第2曲目 第66小節目:カブトムシ

「ただいまー」


 家に帰り着いてリビングに行くと、


「おかえりたっくん! 待ってたよ!」


 シャワーを浴びたのだろうか。髪を濡らしてテレビを見ていたゆずが振り返ってそう言う。


 なお、『待ってたよ!』なんて言われると非常に健気けなげでブラコンな可愛い妹という感じがするが、そういうことではない。


「遅いよ! お腹すいたよ!」


「はいはい、ごめんごめん……」


「『はい』も『ごめん』も一回でいい!」


 お腹が空いたら不機嫌になるとか、子供かよ……。


 共働きの両親は夕食の時間には家にいないことが多く、そういう日にはおれとゆずが交代こうたいで夕食を準備することになっている。


 昨日はふて寝しているおれをほうってゆずが自分で作ったため、今日はおれの番というわけだ。


「今日は何にしますかねー……」


 と、冷蔵庫を開ける。


 何か足りないものがあれば買いに行かなきゃいかんなー……。


 駅で買い物をして帰ってこないこの無計画な感じがいつも夕食の時間を遅くしてしまう原因なのだが、


「ゆーずーはー、おーなーかーがーすーいーてーるーよー」


 いつの間にかキッチンまでやってきて冷蔵庫の脇からジーッとおれを見ながら謎の呪文じゅもんをかけてくる育ちざかりの妹からのプレッシャーをかんがみると、何がなんでも、今あるもので最短で作る必要がありそうだ。でもご飯炊いてないし、なんかあるか……?


「……お」


 すると、冷蔵庫のはしっこに、一つちょうどいいものを見つけた。


「……今日は、焼きそばにするか」


「おー、いいねー!」




 ということで、ちゃちゃっと焼きそばを作り、ゆずと一緒に食べた。


「ごちそうさまーたっくん」


「ほい、おそまつさま」


 おれはキッチンの流しに食器を持っていく。


「ゆず。おれ、ちょっと出かけてくるから」


「ほえ? どこに?」


 すごい速さでテレビの前に戻っていたゆずが口をぽかんと開けてこちらを見る。


「ちょっと、そこらへん」


「何しに?」


「……借りたものを返しに」


「……そか」


 そううなずくと、ゆずは立ち上がり、リビングから出ようとするおれの背中を両手でポンポンと叩く。


「ちゃんとだよ、たっくん」


「……おう」




 外に出ると、9月の夜風が少しだけ肌寒い。


 っていうか……。


「おっす、拓人」


「いや、おれが迎えにいくつもりだったんだが……」


 玄関の明かりが届かない少し暗がりになったところに、ショートパンツにチャックのないパーカーを羽織はおった沙子がパーカーの大きなポケットに手を突っ込んで立っていた。




 近くの公園に場所をうつす。


 チカチカと音を立てる古ぼけた蛍光灯。


 その脇にたたずむ木のせたベンチに並んで座る。


 沙子はパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、ベンチの左側、蛍光灯に近い方を選んだ。おれからだと逆光になって、沙子の表情がよく見えない。


「どうしたの、珍しいじゃん、拓人が呼び出すとか」


 沙子の声は、少しかすれていた。


「今日、スティック受け取った。……ありがとう」


「別に」


 頬をかきながらも伝えた言葉は、すげなく返されてしまう。


「で、どうなったの」


 こちらを見てくる沙子の表情は、ハッキリとは分からない。


「うん、おかげさまで、ちゃんと仲直り出来た」


「そっか」


 コクリと、うなずいて、


「……仲直り、だけ?」


 と、珍しく語尾を上げて質問をしてくる。


「……そうだな、仲直りだけ」


 おれは、静かにうなずいた。


「拓人はさ、」


「ん?」


 沙子はすらっと伸びたの脚の先にある爪先つまさきを見つめながら、続ける。


「拓人は、鈍感どんかんだし、バカだけど、」


 一呼吸ひとこきゅうだけ置いて、


「ちゃんと、分かってるんでしょ」


 と、確信めいたように問いかけてきた。


「そう、だなあ……」


 吾妻にも言われた通りにもつかないおれは、せめて誠実であることを選ぶ。


「ごめん、それでもまだ、本当のところは、よく分かってないんだ」


 沙子は、小さく首をかしげる。


「色んな可能性を考えた。考えて考えて、今もまだ考えてる。もちろん、その選択肢はしぼられてきている。だけど、まだ、たった一つの正解が分かってない」


 ふう、っと息をつく。


「自分が何を考えてるのかが、まだよく分からないままなんだよ」


 一つ、一つ、たしかなことだけを、伝える。


「だから、それがちゃんと分かるまでは、それを口にすることも言葉にすることも、出来ない」


 だって、


「その言葉一つで、全部、くしてしまう可能性があるから」


「……そっか」


 沙子はゆっくりとうなずいてくれる。


「でも、一つだけ」


「なに」


 おれは、幼馴染に向き直る。


「沙子がくれた覚悟と優しさだけは、分かっているつもり、だから」


 沙子が少しだけ息を呑む。


「……だったらなんで、わざわざ追い打ちをかけるようなことすんの」


「お、追い打ち? ま、まじで?」


 予想外のことを言われて、つい、どもってしまった。


「まじで」


 そんなつもりはなかったんだが……。


 狼狽ろうばいしているおれが可笑おかしかったのだろうか、沙子が「あはは」と声を出して笑った。


「ん……!?」


 ていうか、沙子が声を出して笑ってる……!?


「冗談冗談。拓人のことだから、うちとのこと有耶無耶うやむやなままで、その先に進んじゃいけないとでも思ったんでしょ」


「……はい」




「うちと先に話さないと、って思ったんでしょ」




「……うん」




 神妙にうなずくおれを見て微笑むように吐息といきを漏らしてから、


「大丈夫だよ、拓人。あのキスは、そう言うんじゃないから」


 ときっぱり言い切った。


「あれは、うちの憧れた拓人が、しょぼくなってるのを見たくなかっただけ。あと、単純に曲が出来ないと困るし。でも……」



 沙子は顔だけこちらを向く。




「そんな風に拓人がなったんだったら、作戦成功、だね」




 表情は分からないままだけど、多分沙子は笑っているのだろう。


『これでもう一生、拓人は、うちのこと忘れられない、でしょ?』


「作戦、か……」


 だとしたら本当に、間違いない。


 おれはあの花火大会のことを、生涯しょうがい忘れることはないだろう。

 

「それにしても、」


 沙子も夜空を見上げながら、呆れ笑いを漏らした。


「自分の気持ちが分からなかったら、うちと話したって、どうせその先にはいけないじゃん」


「いや、それはそうなんだよなあ……」


 おれもつられて笑う。


「多分、市川が新曲の歌詞を歌えないのも、同じような理由なんだろうな。実際、どんな内容の歌詞なんだろ……」


 そうおれが言った瞬間に。


 沙子のおだやかな笑いがピタっと止まった。


「……は、そこはまだ分かってないの」


 沙子が首をかしげる。


「ん? うん。え、沙子は分かんの?」


「分かるっていうか、今日、聴いたから」


「……まじ?」


「まじ」


「なんだそれ!」


 おれはお手上げをして夜空をあおいだ。


 沙子もポケットに手を突っ込んだまま、同じように上を向く。


どっちも・・・・分かってるのかと思ったら、結局どっちも・・・・分かってないんだ。拓人は、やっぱり、鈍感だしバカだね」


「そうなのかあ……」


 沙子がそういうのなら、もう、本当にそうなんだろう。 


「……沙子は、本当にすごいな」


「何が」


「自分の気持ち、ちゃんと分かって、それを行動に起こす勇気があって」


『『憧れに手を伸ばす』んだったら、これくらい本気でいかないと、だよ。拓人?』


 おれが沙子の立場だったらうじうじと考えて悩んで言い訳を作って、結局成し遂げられないようなことを、おれは沙子からもらった。


「そんなんじゃなくて……ただ、もう、抑えきれなくなったって、それだけ」


「それでも……すごいよ」


 おれが姿勢を正してそうつぶやくと。


「……じゃあ、もっと褒めて?」


 と、おれの顔を覗き込むように、身体を曲げる。


 その沙子に、ピカチュウのお面をかぶったあの女の子が重なって見えたような気がした。


「……沙子は、すごいよ」


「上手くやれてる?」


「上手くやれてる」


「かっこいい?」


「かっこいいよ」


 普段からは考えられないほど沙子の語尾が上がるものだから、おれはその一つ一つに重みを付けて返す。


「拓人は、そしたら……」


「ん?」


「……ううん、なんでもない」


 それでも、最後に言いかけた言葉だけは、沙子の口から出てくることはなかった。


「ねえ、拓人」


「どうした?」


 しっとりと、しっかりと、沙子は覚悟を決めたように言葉をつむいでいく。


「多分、これから先も結構大変というか。辛いことも、痛いことも、苦しいことも、たくさんあると思うんだけど、」


「うん?」




「それでも、うちは拓人に出逢えてよかったって、そう思う」




 そういうと、沙子は大きなポケットからピカチュウのお面を取り出した。


 ……ずっと、大事に、持っていたのだろうか。


「だから、拓人、」


 沙子はピカチュウのお面を顔の前にかかげて、表情を隠した。




「あの日、うちのことを見つけてくれてありがとう!」




 震えるその声に、本当は最初から気づいていた腫れた赤い目に、せたベンチの座面にシミをつけるしずくに、おれは気づかないふりをする。


「おれのセリフだろ、それは……」


 どうにか絞ったおれの声を聞いた沙子は、お面ごとおれの肩に頭を乗せた。


「……今までありがとうね、拓人」

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