第68.3小節目:Clean

 昼休み。


 昨日の放課後の練習時に、スタジオに置きっ放しにしてしまったスティックを取りに、ロック部のスタジオに向かう。


 ていうかおれ、スティック忘れすぎだなあ。気をつけないと……。前回スティックを忘れた時の苦めの思い出を奥歯で嚙み殺しながら廊下を進み、スタジオまで到着した。


 スタジオの電気がついているから、誰かが練習をしているのだろう。


 それにしてはドアについた窓からは人の姿が見えないけど……。


「すみませーん……」


 一瞬失礼します、とのつもりでスタジオのドアをガチャリと音をたてて開けると、


「ひっ……!」


 なぜかスタジオの真ん中でしゃがんでいた小動物後輩が肩をビクつかせてから、ゆっくりこちらを向いた。


「お、小沼せんぱぁい……」


 平良ちゃんは、涙目なみだめ顔面蒼白がんめんそうはくになりながら、すがるような声を吐く。


 どうしたんだ、と思って様子を観察すると。


 その絨毯じゅうたん敷きの足元には、CD一枚分くらいの黒いシミ。


 そして、その手元にはプルタブの開いているカルピスウォーターの缶。


「……カルピスこぼしたの?」


「はいー……練習の合間に水分補給しようと思ったら手がすべってしまって……」


 シュンとうつむく平良ちゃん。


「ギターとか制服にはかかってないか?」


「はい、しっかりばっちりけました……。その俊敏しゅんびんさがあるなら元々こぼすなって話ですよね……」


「いや別にそんなこと思ってないけど……。とりあえず良かった」


 楽器にかかると大変だからなあ。アコースティックギターは言わずもがな楽器自体に悪いだし、エレキギターの時は回路にまで侵食してないかを確認する必要もあり、めっちゃ骨が折れる。


「……先輩、怒らないのですか?」


「いや別に、おれ平良ちゃんのお母さんじゃないし。まあでも、ペットボトルにすれば良かったのに。どうしてわざわざ缶なんてこぼれやすいものを……」


 というかそもそも歌う人の水分補給がカルピスみたいな糖分の多い飲み物っていうのも微妙なところである。それこそお節介せっかいだから口には出さないが。


 すると、平良ちゃんはもじもじと両手で缶をさわさわしながら、言いづらそうに告げる。


吾妻あずま師匠ししょうの教えで、カルピスは缶で飲むべきだと……」


「はあ、そうですか……」


 うん、さすが青春部部長、こだわりポイントが意味不明過ぎる。そういえばロックオンのあとにおごってくれたカルピスも缶だったな。


 とりあえず、おれもシミをよく見てみようと、平良ちゃんのそばにしゃがんだ。


「こりゃ結構大きいシミになっちゃったな……」


「あのあの、これを天音あまね部長がご覧になったら、とーってもおいかりになりますよね……?」


「そうなあ……」


 こぼしたこと自体というよりは、缶で飲み物を飲んでいたことに対して何かを言う気はする。あの沙子さこだって、いつものパックのジャスミン茶はこぼれる可能性があるから飲み物は飲まないようにしてるくらいだ。普通にペットボトル買えばいいのに。


「ど、どうしましょう……?」


「調べてみるか」


 ポケットからスマホを取り出そうとすると、


「あ、検索は自分の担当なのでっ! すぐ調べますっ!」


 そう言って、平良ちゃんはスマホをしゅばばっと操作し始める。


「『じゅうたん 染み』……あっ出てきました! 必要なのは、ぬるま湯とタオルとスプレーボトルとティッシュペーパーと中性洗剤……。ううっ、学校で見つけるのはとっても困難です……!」


「用務員さんに頼むしかないな……。昼休みの間にかたけよう」


「分かりましたっ! それでは、自分は用務員室に行って参りますっ!」


 そう言ってふんっと平良ちゃんが立ち上がる。




 その瞬間。




「失礼しまーす、誰かいますか?」





 と、りんと透き通った声がする。


 振り返ると、市川部長がスタジオの扉を開けていた。


「おお!?」


 やばい! シミがバレる!


 とっさの判断で、おれはシミを隠そうと、その上に尻もちをついていた。うひゃー、おしり冷たい……!


「お、小沼先輩!?」


 おれの行動を見て、平良ちゃんが甲高かんだかい声で叫んだ。


「お、おう、市川。ちょ、調子はどうだ? 元気か?」


 うん、我ながら誤魔化ごまかし方下手へたくそすぎですね……。さっきまで同じ教室で元気に授業受けてたじゃないですか。


「元気だけど……これはどういう状況、かな?」


 市川が戸惑とまどったような声をあげる。


「あ、いや、別に、ちょっと平良ちゃんと音楽界の未来について語らっていただけだよ。なあ、平良ちゃん?」

 

 話を合わせてもらおうと、そのままの姿勢で首を真上に向けると……。


「ちょっとちょっと、小沼先輩、こっち向いちゃダメですっ!」


 スカートの前をおさえて顔を真っ赤にしている平良ちゃんを下から見上げる形になった。


「ご、ごめん!!」


 やばい! 思ったよりも近くにいた! ……見えそうだった!


 サッと、頭を元の位置に戻す。


 すると、シラーっとした目つきの市川部長と目が合う。うわー、上は洪水、前は大火事だあー……。


 怒っているというよりはなんだか引き気味の市川。久しぶりにその引き顔見たかもしれん。


「……どうぞ、ごゆっくり」


 市川は不愉快そうに目を閉じて、目当てだったらしい自分のギターケースを手に取ると、やや大きめの足音を立てて立ち去っていった。あちゃー……。


 市川を見送ると、平良ちゃんがおれの前に来てしゃがむ。


「小沼先輩、すみません……。先輩をとんでもない変態さんに仕立て上げてしまいました……」


 申し訳なさそうに謝られる。


「あ、いや、おれこそすまん……」


「い、いえ、自分の為にしてくださったことなので……」


 そこまで言ってから、頬を紅潮こうちょうさせて、やや横を向き、目線だけをこちらにくれた。


「あ、あの……、み、見えましたか?」


「み、見えてない!」


 恥じらう声におれはシャキッと背筋を伸ばして弁解する。


 というか、今のこの視線の高さで前にしゃがんでいるこの状況の方がよっぽど見えそうで、おれはそっぽを向く。


「ま、まあ、市川には転んだなりなんなり、あとで言っとくわ。とりあえずシミの件はバレなくて良かったな」


「そんなことより、先輩のズボンにシミがついてしまったのではないですかっ?」


「いや……まあいいのではないですか?」


「よくないですよー……! 普通の優しさじゃないです、先輩……!」


 泣きそうな顔で反省する平良ちゃんを「まあまあ」とあやして、二人立ち上がる。


「何はともあれ、用務員室に行こう」


 ということで、とりあえずのカムフラージュとして近くにあったギターアンプをシミの上に移動させて、二人で用務員室に向かった。


 用務員室で平良ちゃんは「ぬるま湯とタオルとスプレーボトルとティッシュペーパーと中性洗剤を貸していただけますでしょうかっ?」と言ったのだが、用務員さんは「これでいい?」と、専用のシミ抜き(『ステインリムーバー』とかいうらしい。技名かよ)を貸してくれた。便利なものがあるものですねえ……。




 早速スタジオに戻ってステインリムーバーを使うと、いとも簡単に、染みステイン除去リムーブすることに成功する。


「良かった、現状復帰だ……!」


 ふう、とひたいぬぐうと、横で平良ちゃんが深々と頭を下げた。


「本当に本当にありがとうございます……!」


「いやいや、そんなに頭を下げるほどのことでは……」


 おれが手を振ると、平良ちゃんは、グーを自分の口元にあてて、また頬を赤らめながら、


「あのあの、小沼先輩、どうして自分にそんなに優しくしてくださるのですか……?」


 と瞳を若干じゃっかんうるませながらいてくる。


「いや、別に、優しくって言うか、あの場で立ち去らないだろ普通」


 むしろそんなに冷血漢れいけつかんだと思われてたの?


 眉間みけんにしわを寄せるおれになおも熱い視線を送ってくる平良ちゃん。……なんぞ?


「も、もしかしてなのですが、小沼先輩は、自分のこと……? それはそれで完全にナシではないのですけど、師匠に申し訳が立たないというか、あの……」


「はあ?」


 まじで何を言ってるんだこの後輩。


「自分自身も、突然すぎて心の準備も出来てないですし、自分自身はそう言った気持ち自体を知らないもので……でも、先輩がそのおつもりなら真面目に考えてみないと失礼かな、なんて思ったり……」


 ……はあ。おれは深くため息をつく。


「平良ちゃん、また暴走してる?」


 思い込みが激しいのはこの子の悪いところだ。


 おれはジト目を作って平良ちゃんを見る。


 すると、キョトンとした顔で1、2、3、4、5秒ほど目を合わせたあと。


「…………はっ!」


 平良ちゃんが気づいたように声をあげる。


「自分、今、かなりかなり恥ずかしいことを申し上げましたね!?」


「そうなあ……」


「わわー、なんてことを……!」


 くしくしと前髪を両手の指先で動かしながら、さっきよりもさらに頬を赤くする平良ちゃん。その動きはハムスターの毛づくろいを想起させる。


「……せ、先輩って、妹さんいますよね?」


 やがて、恥ずかしさを誤魔化ごまかすように関係なさそうなことをたずねてきた。


「ああ、まあ、いるけど……」


「な、なるほど、理解しましたっ!」


 パシン、と、手を打つ。


「自分は、先輩の妹さんがうらやましいです! 先輩みたいな優しいお兄ちゃんがいたら、幸せですねっ!」


 そう、平良ちゃんは、はにかんだように笑うのだった。






 ちなみに、このあと、2年6組の教室に戻ると。


「あれ、小沼くん、おしりにシミ……? ああ、さっきのはそういうことか……。名誉めいよ負傷ふしょう、だね?」


「いや、市川さん、さっし良すぎじゃない?」





 さらにちなみに、その日、家に帰ると。


「今日話した後輩がゆずのこと、おれみたいな優しいお兄ちゃんがいてうらやましいって言ってたよ」


「はあ? ズボンにこんな恥ずかしいシミを付けてくる兄の何が羨ましいの? その人頭大丈夫? たっくん、自分でクリーニング持って行ってね?」

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