第3曲目 第20小節目:イエスタデイ

 あの涙に、あの笑顔に、おれは何が出来るだろうか。




 帰りの電車、腕組みをして目をつぶる。


『えりな、もう無理かもしれない……!』


 結局、ものの数秒だけおれの肩に顔をうずめた英里奈えりなさんが顔を上げた時、その顔にはまたあのにがい作り笑いが貼り付いていた。


『……えへへぇ、なんちゃって! たくとくん、今のところ誰かに見られたら大変だねぇ! ……ごめんねぇ、たくとくん……』


 それから英里奈さんは『もう、行かなくちゃ』とだけつぶやくと駅までの道を歩き出した。


 かけるべき言葉も分からないまますぐに駅に着き手を振ってから今までずっと、おれはたった一つのことだけを考えている。




 そもそも、おれが何かを出来ると思っていること自体がおこがましいのかもしれない。


 何かをしようと思っていること自体が間違っているのかもしれない。


 おれは英里奈さんのなんでもない友人Oオーだし、なんだったらあの市川いちかわ天音あまねとお付き合いさせてもらっている立場だ。



 だけど、それでも。


 英里奈さんの笑顔をあのままにしてこれからを過ごすことを選んだら、きっと、おれ自身が自分を信じることが出来なくなる。


『こんなことになるんだったら『しない後悔』の方が良かった』なんて言わせたままじゃ、あの意地悪いじわるな笑顔を取り戻すための策を何も打たないままじゃ、おれはもはや市川天音の恋人を名乗ることすら自分に許せなくなりそうだ。



『無理するな』なんて言葉じゃ全然ダメだった。


 そんなの、英里奈さんが一番分かってて、それでも誰かの幸せのために、ギリギリのところで頑張り続けて来たんだ。それがきっと彼女の哲学であり、信念だった。


 耳元では、合宿と学園祭で英里奈さんに贈った『ボート』が繰り返し流れ続けている。


* * *

例えば、水面を涼しい顔してすべっていく水鳥も

その足はもがいているように

いつも優しい笑顔のあなたの水面下にも

「本当のこと」がきっとあるんだろう


例えば、ボートを漕ぎ出す最初のその瞬間に

パドルが一番重く感じるように

何度座り込んでも

立ちあがるあなたは

本当はどれほど力を込めてるんだろう


カップルで乗ったら別れるって有名なボート

帰り道のたび、ギュッと手を組んで願う

「強がりなあなたがそれでも いつかはちゃんと報われますように」


本当に言いたいことほど言えなくて

歯を食いしばっては 下唇を噛んで

口にしたら形になってしまう感情が怖いのなら

私は知らないふりをしておくね

あなたのその無理して笑った顔がすごくかっこいいことを


カップルで乗ったら別れるって有名なボート

帰り道のたび、ギュッと手を組んで願う

「強がりなあなたがそれでも どこかで素顔でいられますように」


本当に苦しい時ほど踏ん張って

誰もいないところで ため息をついて

口にしたら形になってしまう感情が怖いのなら

私は知らないふりをしておくね

あなたが心から笑ってる顔を見ると嬉しくなっちゃうことを


「頑張れ」も「大丈夫」も無責任で 言えることは少ないけど

少なくとも1人 ここに味方がいることだけ 忘れないでくれたらいいな

* * *


 本当に何度、おれは彼女に圧倒されて、教えられるんだろうか。そして、何度自分に呆れることになるんだろうか。


 無理しているその人の意志までを尊重そんちょうして、それも含めて後押しをしようというのだ。おれがさっき言った『無理するな』の一言なんかより、何歩も先を行ってる。本当に中学生で書いたのかよあいつ……。




 つまるところ、おれなんかのただの言葉じゃ足りない。到達とうたつできない。





 だったら、英里奈さんに、何を渡したらいい? どうしたら、あの笑顔は戻ってくる?





 せめて、英里奈さんにいつでも頼ることの出来る先があれば、と思う。


 あの無理ばかりする大嘘つきの小悪魔の『頼る』の最大限は、本当に苦しい時にたった数秒だけ、誰かの肩にひたいを乗せることくらいだろう。それ以上の負担を他人にかけることはきっと彼女自身が許さない。




 そんな彼女でも苦しい時に思う存分ぞんぶん頼ることができて、駆けつけて支えてくれて、大丈夫にしてくれる。いくら泣きついても傷つかず、負担にも思わず、関係性が変わることもなく、心を楽にしてくれるような。


 英里奈さんに、そんな存在がいたらいいのに、と。




 そして、おれは一つ、そんな存在に心当たりがあった。




 浮かんでしまえば陳腐ちんぷすぎる解答だし、そもそもおれには他に出来ることなんてないことくらい、最初から分かりきっていたけど。


 それでもおれはこれまで実際にそれ・・に何度も助けられてきた。


 おれにとって、『わたしのうた』がそうだったように、きっと。



『まもなく、一夏町駅ひとなつちょうえきです』



 電車のドアが開いて、おれは一歩踏み出す。



「すまん、市川」


 それでも、決めた。





 おれは人生で初めて、誰かのために音楽を作る決意を固める。


 それは。



 英里奈さんを笑顔にするための音楽だ。





 

 

「おかえりたっくん、遅かったねー? ゆず、1人でご飯食べちゃったよー」


「ああ」


 帰るなり、そのまま部屋へと入っていく。


「うわー、今日ゾーンに入ってる日かー……。いつもいきなりなんだよなー……。ゆずと2人の日ばっかり……」




 ドアを閉めて、ギターを手に取り、ベッドに腰掛ける。


 英里奈さんのために音楽を作ることは決まった。


 だけど、何を伝えればいいんだろう。


 きっと、『無理した笑顔』を肯定こうていし応援するだけなら、既に英里奈さんに向けて演奏したことのあるamaneの『ボート』が一番いいだろう。


 だけど、おれはそれだけじゃないんだと気づく。


 多分おれは、


『この気持ち自体、間違いだったんだ』


 と、寂しそうに呟かれたあの言葉に「そうじゃない」と伝えたいんだ。


 英里奈さんがあれだけぐしゃぐしゃになって、泥だらけになりながらも、それでも大切に持ち続けていたあの愛を、あの恋を、『間違い』だなんて思って欲しくない。


 エゴかもしれない。余計なお世話だという可能性はめちゃくちゃある。


 それでもきっと、その言葉は英里奈さん自身を肯定することになるから。




「よし、じゃあ、やりますか」


 誰かさんが合奏を始める前のようにそっとつぶやいて、試しにいくつかコードをいてみる。



 だけど。



「まあ、鳴らないよなあ……」



 分かってはいたことだった。


 いつもだったら、伝えたい思いが固まったこの瞬間に指が感情をそのまま鳴らして、おれの鼓膜こまくを震わせるはずだ。そういう展開だ。


 だけど、今までみたいにはいかない。




「どんな音なら伝わるんだろう?」




 きっと、初めてそんなことを考えていたからだろう。


 これまでは自分の中にあるものをわめくように、さけぶように、音に変換するばかりだった。自分の思いを伝えるためだけの音楽だったから、自分の頭の中で鳴っている音と出た音が合致していればそれで良かった。


 だけど、この曲は違う。


 この曲は、英里奈さんに伝わらないと意味がないのだ。




 そもそも、よく考えたら音だけで伝わるなんて、おこがましいとも思う。


 英里奈さんがおれの作った曲だけ聴いたって、きっとちんぷんかんぷんだろう。


 そう思うと、もしかしたらおれは、あの察しの良すぎる作詞家に思っていることを伝えるために、この曲を作ってるのかもしれない。


 この音を吾妻に翻訳ほんやくしてもらって、沙子さこにベースを弾いてもらって、そして市川に歌ってもらって、それでやっと、伝わる音楽になる。


 なんて他力たりき本願ほんがんだろうか、と苦笑が漏れる。


 おれはひとりぼっちじゃ、たった1人の心を楽にすることも出来ない。


 でも、もうそんなことどうだっていい。




 だって、おれたちは4人で一つの音なんだから。



 

 自分を吹っ切ったおれは、それでもそのもとを作るために、自分の意識の底にもぐりこんだ。


 一つずつ音を探して、フレーズを探して、拾ってあがり、もう一度潜っていく。


 つなぎ合わせてみたらちぐはぐだったり、不純物が混じっていたりして、時には集めた全部をもう一度ててやり直す。


 丁寧に、一つずつ置いていった音たちはやがて曲のていす。




 それでも、まだ、終わってない。


 楽器を重ねて行く。


 ドラムのタイミング、ギターのフレーズ、すべてに気を遣い、休符までも演奏し、重ねていく。


 少しでも伝わるように、そして、少しでも力になれるように。


 一つずつ、一つずつ丁寧につむいで。


 



 そしてようやく一曲が出来上がった。




「ふう……」


 まずは1人にメールを送ってから時計をみあげると、


「またか……」


 その針は午前4時を指している。


 これは、いつものパターンだな……。



「……あ」


 ふと思い出して、おれは大慌おおあわてでカバンの中に入れっぱなしにしていたスマホを取り出す。


「うわあ……」


 画面には、『天音』から5件の未読通知。


 よく考えたら、3人と別れて学校を出てから今まで一回もスマホを見ていない。


「やばい……」


 戦々せんせん恐々きょうきょうとしながらロック画面を解除すると、ひとつずつメッセージが出て来る。




天音『小沼くん、大丈夫?』20:34


天音『「不在着信」』23:04


天音『おやすみー』23:06


天音『ばか』1:20




「怒ってる……」


 さすがにないがしろにしすぎだよな……。


 いつも12時までには寝ている市川を1時20分まで起こしたままにしてしまった。


『たくとくん、甘えすぎないようにねぇ? 天音ちゃんだって、天使じゃないんだからぁ』


 いや、ほんとその通りだな……。


 そして。


 一番下の一文、最新のメッセージを読んで、おれは吉祥寺きちじょうじ方面に深く頭を下げることになる。







天音『頑張ってね、拓人くん』2:14






 頭をあげて、ふう、と息をついたその時、早朝にも関わらず、電話がかかってきた。


「もしもし……?」


『もしもし、おはよう』


「ああ……おはよう。起きてたのか?」


『「起きてたのか?」じゃないっての。あんた、またこんな時間に音源送って来て……。今何時だと思ってんの?』


「いや、だから、メールにしただろうが……」


 過去に数回受けた『あんたのせいで起きた』という苦情から学習したおれは、通知のないPCメールで送ったのだ。


『小沼からのメールはプッシュ通知が来るようになってんの』


「え、なんで……?」


『……なんでもない、忘れて。あたしは今寝ぼけているので事実とことなることを言いました』


「はあ?」


『と、とにかく!』


 おれのいぶかしむ声をさえぎって、声をあげる。


『……聴いたよ、曲』


「おう、ありがとう」


『まあ、言いたいことはいくらでもあるんだけど、それは明日に回すとして……』


 声音こわねでなんとなく分かる。


 電話の向こうではきっと、器楽部の演奏会以来の不敵ふてきな笑みを浮かべているのだろう。









『バトンは受け取った。あとは、あたしに任せて』

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