四十四話 前夜
ダーバ高原から南に下り、そこから西へぐるりと回り込むようにして向かった先に小さな川がある。
そこの周囲は木々に覆われ自然豊かな地域だ。
五千の歩兵を率いてやってきたプリシアは、森の中に仮の拠点を作るに至った。
「作戦開始は恐らく明日となるはずじゃ。それまでお前達はしっかり身体を休め、悔いのないように過ごすがいい」
そう言ってプリシアは大量の酒を兵士達の前に運ばせる。
四万に対したった五千で戦う彼らは、さぞ恐怖に逃げ出したい気分だろう。妹は彼らにその気持ちを酒で誤魔化すようにと命じていた。
早速宴会を始めた彼らを見ながら、プリシアは僕のいる場所へと戻ってくる。
「死にに行けと命令するのはなんとも複雑な気分じゃ」
「それを抱えるのも指揮官としての責任だよ。彼らの働きを最大限に活用することこそが君の役割なんだから」
「お兄ちゃんはやはり大人じゃのう。アタシはいつまで経ってもこういうことには慣れぬのじゃ。戦争は嫌いじゃ」
僕はプリシアを抱きしめて頭を撫でる。
長く生きたと言ってもやっぱり経験しなければ分からない。
僕の場合、魔界では戦争や争いごとばかりだったから慣れているけど、彼女はこういうことは初めてらしい。実際、ここ百年余りは小競り合いのようなものばかりで、まともな戦争などしていなかったのだ。
スーハースーハー、そんな音が聞こえる。
プリシアを見ると顔を赤らめてだらしない表情になっていた。
「お兄ちゃんの匂いは麻薬じゃのう。うへへ」
「そろそろ離れなさい。ロリ賢者」
イリスが襟首を掴んで強引に妹を引き離す。
その後ろではフォリオが「ロリだけ不公平ですぞ」となにやら発言していた。
「また邪魔をするかデーモン女!」
「当然です。ご主人様に不埒な輩を近づけないのが私の役目、いくら妹であろうと私のご主人様の高貴な香りを嗅ぐことは許しません」
「ぐぬぬぬっ! 小癪な女め!」
「こっちの台詞です」
二人が殺気の籠もった目でにらみ合う。
うーん、なんでこんなに仲が悪いんだろう。
僕としてはどちらも大切だし仲良くして欲しいんだけどなぁ。
「ぐふふ、これはなんとも立派な胸板ですわい」
「「!?」」
気が付けばいつの間にかフォリオが僕の胸を触っていた。
なんだか変な感じだ。美少女に触られてるけど、そうじゃなくて、でもやっぱり女の子に触られてて、普段なら耐えられないはずなのに元が同性と思うとなぜだか恥ずかしさをあまり感じない。なんだろう言葉にしがたいこの感じ。
がばっとイリスがフォリオを羽交い締めにする。
そこへプリシアが杖で腹部を大きく振りかぶってバシバシ叩いた。
「油断も隙もない! この変態モフ娘!」
「弟子ごときが気安く師匠に触れるでない!」
「ひぎぃ! どうかお許しを! つい出来心で!!」
「「お仕置きだ!!」」
しばらくフォリオの悲鳴が続いた。
◇
夜のとばりが降りた深夜。
僕とイリスとフォリオは『透明薬』で敵の陣地に潜入していた。
無数のテントと瞬く多くのたき火。
魔族の兵士達の大半は熟睡していびきを掻いていた。
静けさが横たわり遠くで鳥の鳴き声が木霊する。
その中で目に入る三十人の集団。
全員が黒装束を身に纏い、上官らしき人物から言葉を受けていた。
どうやら補給路を一つ潰されたことで焦りを抱いたようだ。
彼らは仕返しとばかりに成功に浮かれている王国軍に夜襲を行うことを決断したらしい。
「愚かですな。こっちはがっちり守りを固めているというのに」
「しょうがないよ。今までの王国軍の作戦は向こうにしてみれば分かりやすかったんだ。今回もそうだと踏むのは自然な流れだよね。だからこそそれを逆手にとったプリシアの作戦は強烈に急所を突く」
「ご主人様、どうやら動くようです」
僕らは地面に伏せて様子を見る。
三十人は二列になって東へと走り出した。
「あの者達ははいかがいたしますか?」
「念の為に君が始末してくれないか。もしかするとマードン将軍はアドバイスを無視しているかもしれない」
「……可能性はゼロではありませんね。では私が」
イリスは足早に暗闇の中へと身を投じた。
「さて、僕らは敵の水源を見つけ出し破壊しないといけない。薬の効果もあまり長くは続かないからね」
「敵陣の中央と言っておりましたが、確実に作戦を成功させる為に他の井戸も探しておいた方が良いのでは?」
「そうだね。じゃあ君には他に井戸がないか探してもらってもいいかな」
「承知いたした」
僕とフォリオは二手に分かれる。
ひたすら眠りこける敵兵を避けつつ敵陣の中央を目指した。
……アレかな?
大きなテントの近くに古びた井戸がぽつんとあった。
時折建物が壊された形跡などを見かけていた為、かつてここには小さな集落があったことが分かる。ただ、元々このような状態だったのか、奴らが皆殺しにして土地を奪ったのかは定かではない。
僕は井戸をのぞき込み深さを確認した。
あまり豊富に水が出る井戸ではないようだ。
まぁ、今から壊すのでどうでもいいことかもしれないが。
「
井戸を飲み込みながら地面が渦を巻いた。
そして、二、三秒で跡形もなく平坦な地面となる。
これで奴らの貴重な水源は失われた。
戻ってきたフォリオは小さく首を横に振る。
他にはないってことか。
だったら僕らはこれで撤退だ。
(ご主人様、こちらは全て片付きました)
(ありがとう。こっちも終わったから退くとするよ)
僕とフォリオは静かに敵陣を後にした。
◇
拠点に戻れば兵士達が肩を組んで、陽気に歌を唄っていた。
みんなすっかりできあがっているのか顔が赤い。
僕は報告の為に川岸にいるプリシアの元へと向かった。
「るー♪ ららー♪ るらるらー♪」
薄暗い川岸では妹が鼻歌を唄いながらぼんやりと月を見ている。
僕は彼女の座っている岩の横に腰を下ろした。
「懐かしいね。母さんが良く唄っていた」
「今ではもう聞けぬ思い出じゃ」
「……そうだね」
実は僕は未だに、父と母がどんな人生を送り死んでいったのか彼女に聞いていない。
それどころか彼女の今までの人生だって知らない。テトのことだって。
たぶん知るのが怖いのだと思う。
僕は家族の前から勝手に消えた人間だ。
辛い時も苦しい時も僕はそこにはいなかった。
だからどう思われていたのか知るのが恐ろしいんだ。
プリシアは不意に口を開いた。
「アタシ達はお兄ちゃんがいなくなってすごくすごく悲しかったのじゃ。生活だって一気に苦しくなって、アタシ達はお兄ちゃんに頼りすぎていたのだと思い知らされた」
「ごめんね」
「やっと戻ってきてくれたからもういいのじゃ。でも、お父さんとお母さんに会わせてあげられなかったのはずっと後悔しておる。お兄ちゃんはパルナロイ村には行ったのか?」
「うん。ヒルダに会ったよ」
プリシアは「娘は元気にしておったか?」と少しだけ表情を明るくする。
「家族に囲まれて幸せそうだったよ」
「そうか。ではマグリス家の墓には?」
「もちろん行った。おかげで君も死んだと思っていたよ」
「ごめんなさいなのじゃ。でもあれはあれで正しいのじゃ。ルナ・マグリスはすでに死んでしまったと言うことじゃ」
ルナは以前の人生と決別し、プリシアとして新たな人生を歩む決断をした。
なぜ彼女がそのような選択をしたのかは定かではないが、確実に言えることは僕と結ばれるために死を偽装したということだ。
思えばヒルダは何かを伝えようとしていた気もする。
あれは母はまだ生きていると言いたかったのではないだろうか。
僕は懐から人形を取り出して見せる。
それはひどく薄汚れた妹と弟を模したものだ。
「これは……まさかあの時の?」
「僕はこれを支えにして魔界を生き抜いたんだ。これがあったからこそ僕はここにいる」
「ふふ、やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんじゃの」
人形を見つめる彼女は目を潤ませながら笑顔を浮かべた。
僕はそっとその手に手を重ねる。
「お父さんもお母さんもお兄ちゃんがいつか戻ってくると信じておった。もちろんアタシもテトもじゃ。じゃが、いくら研究しても魔界から呼び戻す方法が見つからなかった。生存を絶望視し始めた頃、
うん……昔の僕はやさぐれてたからね。
こっちにまで噂が流れてきてもなんらおかしいことじゃない。
今に落ち着けたのは多くの知人や友人のおかげだ。
「だからアタシはみんなと相談して、百年後でも二百年後でも、いつかお兄ちゃんが帰ってきて居場所がないと泣かないように村を作ることにした。じゃが、それだけでは足りなかった。できれば村の住人の大半がマグリスの血筋であることが望ましかったのじゃ。そこでアタシは賢者となって領地を賜り、結婚をして子供を作った」
「結婚は……僕のため?」
「半分はの。アタシは当初テトにハーレムを作らせて子供を儲けることを提案した。じゃがきっぱりと断られてしもうた。そんな時、アタシは旦那となるウィリアムズと出会った。彼に好意を抱き結婚をするに至ったのじゃ」
ウィリアムズって確かプリシアのファミリーネームだよね。
そっかなんだかんだ言っても旦那さんのことは今でも愛しているんだね。
ちょっと安心したよ。もしその人が愛されないまま人生を終えたというのなら、僕は深く謝らないといけないからね。
彼女は「もちろん彼はすでに死んでおる。ここは重要じゃ」と未亡人であることを露骨にアピールする。
ウィリアムズさんに、こんな妹と結婚してくれて本当にありがとうと、心の中で深く謝罪と感謝をした。たぶんかなりいい人だったんだろうな。
「お兄ちゃんは知らぬだろうが、実はパルナロイ村の領主の館には、お父さんとお母さんからのお兄ちゃんに向けての手紙が残されておる」
「手紙だって!? でもなんで領主の館に!?」
「先ほど言ったじゃろう。アタシは領地を賜ったと。あの村の周辺は全てアタシの物だったのじゃ。まぁ今では相続して手元からは離れておるがな」
衝撃だ。じゃあ僕の妹は領主になっていたというのか。
よくよく考えてみれば、マグリスの血族であるアンリの父親が領主であることがいい証拠じゃないか。どうして気が付かなかったのか。
プリシアは僕の手に人形を返した。
「領主の館の地下には手紙と、お兄ちゃんに残した様々な物が保管されておるのじゃ。もしこの戦いを無事に乗り越えたらアタシと一緒に来て欲しい」
「そこでテトに何が起きたのかも聞かせてもらえるのかな」
「うむ、必ずすると約束しよう」
彼女はすっと小指を立てた右手を出した。
これは子供の頃によくやっていた約束の誓いだ。
誓いとは言っても単なる口約束みたいなものだけど。
僕は同じように小指を絡ませ約束する。
「生きて帰ろう」
「うん、なのじゃ」
二人で微笑み合う。
百年経っても僕ら兄妹の絆は強い。
そのことが嬉しかった。
「ところで作戦は成功したのか?」
「そうだった。すっかり報告を忘れてたね」
僕が成功したことを伝えると彼女はニヤリとした。
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