第3曲目 第19小節目:Yesterday

「……英里奈えりな、さん……!」


 肩で息をしながらその名前を呼ぶ。


 その人は白い蛍光灯の寂しげなスポットライトに照らされて、夕闇の公園のベンチに一人ポツリと座っていた。


 こちらに気づくと、へらへらと笑いながらこちらに手を振る。


「あぁー、たくとくんだぁー。来なくて良かったのにぃー? ここにいてってうからいたけどぉ。天音あまねちゃんは大丈夫だったのぉー?」


「大丈夫……じゃ、ないかも、だけど、まあ、あとで、なんとかする」


「そぉ? たくとくんに出来るかなぁ……?」


* * *


『だめ、だったよぉ……』


 英里奈さんのその報告を聞いてスマホを耳に当てたまま暗い廊下ろうかに立ち尽くすおれの目線の向こうでは、スタジオの中、部直ぶちょくでスタジオにやって来た器楽部ピアノの一年生、星影ほしかげさんを囲んで、amaneの女子3人が談笑している。


「……英里奈さん、今、どこ?」


 おれの喉から出て来たのは、なぜか生存確認じみた質問だった。


『えぇー? どこってぇ……あれぇ、どこだろぉ? テキトーに歩いてたら、知らないところ着いちゃったぁ……』


「知らないところって……」


 どこか分からないところまでいつの間にか歩いてるということが、いかに英里奈さん自身が茫然ぼうぜん自失じしつしているかを証明している。このままだと危ない気がした。


「周りには何がある? お店とか……」


『えぇーとね、『サイのツノ』っていう、なんだろう? カレー屋さん? があるなぁ……。あ、向こうに公園もあるよぉ』


「……その公園にいて」


『えぇ、たくとくん、来るつもりぃ……? でもぉ……』


「いいから」


 おれは電話を切る。マップで『サイのツノ』を調べてため息をついた。ここ、ほぼとなり駅じゃねえか……。


「小沼くん?」「小沼?」


 2人の声で我に返る。いつの間にか3人は廊下を少し先まで歩いていて、星影さんはどこか他の部室へ行ったらしい。


 おれの顔が相当に切羽せっぱ詰まっていたのだろう。市川いちかわ吾妻あずまが心配そうにおれの顔を覗き込む。


 そして、ただ一人、沙子さこだけが。


拓人たくと、もしかして……!?」


 おれはそっとうなずきを返す。


 沙子のその上がった語尾に、あとの2人も何かを察したらしい。


「小沼くん……、電話、英里奈ちゃん?」


「……ああ」


 おれはこくりとうなずく。


「市川、おれ……」


「うん、行ってあげて?」


 おれの言葉を待たずして市川が微笑ほほえむ。その顔を見て、吾妻が顔をこわばらせた。


 きっと吾妻には、それがちっとも笑顔に見えていないのだろう。……おれにだって、そうだ。


「……まあ、仕方ないよね? 別に英里奈ちゃんとどうこうなろうっていうんじゃないんだし。笑顔で見送らないと、私の度量どりょうが問われるってものだよ、あはは」


「ごめん市川、だけど……」


「……早く行って」


 おれがなおも戸惑っていると、市川はさえぎって、顔をあげて、さっきよりもずっと寂しそうに笑う。


「私がかっこいい女の子でいられるうちに、ね?」


「……ごめん!」


 おれは走り出す。


* * *


「そんでえりなのところに来ちゃうなんて、たくとくんは本当にたくとくんだなぁ……」


 いつものバカにした感じよりはやや嬉しそうに、英里奈さんは笑う。


「あんま言うなよ、おれも結構ビビってるから……」


 えへへぇ、と英里奈さんはもう一度笑ってから、足を投げ出して、




「あぁー! ダメだったなぁー!」




 と大きなため息をついた。


 英里奈さんはなおもへらへらと笑顔を貼り付けたままだ。




「あーぁ、えりなの、大切な、ものは、愛も、恋も、ぜぇんぶ、離れてっちゃったなぁー」


 一文節ずつ、飲み込むように、


「なんで、こんな気持ち、持っちゃったかなぁー」


 一粒だってこぼれないように、


「なんで、こんな気持ち、伝えちゃったのかなぁー」


 一つずつ、爆発しないようにそっと言葉を置いていく。


 そして苦笑いをしながらつぶやく。




「この気持ち自体、間違いだったんだ」




「英里奈さん……」


「『しない後悔よりもする後悔』とかっていうけどさぁ? こんなことになるんだったら『しない後悔』の方が良かったよぉー、あははぁー」


 その笑い飛ばすさまはあまりにもかっこよくて、


「たくとくんと話す前みたいに、健次けんじとさこっしゅがカップルになる未来だけ応援してればよかったなぁ……。そしたら、3人は一緒にいられたのになぁ……。えへへ、そんなこと言っても遅いかぁー」


 だからこそ、その笑顔を見るのはあまりにも苦しかった。


「英里奈さん、あのさ、」


「でもぉ!」


 その強い女の子は、パン、とはずみをつけて立ち上がり、おれの正面に立った。




「えりなは、もぉ大丈夫だよぉ!」




 そして、また両手でピースサインを出してみせる。


「だったら、すごい、けど……」


 ……でも、そうじゃないだろ。そうじゃないはずなんだ。


 英里奈さんの笑顔はこれじゃないはずなんだ。


 意地悪にニターっと笑う顔でも、たまに見せる聖母みたいな微笑みでもいい。


 だけど、こんな貼り付けたような苦しい笑顔じゃないだろ。



 思うことはいくらでもあるのに、言葉にする方法の分からないおれに、英里奈さんは話を続ける。



「ねぇねぇたくとくん! 次に好きになるの、誰が良いと思うー? えりなの隣を歩くんだったらイケメンは必須条件だよねぇ!」


『その条件が好きなんじゃなくて、その人が好きなんだから』『だからこそ、その人じゃないとダメなんだけどねぇ……』


 英里奈さんのつい昼休みの言葉がふとフラッシュバックする。


「次にって……?」


「次は次だよぉ! もぉ健次のことなんかあきらめるよぉ! 恋は別の恋で忘れるのが一番! だってさぁ、健次はえりななんか全然タイプじゃないんだもん!」


『見た目とか性格とかで、有利とか不利とかはあるとは思うんだけどねぇ、だけど、それを理由に諦めたり出来ないから、好きってことなんだと思うんだよぉ』


「そしたら、きっとまた仲良しになれるでしょぉ? えりなは健次のただの女友達で、バンドのただのマネージャーで、それだけ!」


『えりなは、何をどうしても、健次の特別になるんだ』


 その蠱惑こわく的な嘘でいつも人をからかって、たのしんでいる小悪魔さんにしちゃ、嘘が下手へたすぎる。


「あとね、あと、ねぇー……」


「英里奈さん、無理、すんなよ……!」


 何かをこらえるように空を見上げて笑っている英里奈さんに、これ以上こんなに苦しい嘘を重ねさせたくなくて、そんな言葉がついて出た。


「……えぇー? 無理なんか、してないよぉー?」


「してるだろ……」


 おれには表情を読む力なんかありはしないけど、それくらいは分かる。


「英里奈さん、前向けないときは、前なんか向かなくたっていいんだよ。こんな、一番きつい時くらい、頑張るなよ、無理するなよ」


 思ったことが次々と、喉から這い上がって来る。


 でも。



 その言葉を聞いた英里奈さんはすぅっと真顔になった。







「……無理しなかったら、何か変わるの?」






「……え?」


 そのあまりにも温度の低い英里奈さんの言葉に、身体が固まる。


「えりながここで無理しないで子供みたいにわんわん泣いたら、こんなに苦しいのはなくなるの? 健次と付き合えるようになるの? さこっしゅに何も嫌なこと思わないでいられるの? 3人仲良しのまま、ずっと一緒にいられるの?」


 ふぅ、と小さくため息をつく。




「みんな幸せになれるの?」




「それは……」


 そんなはずは、ない。ないけど……。




「ほらね……?」


「ごめん……」


 謝ることしか出来ないおれの前で、もう一度英里奈さんはへらへらと笑顔を作る。




「だから、ね。無理はするよぉ? 『無理して笑った顔がすごくかっこいい』んでしょぉ?」




 英里奈さんは、こんな風に、どれだけのことを無理して乗り越えて来たんだろう。




『好きな人が幸せになる時のこと考えたら、考えるだけでさぁ、もう、どうしたらいいか分からないくらい胸が痛くなるんだよぉ』


『だけど、好きな人の幸せを願えないなんて、それは『恋』かも知れないけど『愛』じゃないじゃんかぁ? 絶対』


『たくとくんの幸せは、もう、たくとくんのものだけじゃないってこと!』


『ゆり、ちゃーんと幸せになれると良いよねぇ?』


『えりなの大親友を悲しませたら、許さないから』




 いつだって、この嘘つきの悪魔は、自分のことばっかり考えているようなフリをして、みんなが幸せになる方法ばかり考えてる。



 でも、だったら。



「じゃあ、英里奈さんは無理し続けるのか……?」




 英里奈さんの努力をふいにしかねないそんなおれの言葉に、その作り笑顔が急速に崩れそうになる。


 その瞬間、英里奈さんはその顔を隠すようにおれの肩口に、ぽすっ、と顔をうずめた。

 


「ねぇ、たくとくん……?」




 だけど、もう。


 涙でかすれたその声が。


 じんわりとおれのシャツに染み込むぬるい水滴すいてきが。


 その言葉こそが嘘なんかじゃなく真実であると、物語っていた。





「えりな、もう無理かもしれない……!」

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