第2曲目 第64小節目:うつし絵

「……………………きす?」


 時間が止まってしまったのかと思うほど完全に固まった市川さんがなんとか声を発したのは1分後くらいのことだった。


 裏返った声がいい気味だ。


「そう、キス。しかもファーストキス」


「えーっと……、ごめんね、すっごく混乱してるっていうか……、え、どういうこと、かな? ていうか、いつ……? あ、小さい頃にふざけて、みたいな! そういうこと、だよね……?」


「違う」


 首を振る。


「あ、じゃあ間接キスを沙子さんが拡大解釈してそう言ってるとか、そういうこと、かな?」


「違うんだけど……」


 動揺してるのは分かるけど、それにしても失礼が過ぎる……。


「それじゃ……?」


「先月のことだよ。正真正銘しょうしんしょうめいの、ファーストキス」


「は、はあ……先月、ですかー……」


 腰が抜けてしまったらしい市川さんはへたへたとその場に座り込む。……あんたは、そんなところで腰抜かしてる場合じゃないんだけど。


「それは、小沼くんも合意の上でって、ことだよね……?」


「……」


 微妙に痛いところをつかれて、黙秘権もくひけん行使こうしする。


「あれ? えーっと、じゃあ、沙子さんは、小沼くんと付き合ってるの……?」


「……付き合っては、ない」


 だけど、大事なところはちゃんと答える。それを隠すことは、目的・・に反するから。


「うちがキスしても、まだよく分かってないって、言ったじゃん」


「あ、そっかー……え、それで分からないとかある!?」


 さっきまでとは別ベクトルで市川さんが眉間みけんにしわを寄せて、理解が追いつかないといった顔をした。


「そうなあ……」


 まあ、うちがそこに込めた想いは、そういうことじゃなかったから、いいんだけど。


「で、市川さん」


 声が震えたりしないよう、お腹に力を入れて、とっておきの質問を繰り出す。


「今、どんな気分」


 へたり込んでいる市川さんに上から目線で問いかけると、上目遣いで可愛く頬を膨らませた市川さんは、言った。


「……すっごく嫌な気分」


 どこまでも正直な人だと、そう思う。


 そういうところに、少なからず好感を持ってしまうのは、憧れを持ってしまうのは、どうしてなんだろう。


 もしかしたら、うちとあいつは、育ちが近いから、そんな、似ても仕方ないところまで似ちゃったのかも知れない。




 ……はあ。




 これを言ってしまったら、もう、引き戻せなくなるかも知れない。


 怖い、苦しい、痛い。


 それでも。


 本当に大切なことは、もう見失わない。


「……それ、拓人も、同じ気持ちなんじゃないの」


「……!」


 市川さんは目を見開く。


「拓人も、市川さんがさっき歌った歌詞と同じように思ってるから、不機嫌になって、それで、どうしたらいいのか分からなくなってるんじゃないの」


「沙子さん、それって……」


 うちがじっとその目を見つめると、頭の良い市川さんは、みなまで言わなくてもうちの言いたいことを悟ったらしい。


 唇を引き結んでゆっくりと頷いた。


 やっと分かったか、やっと思い知ったか。


「新小金井駅の前」


 吐き捨てるように伝える。


「え……?」


「そこに、拓人がいるから」


「でも、沙子さんはそれでいいの……?」


 市川さんは瞳を揺らす。


「あのさ、市川さん、うちに言ったよね」


「なんて……?」


 うちのツイートが市川さんを傷つけていたと分かったあの日。


『私ね、さっきまで少し遠慮してたんだけど、今日からは本気で』


 屋上への階段に逃げ込んだうちの耳元で、市川さんは確かに言ったんだ。




「『沙子さんの恋敵こいがたきになるから、覚悟してね』って」




「それは……! それは、だって、」


「戦う覚悟のないやつが、宣戦布告せんせんふこくしてきた、なんてこと、ないよね?」


 うちは市川さんの言いかけた言葉をさえぎって、続ける。


 分かってる。それが、うちの罪悪感を打ち消すために使われた方便ほうべんだってことくらい。


 だけど、だからこそ、それを口に出させるわけにはいかないんだ。


 気づかれないように、そっと拳を握り込んだ。


「ていうか、うちは、拓人と付き合うことには、実際あんまり興味ないんだよね」


「そう、なの……?」


 理解が追いつかないというような顔をしている。


「うちが目指しているのは、もっと本質的っていうか、その先っていうか」


「その先……?」


「うちは、拓人とずっと一緒にいたいんだ」


 本当にそうなったら素敵だな、なんて、ついつい頭の中で想像して、頭の中だけで微笑む。精一杯。


「だから、拓人と結婚する」


 相変わらずアホづらで首をかしげている市川さんを一瞥いちべつして、続けた。


「……高校時代の彼女なんかどうせ別れちゃうんだから、とっとと付き合ってとっとと別れちゃってよ」


 ああ、まずいな。握りこぶしが震えている。これはもしかしたら限界が近づいている。ピコンピコン、と赤いランプが点滅している。


 仮面が、剥がれそうになっている。


「ほら、いいから、早く出てって」


 うちはそっとドラムの上に置いてあるスティックを手に取ると、へたりこんでいる市川さんに差し出す。


 まるで、何かをつなぐバトンみたいに。


「沙子さん、私……!」


 うちは、あなただから、これをたくすことが出来るんだと思う。


「大丈夫、」


 そして、もう片方の拳をそっと後ろ手にしまって、気づかれないように、口角をしっかりあげて、笑ってみせた。


「市川さんは、出来るよ」


 市川さんはうなずき、スティックをうちの手から受け取ると、スタジオを飛び出していく。





 走り去っていく市川さんを見送った。


 とはいえ、ここで爆発させるわけにもいかない。最後に見回る教師に見つかったりしたら、それこそ最悪だ。


 少しでもゆるめたらもうダメになってしまうだろう。うちはいつも以上に無表情をよそおって、昇降口から外に出た。


 このまま新小金井の駅に向かったら、あの二人に会うことになる。今日はバスで帰ろう、とバス停のある正門に向かうと。


 そこに、一つの人影が寄りかかっていた。


「……先帰っててって言ったじゃん」


「もぉー、塩対応だなぁー。さこっしゅの地元の人はみんなそうなのぉー?」


 彼女は、にへらー、と笑ってこちらに近づいてくる。


「……別にそんなことないけど。ていうか、健次は」


「先に帰ってもらったよぉー?」


「なんで」


「なぁーんでもだよ!」


「あっそ」


 ……今は誰にも会いたくないのに。


 うちは英里奈の脇を通り過ぎて、バス停に向かって歩みを進めた。


 すると。


 後ろからぎゅっと抱きつかれる。


 うちは、不可抗力ふかこうりょく的に足を止めることになった。


「……なに」


「あのねぇ、さこっしゅ」


 そのまま、そっと優しく頭を撫でられた。


「さこっしゅはさ、最終的には自分は一人ぼっちだって、そう思ってるでしょ」


「……!」


 英里奈の言葉に、髪をすべる感触にこみ上げそうになったものを、慌てて飲み込んでおさえつける。


「最終的には、自分が一人で耐えたらいいんだって、そう思ってるでしょ」


 こらえるために声を発することの出来ないうちに、英里奈は言葉を続ける。


「笑顔も涙も噛み殺して、何もなかったような顔してるのがカッコいいって、そう思ってるでしょ」


「かっこいいなんて……そんな……」


「カッコいいよ、さこっしゅは」


 否定しようとするのを、優しく、だけど強く、さえぎられる。


「そういうとこ、本当にカッコいい。カッコいいけどね、さこっしゅ、だけど、」


 そう言って、英里奈はうちの背中に顔をあてる。


 そこからじんわりと、湿った温もりが広がって行くのを感じた。




「カッコよくなんかなくたって、いいんだよぉ……!」




 まずい。不意をつかれた。


 そんなこと言われたら、うちは、もう……。


「苦しい時は泣いたっていいんだよ? 悲しい時はわめいたっていいんだよ?」


 潤んだ声でそう続ける。


「……もっと、頼ってよ。もっと、見せてよ」


 背中に英里奈の頭がさらに強く押し付けられる。




 ふぅ、と息をゆっくり吐いて、


「……うちは、大丈夫だよ、英里奈」


 声が震えてしまわないよう、なるべくフラットに、答える。


「さこっしゅー……」


 英里奈が悲しそうな声を出して、そっとうずめていた顔をうちの背中から離した。


 そのタイミングで、うちはそっと振り返り、英里奈に向き直る。




 うちの顔を見て、英里奈は、息を呑んだ。




「さこっしゅ、涙が……!」




 うちはその時、あの日以来、多分、拓人以外に初めて泣き顔を見せた。




「英里奈……ちょっとだけ、肩を貸して」


 そう言って、英里奈の肩に顔をうずめた。


 柔らかい手が、頭をまた撫でてくれる。




「頑張ったね、偉かったね……」


 自分の目尻に広がるぬるい湿気と、震える肩。




「ねえ、うちは、上手に出来たかな?」




 もう、気持ちの制御ができない。




「最後くらい、かっこつけられたかな?」




 声が震える。語尾が上がる。




 平坦なんかじゃいられなくなってしまった。


 仮面は、完全に剥がれた。


「うん、きっと、大丈夫だよ」


 頭の上から優しくて甘い声がうちを包む。




「ねえ、英里奈」


「んー?」






「拓人はこれで、幸せになれるかな?」






 その手が、息が、一瞬止まったあとに。


「さこっしゅ、それはもう、完全に、『愛』だねぇ……」


 英里奈が鼻をすする音がする。




「……こんなに辛いなら、愛なんかいらない」


「そぉだねぇ……」


「こんなに痛いなら、愛なんかいらない……!」


「うん、分かるよぉ……」


「こんなに苦しいなら、愛なんかいらない!」


 嗚咽おえつなのか叫びなのかもよく分からない、とにかく自分から出たとは思えないほどの大声があたりの空気を震わせた。


 しがみつく手に力が入る。ごめんね英里奈、シャツ、くしゃくしゃになっちゃう。


「そうだよね……分かるよぉ、すーっごく分かる。えりなも本当にそう思う。痛いよね、切ないよね。なーんにも返ってこないのに、なんでこんなに苦しいんだろうねぇ……」


 英里奈の声も、どんどんうるんで輪郭りんかくを失ってゆく。


「ねぇ、さこっしゅ?」


「……なに?」


 英里奈はうちを肩から優しくはがした。


 うちの目をまっすぐに見ながら、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、なんとか作った下手くそな笑顔で。


 びしょ濡れに震えるその声で、言うのだった。







「愛してるぜぇー?」







 その笑顔に、その声に、その言葉に、


「はは、は……」


 何年振りだろう、うちは声を出して笑った。


 こっちも、涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃになった、きっとものすごく不器用で、きっと下手くそな笑顔で。


* * *

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