(元)彼氏彼女の事情
8月8日を目前に控えたある日、3年8組の教室では、なんとか舞台が完成間近の段階まできていた。夏期講習期間も終盤であり、人手が増えたおかげだった。
しかし、『内装チーフ(代理)』の岩木京平は現在ピンチに直面している。
現在時刻は18時35分。校舎内は薄暗くなっており、準備のために登校していた生徒の大半は下校済みだろう。彼も舞台裏に忘れた筆箱を取ってきてすぐに帰るつもりだった。
つもりだったのに!
彼が舞台裏でガサゴソやっている間に教室に人が入ってきた。どうやら、男子生徒と女子生徒のようだ。
勘弁してくれよ。舞台裏は構造上、出るときどうしても教室の人の目につく。岩木が出れば、人気のない薄暗い教室で密会している男女と鉢合わせである。彼らが何をするのか知らないが・・・
気まずさしかない!
そんなことを考えていると、話声で誰がいるのかが判明した。
「・・・岸森と小野田だ」
ますます、出られなくなった。
先日小宮に聞いた話から、この二人の間に色々ありそうなのは明白。関わり合いにはなりたくない。ましてや、片方は『リーダー』、岸森。目をつけられたくはない。息を潜める。
「君の方から呼び出しなんて珍しいじゃないか、リエ」
「・・・もう、そんな風に呼んでほしくない」
険悪な雰囲気だ。岩木のなかでは小野田はいつも笑っている印象だったので彼女のあの声色は少し意外だった。
「これを見て」
小野田が岸森に何かを示したようだ。
「何だこれ?」
「あなたの絶叫写真。このあいだ教室に喋る生首を設置した時に撮ったものだよ。岸森くん、すごい顔してる」
あの英語で喋るやつか。あんなのを見たらさしもの岸森といえど絶叫するだろう。
「隠し撮りか。趣味が悪いな」
「人の弱みを握るには手段を選ばないあなたが言うんだ。それはむしろ光栄かもね」
「それで?これをどうする?」
「どうしようかな〜。クラスLINEに貼る?それとも、たくさん印刷して校内中に貼る?どちらにせよ、こんな間抜け顔が広まったらあなたのイメージは台無しだね」
小野田は岸森をじっくりと追い詰めている。彼女は岸森相手に喧嘩を売っているのだ。舞台裏に潜む岩木もハラハラしてきた。
「・・・・何が目的だ?」
「ギブアンドテイクでいこうよ。私はこの写真を渡す。だから、あなたも私にアレを渡す」
ちっ、岸森が舌打ちをする。
「・・・しかたないか。ほら」
「話が速くて助かる。・・・って、え?離してよ」
「・・・と、まあ、うまくはいかない。残念だったな。リエ」
岩木には見えない岸森がニヤリと口元を緩めるのがわかった。
「この程度の写真で俺のイメージが台無し?ないな。むしろ、ネタとしてウケが取れて好都合だ」
そう。彼ほど『リーダー』として人望を集めると、たとえ掛け算の九九を間違えようとも笑ってすまされる。俺なんかが間違えたら嘲笑だろうが、と岩木は思う。小野田が何を得ようとしているのかは分からないが、彼女のもくろみが外れ、窮地に立たされていることだけは分かった。
岸森は平然と続けた。
「そんなに文化祭の手伝いが嫌か?リエ。なあ、頼むよ。誰かがやらなきゃいけないんだ。それに、リエだってこれを公開されたくないだろう?」
「・・・」
「黙ってたら、分かんないな〜」
岸森はネズミをいたぶる蛇のようだった。そして、場違いに陽気な声を出す。
「そうか。じゃあ、これを音読してみよう!」
「・・・・・・・やめて!」
小野田の小さな悲鳴は黙殺された。
岸森はゆっくりとソレを読み上げた。
岩木は妙に文学的だった小野田の先日の発言に納得がいった。
それは詩だった。
愛を告げる詩だった。
岩木はその詩を知らなかった。
だが、すぐにそれが何かを理解した。
これは、小野田が岸森へ送ったモノだと。
「自分の作品を好き勝手にされる。それは、レイプされることよりつらい。」
昔、ある作家が言った。
今の小野田の気持ちはそれに近いのではないか。
普段、彼女は詩を書くことは秘密にしているのだろう。
でも、岸森のことが好きで、彼のことを信頼したからこそ詩を渡した。
それが、今や彼女の弱みとなっている。
彼女の心は一体どれほど蹂躙されたのだろう?
岸森の声は止まらない。
もう、やめてくれ。
岩木は両手で耳を塞いでいた。
状況は大体理解できた。夏期講習期間中に人手が足りなくなるのは内装チームだけではなかった。そこで、岸森はかつてつきあっていた小野田を脅迫して人材不足を補っていたのだ。
「小野田理恵は青春しないでください」
そう彼女に頼んだのは岸森だったようだ。それは、あまりに理不尽だ。だが、それがまかり通ってしまうのだ。そのことを岩木はよく理解している。
俺にはその理不尽をどうすることもできない。
たとえ、薄い壁一枚を隔てて知り合いがレイプされていても、何もすることができない。
岩木は自分の無力さに絶望した。そして、その苦しみから抜け出したくて舞台裏から飛び出そうとする。
だが、出来なかった。
教室へ飛び出そうとして、視界に小野田理恵の顔が入った瞬間、彼の足は思わず止まってしまった。
真一文字に結ばれた口、そして、溢れそうになる雫を懸命にこらえようとする目。
それは、耐え忍ぶ顔だ。『リーダー』の駒として、理不尽な扱いを受けることに耐え忍ぶ顔だ。岩木が彼女のそんな表情を見るのは初めてだった。だが、彼はその顔をよく知っていた。
なあ、岸森、と彼は心の中で呟く。
仮にもお前は小野田と付き合ってたんだよな?なら、どうして、今目の前にいる彼女の表情の意味が分からない?
俺はわかるよ。だって、俺はそんな表情をしてばっかだったからな。
彼はもう逃げようとはしなかった。今、逃げたら自分を理不尽な目に合わせた連中と同じになってしまう、そう思った。
「俺はそうはなりたくない」
それが彼のやっと見つけた真の望みだ。
岩木は手近にあった紐を掴んだ。
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