小野田理恵

 静かだった。普段40人の人間がひしめく教室は木材の山と二人のみ。音といえばかすかに聞こえる人の声くらいだ。

 岩木は木材の山に寄りかかった。汗でTシャツが背中に張り付くのがわかる。小野田の持ってきた普通のお茶はやたら美味かった。朝のお礼だと言う。(「お詫び」ではない)

「この暑い中、一人でお疲れ様」

 小野田も近くにあった椅子に腰掛けてお茶を飲む。彼女の髪もしっとりと濡れているようだった。

 岩木は汗ばむTシャツの襟をつまんでパタパタと風を送る。

「内装チーフの仕事がこんな重労働とは思わなかった」

「人が来れば岩木くんももう少し楽なんだろうけどね。まあ、今は夏期講習の時期だからね〜」

「そうだな。俺も夕方から入ってる」

 このあたりの予備校はそろって今の時期に夏期講習を集中させる。そのピークを過ぎれば8月半ばくらいからは人も増えるんじゃないかな、と小野田。

 しかし、と岩木は思うのだ。8月8日に舞台を完成させる必要があるんじゃないのか?そんな悠長なことを言って、もし、小宮が来れなかったら(実際に来たのは岩木だが)、どうしたって完成は難しいのではないだろうか。

 まあ、俺が考えても仕方ないか。

 岩木は小野田と普通に話していることに気がつく。彼女の見た目の幼さと気さくさのためだろうか?

 話題が尽きそうなので、これと言った意味もなく小野田に尋ねる。

「小野田は?」

「何が?」

「夏期講習」

 ほほう、よくぞ聞いてくれた!、とばかりに彼女は腰に手を当て胸をそらす。

「私は塾には行かないのだ。自習で十分!」

 ・・・それはうらやましい限りだ。

 そういえば、と岩木はふと思い出す。こいつ、成績良かったな。

「じゃあ、キャストやれば良かったのに」

 キャストとはクラス演劇での役者のことである。40人で作り上げた華々しい舞台に乗れる唯一の人間たちであり、彼らは我が校の文化祭の華そのものだ。その栄光と引き換えに夏休みの拘束時間は長い。彼らは今も校内のどこかで稽古をしており、夏期講習の暇などはないだろう。

「いやいや」と彼女は笑って手を振る。「ああいうのは『私は今、青春している!』って楽しめるような人じゃないと」

「そういう人じゃないのか」

「そういう人に見える?」

 岩木は黙って頷く。彼女のの気さくさは、いかにも『青春』を楽しむ高校三年生という感じがする。

「じゃあ、その見立てはハズレ!」

 彼女はどこか楽しそうに言うと、足をぶらぶらさせる。

「まあ、私にも色々あるのだよ」

 どうしてだろうか。そう言ったときの彼女は今までと何も変わらないように見える。それなのに。岩木はどこか影があるように感じてならなかった。

 その時、その何かを彼女が語ることはなかった。

 気づけばペットボトルが空になっていた。見ると小野田のペットボトルも空になっている。岩木は立ち上がった。

「貸してみ。捨ててくる。」

「おっ、ありがとう」

 小野田から受け取り、岩木は教室を出ようとした時だ。木材の山の脇で何かを倒した。

 それは、紙袋だった。彼が倒したことで中から空の缶の箱が飛び出している。

 戻そうとかがんで見ると箱のロゴが見えた。

「Principessa」

 プリンチペッサ。それは隣の県の中心部にある有名な高級菓子店の名だ。

 岩木は特に何も考えず元に戻すと教室を後にした。


  ***


 十一時半過ぎ。三年八組の教室にようやく新しい人間が来た。

 「お疲れ様〜!」

 そういって入ってきたのは数人の男女。そう、我らがキャストの皆さんである。

 「暑い中本当に大変だったでしょ」

 「この時期は人数も少ないしね」

 「お、岩木。お前も忙しいのに本当にありがとうな!」

 彼らの温かいお言葉によって教室は一気に賑やかになる。

 キャストたちは午前中の練習を終えて、休憩時間らしい。その時間を利用して教室の準備を手伝おうということになったらしかった。

 「皆んなもお疲れ様〜」

 小野田も彼らを温かく出迎える。

「キャストの皆んなも大変だったでしょ。はい、これ差し入れ」

「お、理恵ちゃん、ありがとう〜」

 彼女はクッキーを差し出した。キャストたちは喜んで手を伸ばす。

 そして、皆一様に歓声をあげる。

「え、いいの、こんなのもらっちゃって?」

「これはかなり嬉しい!」

 その過剰に思えるリアクションを見て、岩木は何んだろうと小野田のクッキーを覗き込む。そして、おやっ、と思うのだ。

「岩木くんもどうぞ!」

 小野田に差し出されたそれを彼はおずおずと受け取る。食べる。まあ、美味かった。普通にスーパーで売られている少し高いくらいのそれの味がする。

 

 だが、


「おお、この上品な甘さ。さすが!」

「やっぱり、を食べると紅茶飲みたくなるよね〜」

「すっごく美味い!」

 そう、小野田はをあの缶の箱にクッキーを入れて出したのだ。先ほどまで空だった高級菓子店「プリンチペッサ」の箱に。

 おい、何やってんだ、と岩木が尋ねようと彼女の方を向くと本人と目があった。

 彼女は人差し指をピンと立てて唇の前へ。内緒、のポーズ。

 そして、ニコリと笑うのだ。いたずらが成功した幼い子供のように。

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