半年といったところかしら。もし車が故障したり、車では進めない道があったりすると、迂回するとか別の移動手段を考えるから、もっとかかることになるけどね」

「なるほど……旅とは大変なものなのですね」

 旅の苦難を理解しているのかいないのか、少女は拳を握り興奮した様子である。

「私は村から出たこともなかったので、広い世界を見ることができるのは、とてもとても嬉しいです!」

「そう言ってくれると、あたし達もありがたいわー」

 無邪気にそう語るユイに、ティズが話を合わせて盛り上がっている。

 旅の展望を語り合う二人は無視して、フランは再び思考の海へと沈んでいく。

(彼女は、これで良かったんだろうか……)


「要するに……本当の修羅場はこれからだ、ということだよ」

 ユイの自宅の庭で、フランが言った。修羅場、などと大仰な言葉を選んだのは、エインズワースに抗議するためである。

「だからおじさん、この子を同行させるなんてことには賛成できません。彼女を危険に巻き込むばかりか、戦えない人間が増えれば僕たちの不利益にもなる」

 これにエインズワースも反論を出す。

「しかし、昨夜のように君が負傷した場合に――」

「けど、彼女自身が足手纏いになればその対処が――」

「対処と言うなら、治療の手段があるとないとでは大きな――」

「いや――」

「だから――」

「つまり――」

「だが――」

 フランとエインズワースの意見の応酬が激化していく中、間に挟まれていたユイが唐突に、

「そこまでっ!」

 と大声を上げた。そして、

「よくわかりませんが、わかりました。とにかく私が同行しなければ、先程のようにフランが危ないのでしょう? でも、すると私も危険になるのでしょう? ではこれも先程のように、フランが守ってくれれば大丈夫です。そして怪我をした時は私が治します。助け合いですね。これで万事解決です!」

 と一息に言った。

 反論する暇もない。

「では支度をしてきますので、待っていてください」

「…………」

 呆気にとられているフランをよそにすたすたと家に入っていくユイの後ろ姿を見ながら、エインズワースが、

「素晴らしい論理だ」

 と言った。


 旅の仲間と合流し、エインズワースは車を持つ農家と話をつけて新しい足を確保した。荷の積み降ろしとユイの支度を終え、昼前に出発した。

 別れの時、母親は泣いていた。必ず帰っておいでね、などと言いながら娘を抱き締めていた。ユイの唇が動き母に何かを伝えていた。

 母子の別れをフランは、最後まで見なかった。

 この感情はよく知っていた。ユイの母親に怒りを感じているのだ。目的地に着くまでという条件であっても、まだ小さな娘を母親が売ったことに変わりはなかった。このままでは今朝のように怒りが爆発しそうだった。

 しかし一方では、自分のせいでユイは親の元を離れることになることも、フランは理解している……

(理不尽だ――本当に、何もかも――)

 複雑に絡み合う澱が、心の底に溜まっていく。一つひとつに整理をつけようという気にもなれず、フランは鬱々として瞼を閉じていた。

「念のためにユイちゃん、もう一度確認しておきましょう」

「はい」

 眼を閉じていても、話し声は聞くともなく聞こえる。

「あなたは私たちの仲間になったわ。その期間は、目的の土地に到着するまで」

「よろしくお願いします」

「そこで、これからの取り決めというか、注意事項だけど……。フランのことは彼から聞いてるのね?」

「はい。昼夜逆転している、とっても変わった吸血鬼さんだと」

 本人を前にそう言い切る。ずいぶん不健康そうな言い回しだが突っ込んでほしいのだろうか。フランは無視する。

「話が早くて助かるわ。ずばりあたし達の旅の目的は、彼――フラン・トライバルを、白夜の大地に連れて行くことよ」

「白夜……」

 白夜の大地。

 それは遥か北にある、ほぼ一年を通して太陽が沈まない土地。無限に射し続ける陽の下にフランを送り届けることが、彼らの旅の目的だった。

「なるほど! 白夜なら、一日中光が射してるから! 命を狙われるようなことがあっても、フランは安全というわけですね」

「そういうこと。ちなみに仲間内で女性はあたし一人だけど、心配しないでね。旦那のつてで雇われた信用できる人間しかいないからさ」

「わかりました」

「それともうひとつ。大切なことがあるわ」

 ティズは声を引き締めた。

「これもフランから聞いているだろうけど、あたし達は昨晩も賊の襲撃を受けてるの。今までこんなことはなかったんだけどね。ユイちゃんには、仲間が負傷した場合の治療をお願いしたいと思っているのよ。もちろんあなたの身は、あたし達が責任を持って守るわ」

「ありがとうございます」

「フランもあなたを守ってくれるはずよ。そうよね?」

「まあ。頼もしい」

 と、急に話を振られる。仕方なく顔を上げた。

「勝手に決めないでよ、ティズさん……」

「守ってくれないの?」

「守ってくれませんか?」

「楽しまないでよ、二人とも……」

「ま、そのフランを守ることがそもそもの目的だからね。正直なところ、本末転倒にならない程度に期待してるわ」

 と言ってティズが笑った。そこにユイが、素直な疑問を投げかける。

「ところで、どうして吸血鬼っていうだけで命を狙われなきゃいけないのですか? フランが恨まれるようなことをしたのではないんでしょう?」

「なぜって、うーんとー……」

 ティズが口ごもる。

 吸血鬼が忌まれる理由とは、単純に敵であったからだ。大戦争という戦場の中で、自分達の仲間と家族を皆殺しにしてまわった存在であるために、十五年が過ぎた今でも憎しみの象徴としての恨みが消えていない。戦後生まれのユイには腑に落ちない話なのだろう。

 ティズとしては常識的な観念なのだが、しかしフランの前でそれを言ってしまうことは躊躇われる、という彼女の心情をすくって、フラン自身が教えてしまう。

「憎まれているんだよ。帝国の手先だったからね、吸血鬼は。みんな復讐できる機会があればそうしたいんだろう。大戦争を経験してる人は、吸血鬼と聞いていい顔はしないと思うよ」

 自嘲気味な声を聞いて、ユイの顔が曇る。

「そんな……でも、フランは関係ないじゃないですか」

「そうだ――関係ない」

 あの日のことを思い出し、眉が歪む。

「でも向こうにとってはどっちでもいいんだ。大戦争に関わっていようが、なかろうが。自分達の理屈を押し付けて、それが正義だと思い込んで……」

 悪い方向に感情が傾くフランを見かねて、ティズが、

「あ、なんだか暗くなっちゃったわねー」

 と呑気な声で遮った。そして、

「でもあたしにとっては、ユイちゃんと旅ができて嬉しいわね。妹ができたみたいで?」

 と言ってウインクした。

「まあ、私も初めての姉妹です!」

 ユイが無邪気に喜ぶ。

 フランはティズを見ながら、いや妹というより娘だろう、と心の中で考えて、

「…………」

 まんまと和まされたことに気がついた。


          *


 大戦争――これに特別な名称は付けられておらず、人々はただ〝大戦争〟とだけ呼んでいる。これほど巨大な規模の戦争は人類史上初のことであり、今後起こるもないとされているためだ。後にも先にも類のない最も熾烈で巨大な戦、それが大戦争の呼び名が示す意味だった。

 世界中を巻き込んだこの戦の発端は、今や世界中に支配力を持つと言っても過言ではないソルヴィノ帝国にある。巨大な領土と軍事力を持つ帝国が、近隣国に対して喧嘩を売ったのだ。

 すべては、成り行きとなし崩しであった。

 因縁をつけた相手は初めこそ小さな島国に対してのみだったが、その地の資源を狙っていた近隣国や友好関係にあった国等を次々に巻き込むことになる。俄かに昂ぶっていく緊張と小競り合いの混乱は、各々が自国の利益を追求しているうちに、気付けばとんでもない規模の殴り合いに発展してしまっていた。

 帝国領ではないものの隷属しているに等しい国々などを除けば、帝国はまさしく〝全世界〟と言ってよい敵を相手取ることとなったが、それでもなお帝国の軍事力は圧倒的であった。

 雪だるま式に大きくなったその戦争の終幕は、誰も予想できない形で迎えられた。初めに喧嘩を仕掛けた帝国が、唐突に降伏宣言を出したのだ。

 降伏といっても負けていたわけではなく、むしろ次々に領地を広げている、帝国の歴史からすれば全盛期と呼んでいい程の隆盛を実現している最中の終戦宣言であった。それは遊んでいた子どもが「飽きたからもう止めた」とでも言うかのような、実にあっさりとした投げ出し方だった。

 負けたのでもないソルヴィノ帝国がなぜ戦争を止めたのかは未だ謎である。

 このまま世界中をその版図として吸収していくつもりなのだろうと誰もが恐れていたために、突然の終戦に対して嬉しいやら怪しいやら、人々は複雑な思いを抱いた。初めは疑心暗鬼だった国々も、帝国内の事後処理への動きや他国への賠償に対する姿勢などを見て、本当に終わったのだと徐々に安心していった。

 それでも穿った見解を持つ人々の間では、あるいはこうも噂されている――帝国はもはや戦争など続ける必要もないほどに既に裏から全世界を掌握しているため、要は〝無駄な事業を打ち切った〟だけなのではないかと。

 共闘していた他国を裏切って帝国領に寝返ろうとしていた矢先に終戦を迎えてしまった国同士や、帝国への恐怖が自国のそれまでの悪政への不満となって爆発した自業自得のクーデターなどの小競り合いはまだまだ世界中に充満してはいるものの、ほとんどの土地の人間はとりあえずの平穏を取り戻していた。

 悪夢と混迷の時代が終わり、既に十五年が過ぎようとしていた。


「平和か……呑気なもんだよな」

 白く息を吐きながら、ワークは呟いた。

 視線は上を向いているが、彼が見ているのは空ではなく手にしたロケットだった。丸く切り取られた小さな写真が入っていて、一人の女の子が微笑んでいる。戦時中は認識票と一緒に、いつも首から下げていた。

 彼が戦場でライフルスコープを除いていた頃には、こんな時代がくるとは思ってもいなかった。ワークにとって戦争とは彼が生まれる前から始まっていたもので、その中で生きることは意識する以前に当たり前であった。

 言ってみればそれは一つの物理法則のようなもので、いくら文句を言おうと重力を無くすことは不可能なように、変えることのできない大前提として人生に影を落としていたのだった。

 その一方で少し眼を向けると、昼食の用意をする少年と少女が見える。戦争を知らずに生きている新しい世代の子ども達がいる。

 ワークはロケットの蓋を閉めて、服の中に戻した。そこに、

「なーに黄昏てんの」

 と、声がかけられる。振り向くと、ティズが調理器具を向け、ばん、と銃を撃つ真似をしてみせた。

「あんたも手伝うんだよ。働かざる者に飯はないよー?」

「わぁってますよ」

「なに、なんか考え事?」

「あーいや、ちょっと……」

 そうやって仲間を案じる姿がもう、まさに〝姉御〟という感じである。旦那とは違った魅力だよな、などと思いながらワークが応える。

「ほら、あれから十五年だもんな、とか……そりゃあ年もとるし時代も変わるか、とか思ってよ。あいつらを見てると」

「そうだね……今の子ども達には、苦労かけたくないもんだけどね」

 ティズが二人を見ながら言った。

 その言葉にワークは一瞬、ぐ、と息を詰まらせ、そして、

「なあ姐さん……なんで旦那は、あの子を連れてきたんだ?」

 最も気になっていることを訊ねた。

「正直、ヴォルフの旦那らしくねぇよ。俺の知ってる旦那は、あんな女の子を危険に引き入れるような真似はしねぇ。今回ばかりは、悪いが理解できんぜ」

 そう言って苦々しく首を振る。

 ティズは少年と少女をじっと見ていたが、やがてワークに視線を戻すと、

「じゃああんたは、どうしてあいつに誘われたんだと思う?」

 と逆に質問してきた。

「それは、俺の評判を聞いた旦那に狙撃の腕を買われて……いや、姐さんやロブさんとかにゃあ敵わんが。つうか旦那、あんな人どこから連れてきたんだ? 爆弾魔って」

「あー、いやいや。そういうんじゃないんだな、これが」

 ワークが思うところを応えると、これにはティズが首を振った。

「銃の腕前とか、特技は二の次よ。あんたにとっても、ロブやスクートにしてもね。あいつはそういうことで仲間を選んでるんじゃない」

「じゃあ、なんだってんだよ? ろくでなしの俺に、他に取り柄があるとは思えねぇんだが」

「あんたの、そーゆーところだよ」

 ティズは口角を上げて言った。

「は?」

「今みたいに、ユイちゃんのことを本気で心配してくれる。なにも考えずに従うんじゃなくてね。狙撃が得意だって割にはあんたって基本、銃が嫌いで人間が好きでしょ?」

「……いや、よくわかんねーんだが」

 内心で動揺しつつ返事をする。

「いや、そうなのよ。一方であいつは、目的のためなら手段は問わない、みたいな似合わないことを自分に課してるからさ。自分が間違った方向に行きそうな時に、道を正してくれる人間を選んでるように思うのよ、あたしは。本人にそのつもりがあるかは知んないけどさ」

 やれやれ、と言いたげにティズが肩をすくめた。

「えーっ、と……?」

 ワークは顎を上げてしばらく考え込んでいたが、やがてぽつりと、

「あー、つまり……やりたいようにやれってことか?」

「そうそう、そういう感じでいいのよ」

 と、やけに漠然とした結論に収まった。しかしこの形のない結論にワークは、うんうん、と納得した様子である。

「おう、単純な話だったな。旦那がこうと決めたにせよ、俺は俺で動けばいいわけだ、うん」

 その屈託のない様子を見ながらティズは、だはあ、と大きく息を吐いた。

「あー……あの人も、あんたみたいに単純に行動できたらいいんだろうけど。あいつはひたすら悶々と、頭の中で考え続けてるのよ。こんな世知辛い世の中で、どうすれば無理がなく、無駄がなく、矛盾がなく生きていけるんだろうか、ってね。そんなの、いくら考えたって答えが出るわけないのにさ。そんなことだから、あいつはあんなに頭でっかちなのねよぇ」

「いや、そりゃ違うぜ姐さん」

「え?」

 愚痴っぽい台詞に対してワークが反論する。

「旦那は自分のことなんか二の次だろ。いつも俺達のことしか考えちゃいねぇんだからよ」

 ティズはこの言葉にきょとん、とした顔になり、そして唐突に、

「あ、あはははははははは――」

 と大笑いを始めた。

「そ、それはそうだわ――あはは、あはははは――」

 苦しそうに腹を抱えるその隣では、ワークが未だうんうんと頷いていた。


 吸血鬼とは言うが、人の血液を啜る習性があるわけではない。

 血を吸われた者が同類に生まれ変わることもなく、そもそも噛みついて攻撃する必要性がない。それらに当てはまるのはすべて、おとぎ話の中の吸血鬼達である。現実にはいない。

 似通っている特徴の中には〝心臓に杭を突きたてることで死ぬ〟〝日光に弱い〟というものがあるが、これらも完璧に該当するわけではない。

 心臓は弱点のひとつではあるが、突き立てる物は別に杭でなくともよく、致命傷を与えたいのならむしろ脳の方が重要である。太陽が射している間は〝常人となんら変わらなくなる〟という弱体化程度であり、全身を焼かれ死んでしまうというような、おとぎ話にありがちな極端な罰則などない。

 種々の相違点がありながら、なぜ彼らは絵本や民話に登場する怪物の名で呼ばれているのか。

 それは単に、他にそれを表す言葉がなかったからである。

 夜の闇に潜み、人間を蹂躙する生物の姿は誰が見ても吸血鬼のイメージそのものであったため、便宜上、吸血鬼と呼ばれ始めたのだった。

「それで、フランがその吸血鬼……でも噛んだりしないから大丈夫、ですね」

 ユイがそう言って、

「そういうこと。ユイの知ってる絵本の吸血鬼なんかは、本物をもとに創作されたんだと思うよ」

 包丁をさばきながらフランが応える。

 ユイと並んで座って野菜の下ごしらえをしながら、フランは吸血鬼のなんたるかを今一度解説していた。していたのだが、実のところそれは、なんとなく会話が続かないためにとった苦肉の策だった。

 巻き込んでしまったという罪の意識が、今朝のような自然な会話を邪魔していた。その上、乾いた精神で旅をしているうちに、同年代の子との距離感がわからなくなっていた事を実感している最中でもある。

「まあ僕も、自分が吸血鬼だと知ってから実感した知識だけど」

「百聞は一見に如かず、ですね」

「そういうこと」

 身の上話が終わり、弄した策も一段落してしまい、話が途切れてしまう。火にかけた鍋のふつふつという音がやけに大きく聞こえる。

 向こうからは、ティズが何やら大笑いしている声が響いてくる。

「楽しそうですね、ティズさん」

「そうだね……なんだろうね」

 他に話すことがないため声の方に顔を向ける。そうして刃を当てたジャガイモをくるくるとまわしていると、

「――っ」

 と、親指を切った。

 つうっ、と血が流れる。それを見たユイが、

「あっ」

 とフランの指に腕を伸ばす――


 がしゃん。


 と派手な音を立てて、鍋がひっくり返った。

 幸いまだ沸騰はしていなかったが、フランは熱湯を受けたような顔をして立っていた。ユイの手を避けようとして、咄嗟に動いてしまったのだ。

「あ――」

 ユイも動きを停め、心配そうにフランを見つめている。

「どうしたのですか?」

「い、いや――」

 フランは眼を泳がせながら、

「触らない方がいい――」

 とだけ言って、荷台へ引っこんでしまった。

「フラン……」

 そこへワークとティズがやってくる。

「あーあー、どんだけ神経質なんだよあいつ」

 ワークが呆れ顔でぼやくと、その後頭部をティズが「ばん」と言いながらお玉で叩き、

「いってぇ!」

 ワークが大袈裟に呻いた。

「それ止めてくんないすか姐さん。見た目以上に痛てぇんすよ」

「あたしが包丁を持ってる時は気をつけることだね」

 ティズが冷たく言った。

「あの――フランは。彼は今、何かに怯えているように見えました」

「あぁーっとねぇ」

 ユイの視線を受けたティズが頭をかきながら応える。

「それは、あたしが説明してなかったのが悪いのよ。ユイちゃんは気にしないでいいんだからね。実は吸血鬼っていうのは、もし噛まれたりしても能力の――こういう言い方はなんだけど、感染はしないの。けど血液の方には、その力があるとされていて、ね」

「あるとされている――っていうことは、絶対ではないのでしょう?」

「ええ、かなりの眉唾もの。でもフランはそのことを気にしてるの。あたしらに必要以上に近付こうとしないのも、その辺のことなんだろうね。自分の運命に、周りの人達を巻き込まないように、って――」


 フランは岩を殴っていた。

 母の死を知った翌日のことだった。

 巨大な岩盤は一撃ごとに砕け散った。拳を打ち付けるたびに虚しい破壊の音が響いた。正面の岩を砕き終えると足元の岩を殴った。一枚岩に空いた人間一人分の空洞が、少しずつ広がっていった。

 時折、骨も一緒に砕けた。飛び散った血で肘まで真っ赤に染まった。衝撃で右手の指が千切れかけても、左手で殴り終えた時にはもうつながっていた。そうやって殴り続けた。

 やがて岩は壊れなくなった。出血が止まらなくなった。拳の痛みが引かなくなった。いつの間にか夕方になり再生能力が落ちていた。

 日が暮れても殴り続けた。フランが作った洞窟の中は真っ暗になった。腕が痛かった。足が震えた。フランは泣いていた。気がついたら涙が流れていた。

 この痛みと悲しみの中で死んでしまいたいと願った。母がどんな苦痛の中で死んでいったのか少しは理解できるかと思った。

 止めろ、と声がかけられた。振り返ると闇に誰かが立っていた。声と輪郭でおじさんだとわかった。もう止めろ。おじさんはもう一度言った。

 穴から出るとそこは暗闇だった。暗黒であった。星も月も見えなかった。フランはこの先、再び自分の世界に色が戻ることはないと知った。


 荷台の中にうずくまり、肩を抱き、ぎゅっと瞼を閉じていた。

 何も見えず、何も聞こえなくていい。その必要はない、白夜の大地などどうでもいい。他人の運命を狂わせるのが吸血鬼だ。どうせもう、どこにいようとそれは変わらない――

 と突然、びかっ、と視界が明るくなった。

「っ?」

 何事かと思いうっすらと眼を開けると、周囲が凄まじい光量で包まれているのだと知れた。と思うと一瞬で消え、暗い車内に戻る。

 見ると、出口の逆光の中に小柄な影が立ち、腰を低く落として腕を構えていた。

「必殺、治癒光線です」

 勿体つけた声色で、影が喋った。

「…………」

〝必殺〟の使い方を間違えていたが、ユイは晴れやかに、

「これで治りましたね、もう大丈夫。さあ、出てきてお料理を手伝ってください!」

 と言って彼の腕を掴み、光の下へと連れ出した。

 フランの開いた瞳孔には眩しすぎる世界だったが、徐々に慣れるとそこに、彼を待つ仲間達の姿が見えた。


          *


 フランは再び荷台に揺られていた。同乗者は先程と同じ面子である。

 あの後仲間と昼食を作って食べたのだが、その間はエインズワースの姿だけがなかった。どうしても注意力が散漫になってしまう食事時に襲撃を受けたら大変だからと、一人周囲を警戒に回っていたのだ。今頃、前方車両の荷台で食べているのだろう。

 ワークなどが交代を申し出ても、頑なに断り続けていた。このあたりも彼の妙に頑固なところなので、もはや誰も文句を言わない。

 フランが吸血鬼である昼間に警戒する必要はあまりないはずなのだが、それでも全霊を尽くそうと努めるのがエインズワースという男なのだった。

 先程と同じくユイとティズがお喋りし、フランは時折話を振られながらもぼうっとしていたのだが、そこで唐突に、


 ひゅん――


 という音が、幌の向こうから聞こえた。

 車の走行音の中にあってもはっきりと聞き取れたその音に、最も早く反応したのはティズだった。

 彼女は知っていた――それは銃弾によって空気が切り裂かれる際の衝撃音であることを。

「伏せなさい!」

「わっ?」

 彼女は即座にユイの身体を押し倒し、

「止まるな、走って!」

 運転席に向けて叫んだ。フランも言われた通りに身を屈めながら、

(昨晩、今朝、そして今――対応が早すぎる。裏にいるのは本職の殺し屋集団か……?)

 と冷静に考察していた。

 ティズはすぐさま荷台前方に搭載している無線機に飛んで行き、前方車両のエインズワースに報告しようとする。するとこちらから繋ぐ前に、彼の方から連絡がきた。

『無事か?』

「ええ、怪我はないわ。どうする?」

『後方の森の中から撃ってきているようだ。タイヤが撃たれなければやられることはない。このまま逃げ切る』

 エインズワースの指示を聞いて、フランが通話に割り込んだ。

「それじゃ駄目だ、おじさん。この先も追撃されながら旅を続けることになる」

『仕方がないのだ。現状では打つ手はない。そのために車も手に入れたのだ』

「でも、それじゃあ――」

 フランはちら、と不安げに身を屈めているユイを見やる。風を切る音は続けざまに響いている。

(それじゃあ、彼女が危険にさらされ続けることになる――――)

 フランは沸々と湧き上がる感情を覚えていた。

 あの感覚だ。作業着の男に騙された時の、煮えたぎるような情動。何に対して怒っているのかすらも、どうでもよくなってくる。

 それは言うなれば、母のいないこの世界で自分が生きていることそのものに対しての激情だった。

(面倒くさい――)

 そう考えた時にはもう、身体が動いている。フランは走り出した。

「フラン!」

 ティズの叫びを無視し、フランは二人の眼前を移動して荷台を蹴り、宙に舞った。片足で地面を捉えると、勢いを殺さずにそのまま車両後方へと疾走を始める。

「くっ――」

 荷台で唇を噛み締めたティズが、みるみる遠ざかる背中を睨んだ。


『車を止めて! フランが降りた!』

「なにっ?」

「はあぁっ?」

「なんだと?」

 運転手と助手席のワーク、そして荷台のエインズワースが驚きの声を出した。

「止めろ!」

 エインズワースが怒鳴った。彼らのリーダーが即決で支持を出すことは滅多にないのだが、だからこそこれは一刻を争う場面である、という合図になるのだった。

 急制動をかけられ、トラックはタイヤを滑らせながら止まった。ワークが訊ねる。

「降りたぁ? どういうことだよ旦那!」

「理由はわからんが言葉通りだ。ロブ、ターンして追いかけるぞ。ワーク、お前は助手席から見張ってくれ。不審な者は撃って構わん」

「了解」

「へいへい――」

 ロブと呼ばれた運転手がハンドルを切り、ワークは銃を手に取り装填を確認した。


「あいつ、なに考えて――」

 エインズワースとの伝達を終えたティズが振り返り、一瞬だけ固まる。そして、

「迂闊だった……。あの子もまた、イレギュラーだってことね……!」

 喉から声を絞り出した。

 荷台の中に、ユイの姿はなかった。


 ……銃弾が飛んでくる。

 音速を超えた鉄の塊が、空気を波立たせながら次々に突撃してくる。

(できるはずだ……集中すれば、必ず……)

 フランは意識を集中させた。

 庭でやったように、銃弾であろうとはじき返すつもりだった。あの時は後ろにユイがいたため握り込むことで流れ弾を防いだが、本来は拳で弾くだけでいいのだ。

(…………!)

 走りながら、再び時を凝縮させようと眼を凝らす。そして、

(…………見えた!)

 視覚に捉えた。あまりの速度で空気を押し退けているために姿がぼやけて見える、それは紛れもなく弾丸であった。

 身に迫る銃弾を弾こうと拳を伸ばすが、

(…………くそっ!)

 間に合わない。

 軌道を眼で追うことはできたが、しかし身体の動きが追いつかない――ばばっ、と被弾してしまう。

(どうして……? けれど……!)

 痛みが走るが、すぐに消える。立ち止まることすらない。どちらにしても銃撃程度で吸血鬼の突撃を止めることはできないのだ。

 道の向こうに、銃を構える人間の姿を確認した。

(守ってみせる…………ここで、僕が止めてみせる……!)

 黒い決意を全身に込めて、フランは疾走していく――


「お、おい――当たったよな、今」

 フランが接近するにつれ、襲撃者たちも違和感を覚えていた。

「ああ――あいつ、なんで倒れないんだよ……?」

「しかも速い……! く、来るぞ……!」

 男達に混乱が広がりつつある中、小型の集音機と耳当てを装着している一人の耳元で、

『おい』

 という声がした。それらはこの仕事を持ってきた、酷い火傷を負った気味の悪い男に渡されていた通信装置だった。

 彼はびくっと震えて、助けを求めるように応答する。

「なんだ! 一体なんなんだあの標的は!」

 彼のうわずった叫び声に、

『ああ、もういいから森の中に入れ。逃げていいぞ』

 と、あっけなく後退を指示される。

「し、しかし仕留めてないぞ? いいのかよ?」

『あれか。お前はまさか、そいつに勝てる気でいるのか? とにかく逃げた方がいいと思うが』

「こ――後退だ! 逃げるぞ!」

 と男が叫ぶと、いち早く森の奥へ逃げ込んだ。他の者も一目散に続いていく。


 男達がいた場所に到着すると、無駄だと悟ったのか、既に銃撃をやめて逃げ出していた。

(僕は……)

 フランは迷わず木々の中に分け入った。そしてすぐに、敵の背中を見つけた。

「待て!」

「ひっ?」

 振り返り、フランと眼が合った男が銃口を向け、撃った。焦って撃たれた弾は見当違いの方向に飛んでいき、避ける必要もなかった。

 その銃声で、全員がフランの追撃に気付いたが――既に遅かった。

(僕は……)

 フランの精神は、ひりひりと焦げ付きそうなほどに熱し始めていた。魂の根底から噴き出る感情が正義なのか憤怒であるのか判断がつかぬまま、フランはその凄絶なる激情に身を任せた。

 発砲した男の胸に、全力の拳撃を叩き込んだ。

 胸骨も心臓も背骨も一撃の下に破壊したフランの腕は男の身体を突き抜けて肘までめり込んだ。フランは男の顔前に立ったままその後頭部をわしづかみにし、握り潰した。

 血の雨が降り、悲鳴が上がった。

 蜘蛛の子を散らすように逃走が再開された。フランは落ちていた木の枝や小石を、その背中に向かって投げつけた。空気を切り裂く音がして、何人かが叫んで倒れた。

(僕は、守ることができなかった――だから、もう二度と……!)

 フランは湧き上がる激情のまま、倒れた者には目を向けず、近くにいる者から順に、壊し始めた。


 ……そのすべては、一分足らずで終わっていた。

 その間、男達の肉体が引き千切られる音が森に響いていた。

 逃げようとした者は投石で撃ち抜かれ、立ち向かおうとした者は肩から先がなくなった。銃で撃った者は顔を縦に割られ、命乞いをした者は首が地面を転がった。

 森の緑の上にどす黒い赤色が覆い被さり、世の理を捻じ曲げんが如くその風景を変貌させていた。

「…………」

 赤い緑の中に、同じ色をしたフランが立っていた。全身に返り血を浴び、吸血鬼という呼び名に相応しい血塗られた姿だった。

 血まみれの顔の真ん中に、ぎらぎらとした瞳だけが光っている。その瞳を向けて、フランは、

「……おい」

 と言った。

「ひっ……」

 呼ばれた人間二人は、身を強張らせた。十数人いた男達の、彼らだけが生き残っていた。

「あんた達の頭は、どこにいる……?」

「て――てめえが、今……殺しちまったよ」

「違う。そいつもひっくるめて、更に上から命令していた奴がいるはずだ」

「し、知らねぇ――本当に、何も知らねぇ――」

「だからみ、見逃してくれよ。もう襲ったりしねえからよ――」

 二人はがたがた震えている。その身体に負傷はないが、仲間の血でべったりと汚れている。

「あんた達はそうだろうさ。同じ襲うのだったら、食事時だろう。タイミングを逃してしまったのなら夜まで待つはずだ。逃げられたから追いかけて、見つけたから襲うっていうのは馬鹿のやることだ。僕が吸血鬼だってことを知らされていなかったな?」

「そ、そうだよ、化け物だなんて知らなかったんだ、だからもう――」

 一瞬ぴく、とフランの頬が引きつったが、男達もフラン自身すらも気付かなかった。フランはさらに問い詰める。

「僕が、イレギュラー能力を備えた吸血鬼であることを勘付いた上で狙っている奴がいるはずなんだ。これは確実だ……そいつの、居場所を教えろ」

「だから――知らないんだよっ! どうしてこんなことになったのか、俺だって……」

 もはやフランの言葉の意味は、男達の耳には入っていなかった。

 瞳の光と、闇が濃くなった。

「だから許してくれよぉぉぉ……」

「あんたも……あんた達も、同じってわけだ……」

 怪しい虹彩が二人を捉え、残酷な運命を叩きつけようとゆらりとフランが動いた時、森に光が射し込んできた。

「…………?」

 木々の間から洩れてくるそれは、太陽ではありえない位置で光り輝いているようだった。

「なんだよ、次はなんだってんだよぉ……」

 男達が呻いた。

 フランの表情が曇っていく。瞳から、狂気とも呼べる輝きが薄れていった。そして震えている彼らに向かって、

「……もういい、行け」

 と言い放った。

「僕の気が変わらない内に、行ってしまえ」

「ひぃっ――」

 二人はずるずると後ずさった。腰が抜けていた。

 フランは踵を返し、道に戻るために歩き出す。と、何かが落ちているのを発見した。それは喉の振動を拾っての遠隔会話が可能な通信機器だった。

 何気なく拾い上げ、装着する。

 微かな雑音しか聞こえない――と思われた時、

『むははは――』

 という不愉快な笑い声が響いてきた。

『あれか、お前は正義の味方のつもりなのか? 悪い奴らを根こそぎにしてしまえば世界が平和になるとか信じているのか』

「…………」

『周りを見てみることだ。何がある? 家族の団欒か? 呑気なお花畑か? 違うだろう――お前が作り出したその光景こそが、吸血鬼の本性だ』

「……僕はもう、仲間が……大切な人が死ぬのが嫌なだけだ……」

『ほう。それはあれか、仲間でなければいくら死んでもいいわけか』

「…………」

『俺は吸血鬼そのものには恨みはないんだがな。雇われたもんは仕方がねぇよな? お前には死んでもらうぞ、フラン・トライバル……』

 無慈悲な宣告を最後に、機器からは何も聞こえなくなった。


 トラックが追い付いた時、周辺にはまばゆい光が溢れ返っていた。

「ユイちゃん!」

 荷台から飛び降りたティズが、目撃する。

 ユイ・ヤマブキが能力を開放していた。直視するのも難しい程の、熱を伴った凄まじい光量。

 治癒の光が最大出力で放たれているのだった。

(これが、彼女のイレギュラー能力……これほどまでなの……!)

「…………っ」

 ユイが息を呑み、ふうっ、と周囲の光が消え失せる。同時に、その身体が崩れ落ちた。

「ユイちゃん!」

 ティズが抱き留める。ユイの服は土に汚れていた。フランを追って飛び降りた時に転げまわったのだ。

 目の前には異様なものがあった。引き裂かれているそれは、人間の死体だった。肩から先が強引に千切られたかのような、見たこともないずたずたな傷口を広げている。

「こ、これは――フランが?」

 周囲を見渡すと、森の奥にはその死体と似たようなものがある。ある、というよりも、

(散らばっている――)

 地面といわず木の幹といわず、森じゅうに赤い塗料をぶちまけたような非常識な光景が広がっていた。

(な、何をどうすれば、こんな――)

 と、その先に立っている者がいる。フランである。こちらに歩いてくる。

「フラン、あんたね――」

 叱ってやるつもりでいたのだが、しかしその瞳を見て、言葉が続かなくなった。

〝吸血鬼〟。

 濃縮された死の代名詞であるそいつが、その殺戮の光景を背後に、我が身に接近しているのだった。

「あ……」

 呼吸が詰まる。身体が動かない。たった今その本能をさらけ出した血塗れのプレッシャーが、彼女の精神を圧倒していた。

 フランがゆっくりと歩いてくる。眼球に走った血管までも識別できる距離に。

(っ……い、息が――)

 意識が遠のいていく……

 すると突然、がっ――と背後から、力強く肩をつかまれた。身を竦ませて咄嗟に振り返ると、彼女の夫がいた。

「気を失ったか……治癒能力を無理に放出し過ぎたのだろう」

 と言って、ユイの身体をひょいっと抱きあげ、車に連れていく。

 フランが傍を通り過ぎ、

「……すみませんでした」

 と呟き、汚れた服を脱ぎながら荷台に登る。

 その場に誰もいなくなり、ティズはそこでやっと、

「……は、はあっ――」

 と息をすることができた。

 冷汗が身体中を濡らし、服が不快に張り付いているのを自覚した。


          *


 ……時刻は、少し遡る。


 音が聞こえる。

 森という生物のざわめきに混じって、聞き慣れない音が伝わってくる。

 その正体を理解しながらも、叫んだり逃げ出そうとはせずに、その少年はただじっとうずくまり、微動だにせず耳に入れていた。

 それは、血の音だった。

 それは、肉の音だった。

 それは、骨の音だった。

 それは、脂の音だった。

 それは、歯の音だった。

 それは、肺の音だった。

 それは、指の音だった。

 それは、腸の音だった。

 それは、皮の音だった。

 それは、顎の音だった。

 生きた人間の身体が力ずくで引き裂かれ無理矢理に潰されて無残に散らかっていく際に響いき渡る、それは紛れもない死の音だった。

 様々な音を鼓膜に入れながら、少年は樹の根元に転がっていた。

 十歳を過ぎたくらいの、あまり発育の良くない子どもだった。賊の男達と同じような、目立たない薄汚れた服を着ている。濃い茶髪の下の痩せ気味な顔には土が付いて汚れていた。

 男達と共にこの襲撃に参加していたのだが、標的の反応からある可能性を読み取り、真っ先に隠れていたのだった。

 震えていない。怯えていない。動揺している様子もない。聴覚から伝わる明確な死の事象を前にしながら、眉ひとつ動かない。両眼をしっかり開き、視線だけを動かして周囲を警戒していた。

 その表情には友達とかくれんぼに興じる時のような、ただ〝危険だから鬼に見つからないようにしよう〟という感覚しかなかった。

 やがて普段と同じ森の音に戻った時、男の声が聞こえた。早口なその声は、死を振りまいていた何かに対して命乞いをしているらしい。

 少年は標的の話す言葉を聞いた。それによるとこのごろつきの集団に、さらに上から指示を出している存在がいるらしい。

(間違いない……今話している、こいつ……これは……)

 少年は静かに耳を澄まし続ける。その顔に、ようやく人間らしい表情が浮かんだ。

(やっと見つけたぞ、吸血鬼め……!)

 それは、憎悪だった。

 長年追い求めていた獲物を発見した狩人にも似ていたが、それにしてもここまで強い感情は抱かないだろうと思わせる壮絶な憎しみだった。


 腰を抜かしていた男二人が、何やら言い争っている。

「……だから、お頭に相談するしかないだろう!」

「あのキレた連中に〝しくじりました〟と言いに行くのか? 俺達は脳なしの役立たずですって報告するようなもんだろうが!」

 吸血鬼に尋問されていた、あの二人だった。内容からして、何も知らないと言っていたのは嘘だったらしい。

「このまま死んじまったことにしてとんずらするのが最善だろうがよ!」

「金はどうするんだ、あの無茶苦茶な化け物のことを伝えれば報酬はもらえるかもしれねえだろう。俺は行くぜ」

「待て、勝手に決めてんじゃねえ! お前が俺のことをチクらねえ保証はないんだからな」

「そんなことして俺になんの得があんだ!」

 延々と不毛な言い合いをしている。

(…………)

 物陰で様子を窺いながら、少年は計算していた。さらに大きな組織に接触を図ることができるかもしれないが、この頭の悪い二人とは離れていた方が都合がよさそうだ、と。

 やがて、やはりお頭とやらに報告することに決めたようで、二人はのそのそと移動を始めた。

 少年は黙って後を尾行する。

やがて日も暮れ始めた頃、人相の悪い男達が集まるキャンプに到着した。

(ここが――吸血鬼狩りの実行部隊――)

 少年は草陰に隠れ、状況を見守る。二人の男はキャンプの人間と話をつけたようで、そこにひょろりと長身の男がやってきた。

 ウォズニアックと名乗ったそいつは二人の話を聞いて、ふんふん、と頷いている。そして唐突にこちらに眼を向けて、

「ところで、あれか。姿を見せないということは、お前はこいつらを尾けてきたのか」

 と声をかけてきた。

 少年は一瞬驚いたが、男達につまみ込まれる前に自ら姿を現した。二人の男は眼を見合せている。

「さて、お前は誰だ?」

 近くで見るとウォズニアックの不気味な特徴に気付いたが、怯むことはなかった。

「ボクは、ヒビキ・チハラノといいます。さっきの作戦に参加していました」

 淀みなく応答する。この男は聡明な人物を好むだろうと瞬時に嗅ぎ取っていた。

 ウォズニアックはその名前を聞いて表情を変えた。

「チハラノ……? あれか、もしかしてお前は例のガキか」

 鋭い視線に晒されてもびくともしない。ヒビキの精神も肉体も〝こう〟と決めた役割を忠実に守っているかのようだった。

「御察しの通りです」

 ヒビキはしっかり肯定した。そして、

「ボクを本隊に入れて下さい。吸血鬼を相手にするなら、ボクは役に立つと自負しています」

 と言い切った。自分を売り込むことに慣れている口調だった。

「……なるほど、な」

 周囲の男達も、ほう、というような顔でヒビキを眺める。

「俺は、覚悟を決めてるやつは好きだぜ?」

 ウォズニアックはおどけるようにそう言って、顔面の皺を歪めた。そして、

「しかし尾行されて本隊を危険にさらすような使えねえ奴は、これは生きている価値などないよな」

 そう続けると、眼にも止まらぬ速さでぴっ、と片腕を振った。

 隣に立っていた二人の男の首筋から血が噴き出した。

「はぷっ」「ぉほ」

 口から妙な音を吐き、我が身に起きた不幸を理解できないまま、眼を見開いて倒れた。ウォズニアックはあっけなく殺した二人の死体を挟んで、

「お前は合格だ」

 とヒビキに短く伝えた。

「さて。新しい仲間も増えたことだしな、ここでお前ら全員に伝えておくことがある」

 血が滴るナイフを握ったまま仲間達へ向き直り、声を張った。

 その場にいた全員が注目する。

「今、俺達が狙っているフラン・トライバルというガキだがな。吸血鬼だってことは知ってるだろうが、しかし気をつけろ――こいつは〈イレギュラー〉である可能性が高い。何らかの特殊能力を持っているようだ」

 この世の異端者と呼ばれる存在が関係しているであろう事実を伝えられ、男達の表情が鋭くなる。

「そして今日、日中に差し向けたやつらが、あっけなく奴に返り討ちにあったようだ。つまりフラン・トライバルは昼夜問わず、いつでも無敵の吸血鬼でいられるんじゃないかという話だ――厄介なことだ」

 これには、いよいよ場が騒然とする。

 彼らとて吸血鬼には恐れを抱いているが、昼間は安全だということを理解しているからこそ作戦に参加しているのである。常に無敵である標的など、仕留められるはずがない――

 そんな相手にどう戦えってんだ、という不安の声も上がり始めた時、ウォズニアックは、

「実に厄介なことだが――しかし! それが何だと言うんだ!」

 とさらなる大声を張り上げた。

「吸血鬼なんぞ、頭を撃てば動きが止まる。眼を潰してしまえば反撃もできん。その隙に口を塞いで窒息させちまえばどうだ? ――再生する? 腕力がある? 頭を使え。考えろ。そんなものはいくらでも対処のしようがあるだろうが」

 ナイフで男達の顔を示しながら、時に力強く振り上げながら、ウォズニアックは仲間に語りかける。彼の堂々たる演説を聞いて、その頼もしさを前にして、もしかして、と考える者が出始める。

 俺達〝何でも屋〟のお頭は、吸血鬼を殺したことがあるのではないか――?

「お前等は何者だ? 今殺したような役立たずか? ――お前等は、この俺が見込んだ戦士達だ。吸血鬼ごときに遅れを取ることなど断じてない。俺を信じて動いてもらえれば、吸血鬼だろうが、聖霊だろうがイレギュラーだろうが、殺せない者はいない。俺達に! 敵はない!」

 煽られた男達に、俄かに活気が戻っていく。ウォズニアックは自信を取り戻した仲間を満足げに確認し、引き続いて今後の動きを伝えていく。

 しかしその眼は、相変わらず醒めている。

(単純な奴らだ……。本当にそんな規格外の化け物がいたら、仕留められるわけがねえだろうが)

 すべては詭弁である。

 ウォズニアックは自分の眼で事実を確かめるまでは判断を保留し、もしも相手になりそうもないと判断すれば、その時は迷わず仲間を囮にして逃げる算段なのだった。吸血鬼の脅威を正しく理解させないために、初めからすべての監視を自ら行っているのだ。

(しかし、常に最強でいられる存在などいない――そういう奴には、どこかで必ず〝運の尽き〟がくる。その隙を突いてこちらの運を行使することができれば、どんなに強い相手でもどうにでもなるもんだ……)

 己の哲学を盲信する男は、頭の中で都合の良い論理を組み立てていく。


 冷めていく死体を前にして、詭弁を語る狂人を観察しながら、ヒビキは自分が間違っていなかったことを確信していた。吸血鬼を殺すために危険に飛び込んだことを露ほども後悔していなかった。

(殺す――)

 彼の真剣な表情からは年相応の幼さなど感じられず、ただ目的に突き進むだけの乾いた決意が剥き出しになっている。

(吸血鬼を、殺す――)

 それは、復讐者の顔だった。




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