第40小節目:優しい歌

小沼おぬまくん」


 ……右耳からささやき声が聞こえる。


「おーぬーまーくーん」


 なんだこの極上のASMRは。


 市川いちかわ天音あまね(cv:市川天音)が名指しで起こしてくれるASMRをおれはいつ購入したんだろう……。そして、いつ再生ボタンを押したんだろう……。


 まあ、この体験の中では、そんなの些細ささいなことだ……。


 心地良すぎて目を閉じたままうとうとしていると、


「いや、本当に起きて?」


 一段低い声が聞こえた後、鼻をつままれる。


 ………………ぷはっ。


 口で呼吸をしながら起き上がると、


「あ、起きた?」


 そこには武蔵野むさしの国際こくさいの制服を着た天使の笑顔があった。


「市川さん、今、おれの呼吸を止めようとしてなかった?」


「おはよう、小沼くん」


「お、おはよう……」


 そして、おれの質問は無視されてしまう。この天使はもしかしたらサイコパスかもしれない。


「ほら、準備して! 遅刻しちゃうよ?」


「え、今何時……?」


「8時!」


「8時!?」


 始業は8時30分。


 うちから学校までは1時間半かかるから……もう無理だ。


 よし、どうせ遅刻するなら憧れの朝マックでもしていくか、と諦観ていかんの笑みを浮かべた瞬間。


「急いで小沼くん!」


 と、腕を引っ張られる。


「いや、急いだってどうせ……」


 ……いや? 市川邸ここ吉祥寺きちじょうじか! 急げば間に合う!


 まじで、ここで寝かせてもらって本当にありがたいな……と実感しながら大急ぎで着替えて既に制服を着ている市川と家を出た。


 そして、30分後。


 チャイムと同時に教室に飛び込んだ。


 寝癖をクラスのみんなに笑われた……ということはなかったが、


「あれぇ、同伴出勤だねぇ……?」


 と、目を細めるピンクベージュの髪の女子はいた。


『同伴出勤』、それは、高校生が、意味不明なままなんとなく使っている単語ランキング第2位のあれだ。1位は『重役出勤』。(『重役出勤』は、この間母親に聞いてみたら、母親もよく分かんないまま使ってるって言ってた)


 そんなくだらないことを考えながら、ホームルームの担任の声を聴きながら、おれはそっと目を閉じる。




「たくとくん」


 ……左耳から囁き声が聞こえる。


「たーくーとーくーん」


「……おはようございます」


 今回はそこまで心地よい響きというわけでもなかったのでなんなく起きることが出来た。


「なぁんか失礼なこと考えてるねぇ……?」


 怪訝けげんそうな顔をしている同級生を見る。


「どうした、英里奈えりなさん……?」


「もぉ昼休みだよぉ? だいじょぶ?」


「ああ、うん……」


 伸びをしながら答える。


 さすがのおれも、朝のホームルームから今までずっと寝ていたわけではない。むしろ3時限目くらいまで、頭はスッキリしていた。3時間周期の睡眠が良いとはよく聞く話だけど、5時に寝て8時に起きられたのが良かったのかもしれない。


 それでも、やはりお昼前の陽気には逆らえず、古文の授業がいとをかしで眠りけり、というわけだ。


「ねぇ、久しぶりに、売店デートしよぉ?」


 ……だから、その余計な3文字を付けるのをやめてくれ。


 おれが答えるのを待たずして、英里奈さんはおれの左腕を引っ張って立ちあがらせる。窓際の席の天使をちらりと見ると、なんだか今日は上機嫌らしく、「まあ許してあげましょう」みたいな笑顔を浮かべていた。


 実際、お昼ご飯をどこかで調達する必要があるので、お言葉(無言だけど)に甘えて売店に向かうことにする。


「たくとくん、体調大丈夫ぅ?」


 廊下を歩きながら、英里奈さんが聞いてくる。


「ああ、うん……。ちょっとあんまり寝てなくて」


「うん、さこっしゅも昨日徹夜明けだったみたいだから、聞いたよぉ。レコーディング、なんでしょぉ?」


「おお、そうか。……どうした?」


 英里奈さんがいつになく、しおらしく気遣わしげにこちらを見てくるから、かえって不審だ。


「うぅん……、えりなのために、ごめんね?」


「英里奈さんのため……?」


 数秒『なんのことだ……?』と考えてから、ようやく、その意味に思い当たる。


「そう、だった……!」


「『そうだった』って……?」


 そうだった。『おまもり』は、英里奈さんに届けるために作った曲だった。それを英里奈さんがいつでも携帯できるように、レコーディングをする、というのがそもそもの理由だったはずだ。


「そうだったじゃん……!」


 どうしてそんな大切なことを忘れていたのか。


 ……そして、それを忘れていた理由こそが、最も大切なことなのかもしれない、とおれは気づき始める。


「そうか、だから、おれはずっと……!」

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