異世界ファンタジー
異世界ファンタジーの「面白さ」とは何だろうか?
異世界ファンタジーのファンタジーは空想を指す。
異世界、現実の今自分らがいるこの世界とは異なった世界を異世界と表す。
異なる世界の空想小説。
これは、『夢』に近いだろうか。
『もしも』こうであったら、と思い浮かべる。
その『もしも』を描いたのが異世界ファンタジーであるとして、異世界ファンタジーの面白さというのは、そんな『非現実的』さだろうか。
現実にないからこそ、それを面白いと言えるのではないか。
しかし、ただただ『非現実』を詰め込んだとて、面白いわけではなかろう。
理解が出来る程度の『現実味』というのがなければ、読者は混乱する。
その混乱こそ、異世界らしいが。
主人公が異世界へ突然飛ばされて、そこで様々な『非現実』を目の当たりにして混乱するように。
『現実味』と『非現実』のバランスが必要なのではなかろうか。
その『現実味』というものが何を指すのかというと、『移転』『転生』という出来事が『非現実的』であっても、その出来事をくらってしまった『主人公』は?
主人公は現実世界から異世界へ行ってしまったのだから、主人公に『現実味』を置かなければ可笑しく思える。
この場合、『転生』後にも現世にいたという、前世の記憶を所持したままという設定になる。
まぁ、前世の記憶を留めたままというのが都合の良い設定で少々『非現実的』ではあるものの実際にも事例はあるので微妙なところだが、多くの読者は主人公のそんなところまでは深く思わないのでいっそ気にしなくていい。
主人公は最初、現世での『当たり前』を元に行動していく。
しかし、異世界の『当たり前』はそれと異なって主人公は驚きを露にするだろう。
その感情もまた『現実味』があるのだ。
そういう主人公の些細な『現実味』が異世界の『非現実』さを妙に支えている。
読者は主人公を通して、異世界を理解していく。
そして、主人公だけでなく異世界にいる登場人物には当たり前のように感情があるわけだ。
その『感情』からくる言動は例え世界が異なっても共通しているのだから、それも『現実味』と言え、さらには理解もしやすい要素である。
異世界の『非現実』を面白がる為にまずはそういった『現実味』が支えになって初めて、というのがあるということだ。
ただ理解するために『現実味』を置くのではない。
『非現実』にある『現実』というのはバランスが取れれば面白さを産む。
『非現実』と『現実』の違いを比べてあぁだこうだと言うのもまた、読者は楽しむことが出来るのだろう。
面白いのだろう。
そして、憧れを持つのかもしれない。
いっそ、作者が一番に憧れているのかもしれない。
その外野の『憧れる』ことの出来る作品というのは飽きない。
異世界ファンタジーの面白さを探すと、そういった『小物』の助けがあることも勿論だが、ストーリーの方にも大きく目を向けて見なければ、『小物』ばかりに集中したとて、目的次第では望んだ『面白さ』は出来上がらない。
『小物』の面白さは、人物、建物、食べ物、生き物等といった個々のものの存在から産まれる。
現実にはないからこそ、文字だけであっても描写で想像力を駆り立てられて読者はそのヒントを元にどんなものかを勝手に想像しそれを楽しめる。
現実にあるものばかりを置かれても、そう楽しみながら想像する必要はなくいちいちそれを考えなくても良いと判断出来る。
素通りするかもしれない。
その足を引き留める必要も無い。
異世界ファンタジーは『現実味』を味わう為のジャンルではないだろう?
異世界ファンタジーの面白さは『非現実』の物を『想像』させることでもあるのかもしれないね。
ストーリーでいうと、冒険をしていてモンスターと遭遇し戦闘へと。
その前には様々な仲間と出会っているかもしれない。
それも、種族の異なる仲間を。
仲間や戦闘で使う武器、技等は『小物』に過ぎない。
ストーリー的に目を付ける場所といえば、出会い、冒険、戦闘といった外側のもの。
出会うことによって、仲間との関係が広がる。
そこで異世界の常識と現世の常識がぶつかることもあるだろうし、種族が異なればそれだけ、その種族の異なる『当たり前』と喧嘩になるだろう。
その中身ではなく、それ自体が面白いのかもしれないが、このストーリーに含まれる仲間との展開は、『非現実的』ではないのだ。
獣人と人間、という関係は確かに現実味がないだろう。
だが、そういった種族が違うことによって起こる問題は、如何に事を大きくしようとも、とても現実的だ。
例えよう。
日本人と外国人の違いだ。
日本人が当たり前だと思っていることは外国人にとっては当たり前ではないし、その逆もそうだ。
外国人にとっては、日本人は獣人であり、日本人にとっては外国人は獣人である。
実は、異世界で起こっているというだけでかなりここは『現実味』が強いので、読者がいくら錯覚しようとも、理解しやすい理由としては『現実味』が強いからであるのだ。
異世界ファンタジー小説で、異世界で起こっていること全てが非現実的であるという勘違いはとても面白い。
そういう人間がいるということが。
それくらい単純なのだと、異世界と言ってしまえばそれはいくら現実味があっても異世界なのだと。
異世界であれば、異世界ファンタジーだと言えてしまうのだ、となればもう異世界ファンタジーの面白さなぞ問いかける必要はないわけだ。
そうならもう用無しだな。
さぁ、話を戻そうか?
仲間との喧嘩というストーリーは、異世界で起こっていようとも『現実的』であることはよくわかる。
異世界と現世の違いからくる驚きも、実の所は、日本人が他国へ旅行に行けば簡単に得られる感覚なのである。
驚きの大きさが違うのだというと、もうそれはストーリーの話ではなく、『小物』の力である。
そこまでくれば、『小物』の力が小さくなく大きいものであるのだ。
あなどるなかれ、ということか。
そうなると、ストーリー展開として仲間との喧嘩は、『現実味』になるのであれば、異世界ファンタジーの面白さの一つとして言えるか否か。
言えるのだ。
例え異世界であろうとも、その芯というものは現実とまったく変わらない。
それに気付くのも面白さであろう。
『非現実』と『現実』が隣り合わせにあること。
それが異世界ファンタジーというものの面白さと言える。
だから、無闇にそんな『現実味』を削る必要はないのだ。
それはそれでいいのである。
では何故、そんなにも『現実味』というものは抜け出せないのかと言うと、そもそも異世界ファンタジーを生み出す為の元の参考となっているものが現実のものであるからだ。
どんなに『非現実的』を目指そうとも芯のところは『現実』からは抜け出すことが出来ない。
だから抜け出すのではなく錯覚させることが筆だろう。
現実にいる作者が如何に非現実的を語ろうとも、作者が芯の元と言ってもいいもので、芯は現実から離れられない。
離れたければ作者が非現実にいなければならない。
しかしその非現実さえ今の現状生み出したのは現実にいる者。
どこまでもいっても非現実の芯は現実からは抜け出せないのだ。
現実を非現実であると見たのは、ただの錯覚か何かということになり、作者は読者を如何にそう思わせるかが読者の求める非現実に当たるものだということになる。
話を戻す。
では、仲間とのトラブルはそこで現実であるが、戦闘になるとどうだろうか。
戦闘というのは、現実でいうと戦国時代の戦でも、現代の戦争でもいい。
それらと同じであろう。
何が非現実かというと、戦闘の中身、そう、『小物』。
武器、技、敵等の全て。
はい、ここまで言うともうわかろう。
ストーリーにある仲間との物語も、戦闘も、非現実的のようで現実味のあるもの。
そして、『小物』によってストーリーは面白くされているのだ。
だが、ここで読者が何故そんな現実味を面白く思えるかを考えようか。
現実にあることを、そうそう面白がれまい。
それは、現実にあっても多くの人間からすれば非現実的なものであるから。
日常生活の中で得られないものであるからだ。
いくら現実にあっても、読者の日常生活にそれらがなければ非現実である。
知識的にはあっても、経験的にはないのだから。
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