第2曲目 第65小節目:border

「はあ、はあ……」


 目の前では、市川が息を切らしている。


「えっと、走って来たのか……?」


「そう、だけど……」


 まだ理解が追いつかない。どうして沙子じゃなくて、市川が?


 っていうか。


「市川、先に帰ったんじゃなかったのか?」


 おれがそう訊くと、市川はムッとした顔になって、


「これ!」


 と右手を突き出してくる。


「んん……?」


 見ると、その手にはおれがスタジオに忘れたスティックが握られていた。


「これ、取りに来ると思って、ずっとスタジオで待ってたのに、小沼くんが勝手に先に帰った!」


「あ、いや、おれは市川が帰ったと思って……」


 というか、スティックのことはすっかり失念していた。


「それなら、ラインとかしてくれたらよかったじゃん!」


「はあ……?」


 それは市川だって同じなのでは……?


「ていうか、そんなん出来るような雰囲気でもなかっただろ……」


「そんなの出来るような雰囲気じゃなくしたのは、小沼くんだよ!」


 頬を膨らませてにらんでくる市川に、おれは、それもそうだと頬をかく。


「……えっと、スティック、ありがとう」


「うん、別に、いいけど……はい、どうぞ」


「どうも……」


 こちらが態度を改めると市川も少しトーンダウンしたのか、存外素直にスティックを手渡してくれる。対して受け取る動作さえもなんだかぎこちなくなっている自分が恥ずかしい。


「えーっと……」


「沙子さんなら、来ないよ」


 おれが言おうとしたことを先回りして、市川はゆっくり首を横に振った。


「なんで?」


「私は、沙子さんからそのスティックを預かって来たんだ」


「……そっか」


 そこに至った経緯はよく分からないが、とりあえず、『仲直りしろ、バカ拓人』というメッセージだけはひしひしと伝わって来た。


 そのスティックの重みをたしかに感じながら、大事にカバンにしまった。


 よし。


「……なあ、市川」「……ねえ、小沼くん」


 と、なかなか覚悟を決めて会話を切り出そうとした割に声がかぶって、


「「あ、どうぞ」」


 また、ハモってしまう。


 なんだこれ、恥ずかしいな……。


 見やると、市川も唇をむにゃむにゃさせて頬を紅潮こうちょうさせている。


「えっと、あの、市川?」


 ……よかった、ハモらなかった。


「な、何かな?」


「あの……今回のことなんだが……」


「う、うん……」


「おれ、まだ、謝ることが出来ない」


「……へ?」


 市川の顔がけわしくなる。


「それは、どういう意味……?」


「なんというか、多分、おれが悪いんだろうな、ってことはなんとなく分かってるんだけど、本当におれが悪いのかよく分からないのと、なんでこんなことになっちゃったのか、よく分かってなくて」


「はあ……」


 呆れるような、それでいて拍子ひょうし抜けしたような顔をしている市川に、おれは続けた。


「昨日からずーっと考えてて。色んな人に叱られたり、さとされたりして、それでも一向いっこうに答えが出ないんだ」


 謝ることは出来ないけれど、少なくとも、誤解が生まれないよう、言葉を尽くして説明することにする。


「えっと、だな。モヤモヤってし始めたのは、徳川……さんと会わないように市川が変な経路を通ってスタジオに行こうとした時。そのあとしばらくモヤモヤしてて、吾妻にも忠告されたし、英里奈さんにも忠告されたんだが、いや、あれはからかわれただけかな……。まあ、とにかく周りに色々言われてもなんのことかも分からないまま、まあ、今も分かってないんだけど、昨日の放課後にな、徳川さんに市川が呼び出されたって聞いた時と、ロック部のスタジオを徳川さんと市川で使うって聞いた時に、なんかカッとなっちまったっていうかモヤモヤが爆発したっていうか……。ていうかあれ、昨日か。ほとんど寝てないからなんかすごい前のことみたいに感じるな……。んで、なんとなく今、沙子を待ちながら立った仮説はあって、それが一番近そうではあるんだけど、まだ論拠ろんきょが固まってないっていう感じかな……あれ、市川?」


 ひとしきり話していても反応がないのでなんだか不安になって見上げてみると。


 目の前で市川が、嬉しそうに微笑んでいた。


「……何、笑ってんだよ」


「別に?」


 おれはついついまゆをひそめる。


「そんなにたくさん、わた……、そのことばっかり考えてたの?」


「だからそうだって……」


「目の下にそんなクマまで作って?」


 ぐいっと顔を近づけて来る市川に、つい目元を手で隠す。なんだこれ、合宿の朝などの寝起きすっぴんの時に『……じろじろ見ないで』って頬を赤らめる女子かよ。(想像上の生き物)


「いや、別にこれは副産物っていうか、クマを作ることを目的としたわけじゃ……」


「あはは、当たり前じゃんそんなの」


 市川は優しく微笑んだあとに、


「徳川先輩からの用事、なんだけどね」


 手を後ろ手に組んで、突然そんな核心めいた話をし始めた。


「お、おう……」


 対するおれは、自分でも可笑おかしくなるくらい身を固くして、それを待つ。




「もう一度、告白、してもらったよ」




 その一言を聞いた瞬間、心臓がギュッと掴まれる感覚が走った。


 やっぱり、もしかして……?


「そ、そそ、それで……?」


 いや、どもんなよ、おれ……。自分で自分に呆れながらも、市川の表情をうかがう。


「お断りしたよ」


 一瞬、胸をなでおろす。


「それは、どうして……?」


「どうしてって……」


 市川は少しだけ覚悟を決めるように、呼吸を整えてから。


「た、多分、私も小沼くんと同じ気持ちだから、だと思う……」


 顔を真っ赤にして、瞳を潤ませて、市川はそれでも告げた。


「そっか……」


「……うん」


 どこか近くの木で、少しだけ季節外れのひぐらしがカナカナと鳴いている。


「やっぱり、おれも、そうだったのかな……」


「そう、って……?」


 期待するような目で市川がおれの顔を覗き込んでくる。


 うん。そうなんじゃないかとは思っていたんだ。





「……学園祭直前のこの大切な時期に、恋愛にかまけてる場合じゃないだろ、って思ったんだよな?」





「……………………は?」


 市川が急に怪訝けげんな顔つきに変わる。


 よほど動揺どうようしたらしい。驚愕きょうがくするように目を見開いて、それから憤慨ふんがいするように顔を真っ赤にしたかと思うと、やがて溜息ためいきをついて呆れ返り、やがてその表情からは感情が消失しょうしつしてしまった。


「あの、市川さん……?」


「沙子さんごめん、私が間違ってた……」


 学校の方向に軽くお辞儀すると、はぁー……ともう一度盛大にため息をつく。


 腕を組んで、おれを見上げた。


「えーっと、小沼くんの気持ちは、それだってことなんだね……?」


 市川は片眉をあげる。


「ああ……うん」


 ……ごめん、市川。


「この大事な時期に告白とかされて、悩んだりして、時間取って、市川はそれこそ感情が動きやすいんだから、演奏にも影響出るかもしれないだろ? だから、そんなのに応じてる場合じゃないだろって……市川?」


 その美少女は絵になるジト目でこちらを見ていた。


「……自分だって色んな女の子と仲良くしてるくせに」


「はい……?」


 市川がにらんでくる。


「じゃあ、昨日お早く帰宅なさった小沼さんはさぞかし練習がはかどったんでしょうね?」


 そのまま、また顔を近づけてくる。


「い、いや、はかどってないけどだな……」


「あれあれ? どうして? 言ってることに矛盾むじゅんがあるような気がするんだけど?」


「いやだから、それは、」


 近い近い……、おれは目をそらしながら、突如とつじょのドキドキに耐えかねて、考えなしに次の一言を発する。


「市川のこと考えてたからだろ」


「〜〜〜〜〜!」


 市川が声にならない声を出しながら頬を赤らめる。


「小沼くん、そういうとこだよ!」


「どういうとこだよ……?」


誰彼だれかれ構わず、そんなこと言ってるから小沼くんは小沼くんなんだよ!」


「はい……?」


 もー……と軽く頬を膨らませてこちらを見てくる。


「……まあ、小沼くんが、学園祭前に告白とかするなっていう、ムードもへったくれもない人だっていうことは分かった」


「ムードとかじゃないだろ……」


 ていうか、自分がそういう気持ちだって言ってたんじゃん……。


「……じゃあ、さ」


 市川はそっと上目遣いで問いかけてくる。


「当日は?」


「と、当日……?」


 不意に見せられたその蠱惑的こわくてきな表情に、おれはついつい言葉を失う。あわあわとしている間に、市川は小さく息をついて、一人うなずく。


「私、決めた」


「何を……?」


 コロコロと話が変わって戸惑っているおれを差し置いて、市川はスゥーっと息を吸った。


「何があっても、学園祭で、新曲を歌う」


「……そっか」


 だけど、その姿はおれがいつか憧れたシンガーソングライターの顔つきそのもので。


 やっぱり、amaneはかっこいいな、と妙な感慨かんがいがあふれてくるのだった。おれは、こんなにも情けないのに。


 夕陽の空を見上げながら、ふふっと一息笑って、


「ん」


 市川が右手を差し出してくる。


「ん?」


「仲直りの握手」


「ああ……」


 おれも、その手をそっと握り返した。


 その瞬間。


「ちょっ……!?」


 おれの右手がぐいっと引っ張られる。


 おれの耳元に、市川の唇が触れそうなほど近づいて。


「だから、学園祭、覚悟しててね?」

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