第二章「奇跡と悪夢」

 ……身体が動かない。

 腕が、脚が、どこにあるのかわからない。

 この感覚は以前にも経験があった。あれは、そう――まだ世界が戦いに満ちていた時代のことだ。生きるか死ぬかという極限の環境にありながらも、その生死を賭けた一瞬を迎えるまではどこか弛緩した毎日を送っていた、あの頃――

(……い…………)

 彼の所属していた部隊は、帝国領の国境に接している辺境の小国へ秘密偵察任務に赴いていた。その国は領土こそ小さいものの、再び交通の拠点となり得る古い街道が走っており、いずれ帝国に吸収されればその地を拠点としてさらなる戦火が広がってしまうのではないかと危惧されていた、そういう地域であった。

 そこで、あれに遭遇したのだ。

 吸血鬼――日中は普通の人間と大差ないが、夜が来れば無敵の生命体に変貌する。帝国軍が所持するあらゆる戦力の中でも最も強力な、殲滅用生物兵器。そんな化け物が、彼の部隊を襲撃してきたのだった。

(……い、お…………い……)

 たった一人の吸血鬼によって、部隊は壊滅した。

 しかし、このタイミングで吸血鬼が出てきたということは、その小国は帝国にとって最重要戦略特区として認定されているというこれ以上ない証拠であり、所謂〝本命〟であることが確定した。

 日の出を迎え、彼を始め幸運にも生き残った者たちは、そのことを本国に伝えなければならなかった。そのため部隊長は〝戦略的撤退〟という名目で後退の指揮を執っていたのだが、実際は無様に敗北したことを上層部にごまかすための方便であることは下っ端の兵士から見ても明らかであった。

(…………おい……ろ、お……き……)

 あの時も、致命的な負傷を受けていた。耐え難い苦痛、昏睡と覚醒の連鎖。しかし傷が痛む間はまだ救いがある。そのうちに、五感が薄くぼんやりとした何かに覆われ、生命が失われていく。そして世界にかかったもやの向こうから、死の気配が近付いてくるのだ……


「おい――おい、起きろ。死んじゃいないんだろう」

「うぅ……」

 作業着を血に染めて倒れている男が、小さく唸った。

 フランを襲い、そして返り討ちに遭った男だった。

「うう――が、ごはっ――」

 肺に入っていた水が吐き出される。横たわったまま咳込む度に体中の傷が痛んだが、おかげで意識がはっきりしてきた。

「が……は、はあっ……」

「気を失って川岸に引っかかっていたところを、俺が引き揚げてやった。その身体でよく無事だったもんだな?」

 軽くそう言った男は、昨夜の襲撃に参加していた仲間の一人であった。

 男の顔には、酷い火傷の痕があった。頭部の皮膚もほとんどが焼けただれており、毛髪は一本たりと生えていない。身体中がそのような火傷痕で覆われているであろうことを推察するに容易なほどの、それは凄まじい不幸の痕跡だった。

 異相の男は、冷静に状況を分析する。

「あれか、すぐに気を失ったのが逆に良かったのか。気絶していたためにあまり水を飲まず、敵の追い打ちも受けずに済んだ、といったところか」

 そして、仲間に発見され蘇生処置を受けたのだった。

 なんという幸運、まさに九死に一生――そのことに気付いて瀕死の男は身震いした。

「た、助かったのか……?」

「そうだ。しかし危ないところだったな。誰にやられた」

「わからない……」

 男はぶるぶる震え始めた。

「わからない。なんで、なんで……なんでここに、あいつらがいるんだ。それも、こんな真昼間に……ありえない。そんなわけがないんだ……。標的だったガキ……! あれは化け物だ! 俺にはわかる。昨日の夜に俺が刺してやったあの小僧、あいつは吸血鬼だ!」

「……?」

 その名を知らない者などいない。大戦争を知る者達は、誰もがそいつに襲われる危険と恐怖を感じながら夜を迎えていたのだから。

 火傷の男は突拍子もない断定それ自体には驚いた様子はなく、淡々と論理を組み立てる。

「すると、夜中に襲われたのか?」

「違う、今朝だ! 逃げた小僧を見つけたから始末しようとしたんだ。でも――ああ――」

「…………? 待て待て、日中に襲われたのに、どうしてそいつが吸血鬼だとわかるんだ。日光の下では見た目も能力も人間と変わらないと聞くが――」

 彼は震える男をよそに訝しんでいたが、やがて、

「――ああ、あれか」

 これで決まりだ、とでもいう風に頷いた。

「お前、大戦中に吸血鬼を見たことがあるのか? 今朝見つけた小僧と、その時の印象が同じということか。しかし二度も吸血鬼と遭遇して無事だった奴なんて聞いたことがないぞ。お前はかなり運がいいんだな」

 言われて、瀕死の男の表情に俄かに生気が灯った。この不思議な懐かしさは戦争で生き残った時の感覚だ、と思い出していた。

「あ、ああ――そうだ。あの時も……大怪我をしていたんだ。でも――」

 ここで終わるわけにはいかない、という決意を湛えた、それは生き続ける覚悟をした人間の眼だった。震えながらも言葉を絞り出す。

「そうだとも……あの時だって、俺は助かったんだ……。頼む、誰か呼んできてくれ。傷の手当てを……まだ、間に合うはずだ……」

 そんな血塗れの男の懇願を聞きながらも火傷痕の男は動こうとせずに、うんうん、と未だ一人で頷いている。

「そうだ、まったくそのとおりだ。うん、お前は本当に運が良かった。だから――もう、ここで終わりだ」

 と言うと懐から拳銃を取り出して、横たわる男の頭部に向けて、撃った。

 一寸の迷いもない挙動に対して絶望を感じる暇も与えられず、瀕死の男はその人格を奪われた。

 今度こそ、死んでいた。

「ここに辿り着くまでに、お前は人生のツキを使いすぎたな。これ以上生きていても、もう見込みはない」

 自らが命を救い、そして奪った人間を見下ろしながら、無学な相手に一般常識を説明するかのように一方的に伝える。

 男が銃をしまう、その表情に弱者を踏みにじる喜びや陶酔などはない。ただ〝当然のことをしたまでだ〟という乾燥した感情しか窺えない。

 といって達成感もなく、既に切り替えた頭の中で、

(なるほどな……依頼された標的はただの金持ちのガキかとも考えたが、それだと殺す理由にはちと足りない。誘拐した方が金になるしな。やはり本物の吸血鬼だったか)

 と、冷徹に情報を整理していた。

 彼がどのような原理に従って行動したのか、他人には理解しがたいだろう。

 仲間の一人が吸血鬼から逃れ、二度目の九死に一生を得て……確かに、ここまでは運が良かった。しかし彼に助けられた時点で、もう終わり――すなわち〝運の尽き〟なのだった。

(しかも日光に耐性がある個体らしい。ぞっとしない話だ……。裏があるとは思ったが、こいつはまさかこの世の異端者達に……〝イレギュラー〟とやらにも関係しているのか……?)

 火傷痕の男は踵を返し、何処かへと歩き去って行った。


          *


 フラン・トライバルには父親がいなかった。

 彼が生まれた時、男親は既に亡くなっていた。フランはそれを寂しいと感じたことも不幸だと思ったこともなかった。父親がいなくても寂しくないように母が一緒にいてくれるのだと理解していた。

 物心ついた後での別離なら悲しみがあったのかもしれない。しかし初めからいない存在に対しては、特別な感情を持ちようがなかった。ヴォルフおじさん、と呼んで懐いていたエインズワースが、あるいは父の代わりになっていたのかもしれない。

 ある時、母と一緒に歩いていたフランは派手に転んでしまった。膝を擦りむいただけだったが、痛みよりも転んでしまったことの恥ずかしさが勝っており、平静を装った。母が見ている前でフランの血は止まり、傷口が瞬時に塞がった。

 母はその場で泣き崩れた。フランを両腕で抱いて、人眼も憚らずにわんわん泣きじゃくった。吸血鬼の血が、我が子に遺伝していることを知った涙だった。

 フランには、涙の意味はわからなかった。自分が何か悪いことをしてしまったのかと思った。幼いフランにとって、怪我とは遅くても翌日の昼には治っているものであり、それが当たり前だと思っていた。そして治り具合にはどうやら法則があるらしいと薄々勘付いていた頃でもあった。

 幼年学校を卒業する直前のことだった。


 ユイの母親は、人数が増えるのなら朝食の量を増やそうと言ってくれた。

 ワークがエインズワースを連れてくると、大男はフランを保護し手当てをしてくれたことに対してユイと母親に感謝の意を伝えた。

 ワークは他の仲間を呼びに行ったため、四人で朝食を摂る。エインズワースとユイの母が世間話をしているのを聞きながら、フランはユイが時折見せる笑顔を注視していた。

(不思議な子だな……)

 彼女が笑うたびに、雰囲気が明るくなる。元気が湧いてくる気さえする。

(そうだ……まるで母さんのような……)

 そのことに思い至り、また眼頭が熱くなった。誰にも悟られないように料理を口にかき込んだ。

 勢いよく食べたために一番に食べ終わってしまい、席を立って庭に出ていることにした。まだ痛むのか、とエインズワースに声をかけられたが、適当にごまかしてそのまま部屋を出た。

 庭のベンチに腰掛けていると、草が不自然にこすれる音を聞いた。

 動物と眼が合う。

 明るい色毛を持つ、このあたりでは珍しくない種類の獣だった。見た目の愛嬌はあるが人間に飼われることは少ない種であり、人家の庭に入ってくるのは餌を探している時だけだった。しかし様子がおかしい。

「お前もか……」

 獣は怪我をしていた。腹から後ろ脚にかけて、泥で濁った血がこびりついている。脚を引きずってなんとか這い進んで来たことが窺い知れた。

「夜にここに来れば、お前は助かっていたのかもな」

 座ったまま、獣に呟く。

「僕も血を流していたから。あの人達に家に運び込まれる前にこの場所に着いて――僕を発見することができていれば、生き伸びる可能性はあったろう」

 フランはほんの少し悲しそうな眼で、語りかけていく。

「けれどそれはもう、〝もしも〟の話だ……」

 獣はひょこひょこと家に近付いていく。意志を持って、何者かに助けを求めているかのような動きだった。

 フランは獣の運命を知っていた。重傷を負った動物は自然淘汰の中で、高い確率で命を落としてしまう。それは決定事項とでも言うべき自然の摂理であった。

 家の扉が開き、ユイが庭に出てきた。フランを呼びに来たのだろうか。しかしこちらに視線を向ける前に、彼女は獣を見つけた。

 すぐに駆け寄る。

「大変!」

 跪き、獣に触れた。両腕で抱え上げる。土や血で汚れることなど頭にない、一切迷いのない行動だった。少女の行為には感心しながらも、フランの心に変化はなかった。

(無駄なことだ――そいつはもう助からない)

 心優しい人間に見つかって、手厚い保護を受けたからといってどうにかなる問題ではなかった。獣の肉体は文字通り致命的な損傷を受けている。

 しかし、一瞬後――彼は眼を疑った。

 少女に抱えられた獣の身体が、ぽうっと光に包まれた。

(……?)

 フランが驚いている間にも、光量が増していく。よく見ると獣の肉体ではなく、光っているのは抱きとめた少女の方だった。その腕から、いや手の平から、小さな光が発せられている。

(何が――起きている――?)

 そのうちに、少女は腕を下ろした。獣の身体を地面に戻す。と、フランは再び驚愕することになった。

 獣が自分の脚で立っている。引きずっていた片足には未だ血のりがべったりと付いているが、傷そのものはなくなったかのように、ぴょんぴょん飛び跳ねて少女にまとわりついている。少女はこの現象を不思議がる様子もなく、獣と一緒に笑ってじゃれている。

 奇跡が起きた――そうとしか形容できない光景だった。

 彼の混乱が収まらないうちに、獣は敷地の外へ駆けていった。ユイはその姿を見送りながら手など振っていたが、やがてフランの視線に気付いた。

「私も庭に出ていなさいって。なんだか大人の話があるみたいで」

 屈託なく笑い、

「見られちゃいました?」

 困ったように訊ねる。フランはその意味を汲んだ。つまりは基本的には他人に隠しておくべきものだが、極度に秘密にしておくことでもない現象、というところか。

 そのため、

「今のは……何をしたの」

〝何が起きたの〟とは訊かなかった。不可思議の中心はこの少女であると直感してのことだった。

「昔からこういうことができるんです、私。お母さまには、人には見せるなっていわれてるんですけど」

「こういうこと、って――」

「生き物の傷を癒すことです。昨晩、大怪我をしてたあなたも、私が治してあげたんですよ。私があなたを見つけて、それでお母さまと部屋まで運んで、一緒に手当てしたんです」

 ユイは自慢げに胸を張った。

 彼女が今の能力を発揮して回復してくれたからこそ、夜を乗り越えることができたのだろうか。

「でも包帯なんかは全部お母さまがやってくれて、そのときは私、何もできなくて……。母の手当てが終わった後、本当は部屋に戻って寝なさいって言われたんだけれど、心配になっちゃって。まあ、すぐに眠っちゃったんですけど。あんなひどい傷を治癒したことはなかったから、不安でした」

「そうなんだ……あの」

「あんなに綺麗に治せるとは思ってなかったんですけど。でも、良かった! フランが川原にいるのを見つけた時は私、本当に嬉しかったです!」

「うん、良かった……その……」

「なんですか?」

「……どうも、ありがとう」

「……はい。どういたしましてっ!」

 命を救ってくれたことに対して、それはフランがようやく伝えられた感謝の言葉だった。顔を上げると、ユイのある変化に気がつく。

 少女は汗ばんでいた。

 息使いも少し乱れており、額に汗の粒が残っている。朝の気温はまだ低い。まさか 今の能力の反動だろうか。だとしたら、瀕死の状態で動けなかったフランを夜通し治癒するのに、いったいどれだけの疲労があったのだろう。

 眼前の少女が命の恩人であることを改めて痛感した。

「けれど、昨夜は何があったのですか。どうしてあんなに大きな傷を?」

「賊に命を狙われた、んだと思う。確証ではないけど」

 はぐらかしても良かったはずが、つい本当のことを言ってしまう。ユイはまあ、と心配そうにフランに詰め寄った。

「どうして。悪い人たちに狙われているのですか。危ないのではないですか? あ、でも答えられないことだったら――」

 本気で心配している。自分の秘密を目撃されたというのに、人が良すぎる反応だった。

 この女の子に隠し事をするのは、フランにはどうも気がひけた。どうでもいいような感覚ではあったが、自分が人として負けるような気がするのだ。

「いや、僕のことも話すよ。僕も君に見られてるしね」

「そうですか? では、秘密を交換することにしましょう!」

 ユイは嬉しそうにぽん、と手を叩いた。

 フランは自らの秘密を、少女に語る。

「僕は、吸血鬼なんだ」


 先の大戦争で、帝国は吸血鬼を生物兵器として利用していた。

 吸血鬼は昼の間は常人であり、戦闘能力も人間のそれだ。しかし――夜を迎えれば無敵の生命体になる。半不死身の肉体と無双の膂力で以って戦場を血の海に変える、投入されれば即勝敗が確定する強大な戦力であった。

 吸血鬼の恐怖は大戦争終結後の世代であれ広く聞き及んでいるものであるが、だからこそ少女の反応も、フランの予想した通りのものだった。

「ぷっ」

 ユイは噴き出した。

「あらまあ。お日さまの下で女の子と話している吸血鬼なんて。私、聞いたことありません」

 無理もない反応だった。

 大戦争を知っている者にとって、吸血鬼は力と恐怖の象徴として今でも恐れられているが、彼女くらいの世代にとっては、むしろ現実味のない御伽話に聞こえるのだろう。

 もっとも、フラン自身もほぼ大戦争後の世代であるが。

「……僕は特別なんだよ」

 フランが説明を加える。

「特別にすごいってことじゃなくて、吸血鬼として普通じゃないらしいんだ。反転してるんだよ。日中は吸血鬼でいるんだけれど、夜になると普通の人間になる。僕はこの特異性のことを、〈ホワイト・ナイト〉と名前をつけて呼んでる」

「個性的なんですね」

「そういう、常識の範疇にない能力を持つ存在のことを異端者、〈イレギュラー〉と呼ぶらしい――おじさんが言うにはね。もしかすると君の治癒能力も、同じようなものかな」

「〈いれぎゅらー〉ですか……。あ、それで今朝は、朝になったおかげで怪我も治っちゃったんですかね」

「…………」

 どうにも、反応が薄い。

 信じてもらえているのだろうか。彼女にも不思議な力があるもので、奇怪な事象への感覚が鈍っているのかもしれない。

「そうだ」

 フランは庭の生垣に歩み寄った。腕をまくると、生い茂った薔薇の枝の中に腕を突っ込み、

「見ていなよ」

「あ――」

 そして乱暴に引っ張り出した。ぴいいっ、と皮膚にいくつもの赤い線が走る。

「大変っ――」

「いいから」

 心配するユイを制し、彼女に腕をよく見せた。裂かれた皮膚は既に塞がっており、フランが腕を揉むと取り残された血液が傷のない肌をぬるりと滑った。

「あら……」

「ね、信じてくれたかい」

 これで理解してくれるのかと思ったが、

「いけません!」

 きりっと睨まれた。

「え」

 思わずたじろぐ。どうにも、この女の子に叱られると身体が縮む気がする。

「いたずらに自分を傷つけてはいけません! 治るといっても痛いのでしょう? そんな痛い思いをしてまで人に見せるものではありませんっ!」

 ぴしゃりと言い放たれる。

 フランとしてはユイに訊かれたから答えたのであり、百聞は一見に如かずと考えて見せてやったのだが、

「ご、ごめん。……なさい」

 と、謝ってしまう。なぜだかやはり、自分はこの娘には弱いみたいだな、と再認識した。

「簡単に自分を傷つけるものではありませんよ!」

「わかった、わかったよ。もうしないから。……でも、それは君の力だって同じだろう。体力を消耗するんじゃないのかい」

「あら、私は傷を治すという正しい使い方をしましたから」

「正しい、ね」

「きちんとお礼も言ってくれましたし」

「お礼?」

 まさか、動物と会話ができるとまで言い出すのかと身構える。

「治療が終わった後、飛び跳ねてじゃれてくれていたでしょう? あれが、彼なりの〝ありがとう〟なのですよ」

「どうだか」

「あなたにも、あの子の声が理解できたはずです」

「僕には聞こえなかったよ」

「いいえ、聞こえていたはずです。あなたは優しい方ですから」

「そんなことが、どうしてわかるんだい」

 フランが少しむきになって訊いた。するとユイは至極当然のように断言する。

「あら、動物に話しかける方に、悪い人はいませんもの」

 顔が熱くなった。彼が独り言のように喋っているところを、家の中から見られていたのだ。

「あれは、彼に何か言っていたのでしょう?」

「い、いや、僕は別に優しい声をかけていたわけじゃ――」

「話しかけていたのですね」

「それは……あいつが怪我をしていたからで――」

「あら、やっぱりお優しいのですね」

 少女はふふっと笑った。

 その笑顔を見ると、フランは口論などどうでもいいことだと思った。


「あ、おじさま」

 家の扉が開いて、ユイが言った。フランもそちらを向くと、エインズワースが庭へ出ていた。二人へと歩いてくる。

「〝大人のお話〟は終わったのでしょうか」

「…………」

 その顔を見て、フランの息が止まる。

 エインズワースの表情は、基本的に変化に乏しい。無表情ということでもないのだが、感情をむやみに表に出さないため、表情はどこか頑なな雰囲気になってしまうのだ。

 それにしても今の彼は、強面の顔つきがさらにぎゅっと固められているような、何かを耐えているかのような――フランは以前にも、彼のその顔を見たことがあった。

(おじさんの表情――あれは、まるで……)

 エインズワースがユイに声をかける。

「追い出してしまってすまなかった。――ユイ君といったね」

「はい」

 フランは確信した。

 明らかに、それは凶兆だった。

「少しいいかい、ユイ君」

「なんでしょうか?」

 相手に言い辛いことをどうにか伝えようとしている顔であり、伝えることで苦しめてしまうことを、それによる責め苦を負うことを覚悟している瞳だった。


          *


 幼年学校を卒業してすぐに、事件は起こった。

 夕方、フランが帰ると玄関に見たことのない男が立っていた。眼が合うと、男はフランの腹を刺して逃げた。何が起こったのかわからなかった。昼と夜の境目であり、瞬時に再生するだけの能力は発揮できず、かといって気を失うことも許されなかった。

 母は家にいるはずだった。フランは這いずりながら廊下を進み、探した。中途半端に傷が塞がる速度に合わせて刃物が抜けていき、激しい痛みに苦しんだ。

 這い進む先に血だまりがあった。部屋の中から漏れ出していた。

(赤……)

 フランはそこを目指した。西日が射す世界の中で、その赤だけが生命とは無縁の色に見えた。取り返しのつかない色に見えた。生命が零れ落ちた色であり、死神が去った足跡でもあった。母の姿を見ることはできないまま、フランはやがて力尽き意識を失った。

 眼が覚めると、腹部の痛みはほとんどなかった。ぎりぎりで回復が間に合っていたようだった。

 家には近所に住む人たちが集まっていた。みんな暗い顔をしていた。おじさんもいた。母を除いて唯一の血の繋がった親類であり、その顔を見てフランは安心するはずだった。

(そうだ、あの時の……)

 しかしその日は何かが違った。

 真面目で頼りがいのある物腰はいつものようであるが、雰囲気がどこまでも固く重かった。激しい感情と葛藤を押し殺した顔つきだった。

(まるで……僕に、母の死を伝えた時のような――)

 それに気付いた時、フランはやはり逃げ出しておけば良かったと思った。

 この家から離れていれば良かった。周囲に不幸をまき散らす自分が、彼にまたこんな表情をさせてしまったのだと後悔していた。

 会ったばかりユイにその変化が捉えられるはずもなく、彼女は屈託なくエインズワースを見上げている。

「大切な話があるのだが、まずは結論から伝えさせてもらう」

 彼はユイと眼を合わせて、

「君に、我々の旅に同行してもらいたい――仲間になってほしい」

 と言った。ユイより先に、フランが反応する。

「どういう意味ですか、おじさん」

「ユイ君を我々が引き取り、一緒に来てもらうということだ」

 エインズワースは言い切った。

 フランの言葉が詰まる。

 彼の性格はよく知っている。考えをすべて頭の中で整理してしまってからでないと、断言はしない。その彼がこれだけはっきりと意見を表明しているのだ。エインズワースにとって、これはもはや動くことのない決定事項なのだった。

 エインズワースの瞳からそう感じ取ったフランだったが、それでも交渉を試みる。

「それは……どうして」

「君も教えてもらったのだろう、ユイ君の治癒能力のことを。君のためだ、フラン。昨日のようなことが再び起こった場合、夜間に君を回復させる手段が今の我々にはない。君の弱点である夜の襲撃に備えられるというのは大きな利点だ」

「そんな……僕の安全のために、そのためだけにこの子を巻き込むわけにはいかない」

「そのためだけに、我々は行動しているんだ」

 それは歪みも綻びもない、ひたすらに真摯な言葉だった。

 フランが再び何も言えなくなると、ユイが口を開いた。

「母はなんと?」

「お母様からは了承を得た。しかし君が嫌だというのなら、もちろん断ることもできる」

 フランは耳を疑った。ユイにしてみれば、自分の与り知らないところで母親に売られたことになるのではないか。

「やはり、私が必要なのですね?」

 ユイは穏やかな表情で、まっすぐにエインズワースを見つめている。本人にそのつもりがないとはいえ、エインズワースの半端でない威圧感にも押されていない。

「そうだ。我々には君が必要だ」

「……わかりました」

 にっこり笑って、あっさりと承諾してしまう。

 フランは焦った。

「ちょ――ちょっと待つんだ。君は関係ないんだから、そんなことする必要はない。そもそもおじさん、無理がある。この子にはワークさんみたいな特技もおじさんみたいな判断力もないんだよ。ユイにとっては危険が大きすぎる」

「ユイ君をイレギュラーたらしめている治癒の能力がある。彼女が同行してくれれば、君の安全はさらに確実なものになることは間違いない」

「だけど僕は吸血鬼だ。弱点を突かれない限りは心配ない。そしてそうなってしまった場合にはもう、意味がないじゃないか。治癒能力とはいえ効果があるとは思えない」

 二人が議論を展開していると、横からユイが、

「吸血鬼の弱点……というと、ニンニクですか」

 と間の抜けた質問を投げてきた。その発想につい、苦笑しそうになる。おとぎ話の吸血鬼とごっちゃになっているらしい。

「それは間違った知識だよ。実際は、もっと身も蓋もない」

 フランは自分の頭を指差した。

「脳か心臓だよ。ここを破壊されない限り、吸血鬼は死ぬこともできないのさ」

 と自嘲気味に言ったその時――がん、とフランの視界が揺さ振られた。それは五感と肉体のつながりをいきなりぶった切られたような、反応が劇的な割には妙に現実味が薄いという独特な感覚だった。

 生きている者ならこの世の誰も経験したことがなく、一度味わえば後には何も残ることのない、そういう肉体反応――〝即死〟と呼ばれる現象であった。


 それは奇妙に冷静に、ただの視覚情報としてユイの脳裏にとらえられた。

 フランのこめかみから、ぶしっ、と血飛沫が飛び出した。え、と思うが早いか、彼女の身体は強烈な力で抱きかかえられていた。

 ユイを抱えたエインズワースはそのまま庭の裏手に向かい、植えられていた草花をなぎ倒さんばかりに頭から突っ込んだ。

(きゃ――――)

 上下の間隔を一瞬失うが、離された時は何事もなかったように一人で立つことができた。迅速に避難させながらも、急な衝撃をかけないように計算された運び方をされたのだったが、そんなことに頭を回す余裕はユイにはなかった。

(い、今のって――フランは――?)

 ユイが庭を覗くと、フランが倒れているのがちらと見えた。しかしすぐにエインズワースの太い腕で遮られる。

「あ、あの今、フランが――」

 ユイは混乱しながらも、エインズワースに伝えようとする。フランは、彼はたった今宣言していたではないか。吸血鬼は脳か心臓を破壊しなければ死ぬことはないと――ということは、

(頭から血が出てたってことは、つまり――)

 吸血鬼といえども、命が危ないのではないのか――?

「心配いらない」

 エインズワースが言った。

「え……」

「心配はいらない。確かに脳への攻撃は吸血鬼にとって致命傷になり得る。最大級の弱点のひとつではあるが、しかし銃弾程度の威力では彼の頭蓋骨を貫くことはできないはずだ」

 と、脅かしているのか安心させたいのかよくわからないことを一息に伝えられる。しかし声と眼差しの印象はどこまでも落ち着いており、この人が言うのならばきっとそうなのだろう、と感じさせる力強さがあった。


 転倒したフランは、意識を失った時と同じく唐突に覚醒した。

 ぱち、と眼を開けた時には、傷は既に塞がっている。頭蓋骨にめり込んでいた弾丸が、再生された体組織に押し出されてぽろりと地面に転がった。

 気がついてまず考えたのは、

(撃たれた――これは立ち上がるのも、といって全く動かないのもまずいんだろうな……)

 という、〝雨が降ってきたけど、これくらいなら平気かな〟と空を見上げる瞬間にも似た、非常に淡白な感想だった。


(――出番だな)

 ワークはユイの家を見下ろす高台に登っていた。腹をべったりと地面につけ、うつぶせで銃に装着された光学照準器を覗いている。

 フランが倒れた瞬間も確認しているが、心配するそぶりはない。撃った者への対応に神経を集中している。

(旦那の言った通りだ……昨日の賊の奴ら、時間を置かずに次の手を打ってきやがった)

 エインズワースの指示を受け、ワークは迎撃態勢を取っていたのだった。しかし場所を選んだのは、彼自身の判断である。

 その高台はユイの家周辺はもちろん、その庭にいる人間を銃で狙うにあたって二番目に条件の良い場所だった。

(連中が無能じゃねぇなら、一番の狙撃ポイントに待ち構えているはずだからな……)

 と考え、その場所にあたりをつけて、狙撃銃で狙っているのだ。

(そら見ろ、いやがった……)

 あらゆる戦闘状況に共通することであるが、こと狙撃兵にとっての戦闘の大原則とは、ただ〝敵に見つからないように気をつける〟という地味なものである。逆に相手の居場所を割り出してしまえば、圧倒的な優位に立てるのだ。

 だから作戦中は、普段の軽口も一切叩かず黙々と索敵に集中する。

 そして、

(三、六――八人)

 瞬時に人数を数え、最も逃げやすそうな場所にいた一人の頭部に狙いを定め、ワークは引き金を絞った。


「やったぞ!」

 銃を撃った男が叫んだ。

 近辺で最も高い土地で、見晴らしの良い丘だった。順光でもあるため絶好と言える狙撃地点である。

 男達は、昨夜の襲撃メンバーとほぼ同じ面子だった。標的が生きていることを確認したと雇い主から指示を受け、照準器越しに捜索していたのだ。

 そしてフランを発見したため、銃弾を撃ち込んだのだった。

「見やしたかお頭、俺の手柄だぜ!」

 硝煙をくゆらせる銃を放り、周囲に向かって再び叫ぶ。するとどこからか声が返ってきた。

「見事だな。あれか、お前は狙撃兵だったのか?」

「ええ、腕には自信があるんで。大戦中は名を上げたもんだ」

 鼻を鳴らしてそう言ったが、これは嘘である。本隊とつながりのある声の主に取り入ろうとしているだけだ。経験があるとは言えない証拠に、

「そうか。……それなら、不用意に武器を手放すもんじゃないよな?」

「おい!」

 誰かが叫んだ。

「見ろ、動いているぞ! まだ生きている!」

「なんだって――?」

 慌てた男は、急いで銃を拾おうとした。まさか、確実に頭を吹き飛ばしたはずなのに――と考えたところで、自身の頭の半分が吹き飛んだ。


(――一)

 着弾を確認した直後、別の標的を定めて次弾を手動装填、発射する。男達の位置と人数を把握した時点で撃つ順番を決めているため、滑らかな動きに無駄がない。

(二――三――四――)

 数えながら、次々に撃ち倒していく。放たれた弾丸は銃口と敵との空間を一瞬で移動し、男達の頭部に命中する。

(五――六――)

 機械的な正確さで、ワークは銃を操っていく。

 その瞬間だけは、標的も自分自身すらも、人間だとは思っていないかのように。


 標的が死んでいないことを確認して、男達は一斉に引き金を絞った。

 ほとんどが外れたが、数発がフランに命中する。しかし着弾を確認できた者は、その時点で五人しかいなかった。

 その内の一人が異変を感じて首を振ると、隣にいた者の最期の姿が眼に映った。

(…………!)

 仲間達の頭が弾け飛んでいく。次々と倒れていく。倒れた者は二度と起き上がらないことを、その男はよく知っていた。

(…………!)

 彼は思い出していた。

 それは戦場の悪夢だった。人生とはこうもあっけなく終わるものなのだという事実が避けようもなく襲いかかる。その人格に、生命に、魂に容赦なく喰らいついてくる。

 大戦争が終結し、大抵の人間は死から遠ざかることができた。そんな時代の裏稼業に生きる彼らにとって、死とはこちらから一方的に押し付ける理不尽になった。

 そのはずだった。

(こんな…………!)

 そのはずだったのだが、今――

(……これは……これで、俺は……?)

 こんなことで死ぬのか、そう思いながら再び銃を構えた。照準器に眼を押し当てるが、狙いを定めるどころではないためになかなか目標を発見できない。

(俺は……こんなところで……)

 もしもフランを仕留めたところで、もはや死の運命から逃れることはできないのだが、悪夢の中に取り残されていく焦りが男を突き動かしていた。

(こんなところで……終わるわけにいくか……!)

 誰でもいい。

 誰かに、何者かに一方的な死を与えることができなければこの人生に意味などないのだ、という強迫観念に支配されていた。

(そうだ……こうなれば、道連れだ……!)


 意識を戻したフランは倒れた姿勢のままでいたが、

(おじさんを案内した後、ワークさんの姿が見えなくなっていた。ということは既に、迎撃行動に移っているだろうから……)

 じっとしてはいなかった。起き上がるそぶりを見せ、自分を狙っているであろう狙撃手の注意を引きつける。

 ぐぐ、と呻くような動きをして見せると案の定、第二射が襲ってきた。

 ほとんどは土にめり込んだが、二発に被弾した。

「つっ……」

 腹部と肩に、ほんの一瞬だけ痛みが走る。しかしすぐに回復し、服を焦がした弾は先程と同じく地面に落ちた。

 そこでやっと、聞き覚えのある銃声がフランの耳に等間隔で届いてきた。

(流石だな、ワークさん……)

 と感心した直後、裏庭の方から見覚えのある光が見えた。


 明らかな銃声を耳にして、ユイの身体は咄嗟に動いていた。

(助けないと……!)

 と思った時にはもう、飛び出していた。同時に、手の平から無意識に治癒の光が溢れ出している。

「待つんだ――!」

 エインズワースの声が聞こえたが、既に遅かった。

 庭に出て、倒れているフランに駆け寄っていく。フランはユイの姿を見て、そんなことがあるはずがない、というように眼を見開いていた。


(どうして……!)

 ユイの姿を確認して、フランは混乱した。彼女にエインズワースがついていたのなら、それはあり得ないことだった。彼の制止を振り切って飛び出すことなど――

(おじさんは一緒じゃなかったのか――? 狙われている今、出て来たら……!)

 ユイは脇目もふらずに庭の中央へ、フランの方へ駆けてくる。両手に湛えた治癒の光が、フランのもとに届いている。

(この体勢からでは――ええい!)

 フランは、がばっ、と起き上がり銃弾の飛来してきた方角を睨んだ。

(やるしかない……!)


(お前だ……!)

 銃口の先に捉えた人間に、名前も知らない少女に向かって、

(死ね!)

 男が銃撃を放った直後、その額に穴が空いた。

 自身の最期の狙撃が、誰の人生にどんな影響をもたらすことになったのか、男が確認することは永遠にできなくなっていた。


 身体を起こすと同時に、すべての神経を視覚に集中させる。

 コンマ一秒といわず、この世の瞬間という瞬間を余さず捉えるために、時間の流れをどこまでも薄く引き延ばしていく。

(…………)

 やるしかない。

 やったことはない。

 できるかどうかではない。

(…………)

 思考する余裕すらない、極限まで濃縮された時の中で、フランは発見した。

 衝撃波を纏い、大気を切り裂き回転しながら迫り来るライフル弾を。

 フランは動いた。

 ユイの前に、銃弾の軌道上に己を割り込ませ、

(…………!)

 音速を超えたそれに右腕を伸ばし――素手で握り込んだ。


 一瞬の出来事だった。

 すぼん、という聞いたことのない異音が響いたかと思うと、跳び上がったフランの身体は庭を横切り柵に突っ込んで壊し、手足を振り乱しながら派手に転がっていった。

「えぇ――?」

 予想だにしない動きを見せたフランに虚を突かれ、ユイは一瞬固まってしまう。

「ええと……ま、待って――」

 とにかく追いかけないと――と気を取り直し、急いで彼が飛んでいった先に向かった。


「うぅ……」

 フランはぼろぼろになって横たわっていた。あまりの速度で動いたために、その後の慣性を制御できす転げまわった挙句、樹に激突してようやく止まったのだった。しかしぼろぼろというのは無論、見た目に限ってのことである。服があちこち破れて泥がついている。

「やってみるものだな……」

 右手を開くと、握力で変形した銃弾がひとつ、握られていた。

 自分でも驚いていた。吸血鬼の力にここまでの離れ業が可能だとは思ってもみなかった。

 そこに、ユイが必死になって追いかけてくるのが見える。フランは安心させようと身を起こし、手を振ってみるが、

「……なんだか、また怒られそうだな」

 ということが、なんとなく予想できてしまった。


 少女が少年に駆け寄り、彼に話しかけている。なにやら言い合いになっている、というより少年が一方的にやられているように見える。

 その様子を、密かに観察している者がいる。

 顔を痛々しい火傷痕に覆われた男だった。男の周囲には、正確に頭部を撃たれた八人分の死体が転がっている。流血からは薄く湯気が昇っていた。

(なるほど……。日中に吸血鬼に襲われたってのは本当のようだ)

 男達が撃たれた際の反応から、既に狙撃手の位置を推定している。その死角から顔を出しフランを観察しているのだ。

 周囲の凄惨な状況をまったく顧みず、男は双眼鏡を覗き込んでいる。

(しかし、吸血鬼の身体能力があれほどとはな……あれか、今の動きは後ろの娘を守ったのか? そうかそうか……)

 考えながら、疵に侵された顔面を奇妙に歪めた。筋肉が皮膚から分離してしまっているためにうまく表情が作れないのだ。適切な治療を受ければもう少しどうにかなりそうなものだが、男に気にしている様子はない。

(その辺は、もうちっとつついてみる価値はありそうだな……そして向こうには、あれは確か〝捻じ伏せのエインズワース〟だな? 大層な指揮官を連れていやがる――)

 男は三人を観察しながら、にやにやと歪んだ笑みを浮かべ続けていた。


 狙撃を終えたワークは、身体を起こして座っていた。

「…………」

 ぼーっと空を見上げている。

 大戦争の最中はそんな余裕などもちろんなかったが、終戦後に傭兵としての狙撃を終えた後は、いつもこうなのだった。普段の彼を知る者からすればまるで別人のように感じただろうが、その場には今、彼一人しかいない。

「…………」

 なにやら唇を動かしている。ぶつぶつと独り言を喋っている。それは他人が聞き取ろうにも声が小さすぎる上、そもそも文章になっていないので意味不明なのであったが、ワークの心の中ではこのような感情として漂っていた。

(……わかってるよ。俺には他に取り柄がねぇんだからな、考えたって仕方ないってことは。けどよ、やっぱり嫌なもんは嫌なんだよなぁ……いや、そうだよ。だから心配すんなよ。お前が悩む事じゃないんだからよ。なぁ、ミク……)

 ワークはしばらくそうして空を見上げていたが、ふと立ち上がり銃が粗方冷めたことを確かめると、今の仲間のもとへふらふらと歩いていった。


「あの、すみませんでした。守ってもらったのに、私……」

「いや、いいんだ」

 ユイが庭に戻り、エインズワースと話している。

「どこかお怪我はありませんか。よければ手当てさせてください」

「その必要もない。むしろ庭の花と柵のことを謝らせてほしい」

「…………」

 その隣で、フランは難しい顔をして考え込んでいる。

「どうした、フラン」

「おじさん、考えていたんだけど……。今の攻撃は、本気で僕を殺そうとしていたんだろうか」

「ああ……そうだな」

 言われて、エインズワースは渋い表情になる。

「え?」

 ユイには意味がわからない。いきなり頭を撃ってきた相手が、本気じゃないなんてことがあるのだろうか。

 フランとエインズワースはまたも二人で話を進めていき、

「これは君のことをよく知らない者の仕業である可能性が高い。吸血鬼であることを承知なら昨夜のような夜間襲撃という愚は犯さないだろうし、イレギュラー能力のことを知っていれば逆に、今のように昼間の襲撃はないはずだからな」

「そのどちらの情報も相手に渡さないために、僕もさっきは反撃でも死んだふりでもなく、中途半端な対応しか取れなかったからね」

「ということは……面倒だぞ」

「うん……」

 などと神妙に頷き合っている。置いていかれたユイがもじもじしながら、

「あのう……つまり、どういうことですか?」

 と訊ねた。

「つまりだ……この襲撃は何者かが裏で手引きしている可能性が高い。昨夜からの一連の攻撃は、単なる様子見というところだ」

「僕が本当に吸血鬼なのかどうかを含めて、僕らにどの程度の対応力があるかを慎重に探っているんだろうね」

「えっと、だから……?」

 二人から帰ってきた応えは、ユイの想像を遙かに超えたものだった。

「要するに――本当の修羅場はこれからだ、ということだよ」


          *


 ……森の中に、男達が車座になり集まっている。

 木々が作る日陰は平地のそれより多く、その分気温は低い。たき火に当たり酒を煽ることで体温を無理やり保っている。

「――だから、あの程度の奴らに殺しは勤まらんのだ」

「次も失敗だろうな」

 などと話しながら、安い硬貨を提示していく。

 彼らは戦時中に大した戦果を挙げられず報酬が少なかった上に、平和な社会には馴染むことができなかったというごろつき連中が集まって結成された〝何でも屋〟である。

 清掃から荷物運びまで何でも請け負うので何でも屋、という名目ではあるが、実際は表に出せない後ろ暗い仕事ばかりを引き受けている。その中には当然、今回のような殺しすらも含まれる。

 彼らは賊の本隊であり、ここにいる男達は全員、標的が吸血鬼であることは承知している。しかしその吸血鬼が、本来の力とは別に特殊な異能を持っているらしいことは、この時点では誰も知らない――ただ一人を除いては。

 誰もが腕に自信がある荒くれ者どもであったが、今回は相手が相手なだけに直接対決はひとまず避け、何も知らない〝下請け〟を安く雇い適当にぶつけて相手の様子を窺っているのだ。

 そして次に打つ一手が見事成功するか、予想通り失敗に終わるか、暇つぶしに賭けようというのだった。

「おいおい、みんな一方だけに賭けてちゃあ成り立たんだろうが」

 誰かが囃し立てるように言った。

 その言葉自体には特に意味もなく、仲間からのそりゃそうだ、という同意と笑いを期待しての発言であった。生きるか死ぬか、一世一代の大勝負というわけでもない、そもそもお遊びでやっている暇つぶしであり、本気で金儲けをしようという者すらいないのだから。

 しかしそんな集団に、

「あれか、大穴狙いの猛者がいないのか。よし――俺が、次の奴らが成功する方に賭けてやろう」

 という酔狂な男が森の中から現れ、加わった。

 しかも、決して少なくない額を提示してみせる。

「おお、本気かよ」

「やるな、お頭」

「よし、俺も乗った」

 その一言をきっかけに、乗りの良い者達が、次々と成功の方に賭けていく。その流れに呑まれて、次の刺客は本当にやってのけるのではないか、と考え込む者まで出てきて、宴会は盛り上がった。

 お頭、と呼ばれた男の声はもう聞こえない。賭けを盛り上げた割に、その後の成り行きには興味がなさそうに、飲んだくれの輪のはじっこに座ってちびちびと酒を啜り始めた。

 作業着の男を助けて撃ち殺した、火傷痕の男だった。

「お頭に倣うぜ。俺もやっぱり、成功する方に賭ける」

「待った、俺もだ――いやいや、待てよ――」

「おお、半々くらいにはなったか? これは楽しめそうだな」

 どうでもいい勝負に、どう考えても勝つ見込みの低い方に投資をしようかと本気で逡巡している部下達を横目で見ながら、

(くだらねぇ――)

 と火傷男は思う。

 そう、この場の誰も気がついていない――男の眼が醒めていることを。酒を飲んではいるが、その精神の方にはどこにも酔いなど回す気がないということを。

 彼はこんなどうでもいいような賭けに勝利するつもりは毛頭ないのだった。

(そうとも――こんな勝負で勝ちをつかむわけにはいかない。そんな勿体ないことなどできん……)

 今に限ったことではなく、彼はこれまでの人生でほとんど〝勝った〟という経験がない。なんらかの勝負事に挑むと、負けるつもりがふとした拍子にうっかり勝ってしまった、という場合以外、この男はいつでも負け続けているのだった。

 しかしそれで卑屈になったり、人生の敗北者だ、と思ったことなどは一度もない。

(運ってのはなんせ、一生のうち一定量しかないんだからな――)

 一人の人間が一生のうちに使うことのできる運には限度があり、永遠に勝ち続けることはできない。それならば――

 つまらない勝負にはわざと負け込むことで、人生のツキを最も相応しい瞬間に備えて〝貯め込んでおく〟という、それが彼の人生哲学であった。

(お前らは目先の勝ち負けにこだわりすぎるんだよ……だからいつまで経っても、こき使われるだけの小者なんだ。それを誰も理解しちゃあいない、うすら馬鹿どもだ――)

 心の中で周囲の人間を見下しながら、異相の男は盃を傾ける。

(くだらねぇ――)

(くだらねぇ――)

(本当に、どいつもこいつも――)


 ……彼の名はハンズ・ウォズニアック。

 誰も本気になどならない勝負事に対してどこまでも冷淡な認識を向け続け、その実誰よりも人生の重きを賭けているこの男が、いつか己の全ての幸運を投げ打って賭けに勝つ日が来るのだとしたら――それはいったいどのような次元の勝負であり、そして勝利なのか。

 その勝利がフランの旅路に何をもたらすことになるのか、この時にはまだ、この世の誰にも想像することはできなかった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る