第22話 完全に息を吹き返す。
ランニングが習慣になってくると、周囲から度々「マラソン大会には出ないんですか?」なんて言われるのだが、これまで私はただ気持ちいいから、ストレスが発散されるから走っていただけであって、いわば自分のため、自己の快楽のみを目的に走っていた。そしてこれからも独りでひっそりと走り続けようと思っている。なぜなら仕事では人の顔色ばかり窺って過ごしているので、自分の趣味くらいは自分のペースで楽しみたいと思っているのだが、ここまで考えて不意に妻の顔が脳裏に浮かんできた。
そうだ、マラソン大会に出場したら妻が応援してくれるかもしれない。なぜならば妻は私が走ることに対してちっとも応援してくれないから。むしろ走る暇があるのなら洗濯物の1枚でもたたんでほしいと思っているから。いいね、マラソン大会。俺は他人の顔色を窺い続けることに疲れ切っているが、妻の顔色はこれからもしっかりと窺っていきたい。
これまでも常々、妻の顔色を窺いながら家族団欒の時間を決して損なわぬよう、家族が寝付いた夜遅くにランニングを始めていたのだが、「いいわねあなたは気楽で。平日の夜はランニングですか。私は子供の寝かしつけをしなきゃいけないのに、これから御趣味の御時間ですか」と、妻が暗い寝室から顔だけ出して二重敬語にも臆せずに辛辣なことを言う。
俺もそれなりに配慮してやってんだと反論するとランニングの時間を夫婦喧嘩に費やせばならず、何よりも暗い寝室から顔だけ出して何かを主張するモードの妻は何よりも怖い。おそらくこちら側から確認できない胴体は蛇とか虎とかになってると思われるので、ただひたすらに恐ろしく、「ゴメンね、おやすみ、ゴメンね」と、小声で妻に謝りながら逃げ出すように家を飛び出し夜の街を疾走する毎日。
しかしマラソン大会となると話は違う。スポーツマンシップに則り、日頃の練習の成果を発揮し、これまで支えてくれた妻、嫁、家内、奥様、ワイフの期待に応えるため、正々堂々競技を行い、全力を尽くすことを誓うことによって、妻は夫のことを全力で応援、全面的に支持してくれるかもしれない。いや、するだろう。自信が確信に変わる。想像が妄想に変わる。
ああ、ゴールが見える。『負けないで』が聞こえる。心のワイプに妻の顔が映る……泣いている! ワイプの妻が感動で泣いている! ワイプのワイフがワンワンと! 俺はゴールと同時に男として夫としての威厳をきっと取り戻すことができる! 妻が両手を広げて崩れ落ちそうな俺を包み込もうとしている。「一人でこんな大きいタオル使わないでよ!」と、いつもだったら風呂上りに使用すると烈火の如く怒り出すミッキーマウスのバスタオルとタオルケットの合いの子のようなまあまあでかいタオルを広げて俺を包み込もうとしている。ああ、このタオル、俺も使っていいんだね……。俺は期待と妄想を込めて生まれて初めてマラソン大会の申し込みをした。
「いいわねあなたは気楽で。お休みの日はマラソン大会ですか。私は子供の面倒をみなきゃいけないのに、これから御趣味の御時間を御満悦ですか」
マラソン大会当日の朝。全く応援してくれる気配がない。しかも怒りを抑えきれず三重敬語に進化している。寝室からは妻の顔はおろか、鼻の先しか見えない。ほぼ全身が蛇か虎にでもなってしまったのだろう。「パパー、アリオ行きたかったけど頑張ってねー」という娘の無邪気な言葉に、「ゴメンね、今度行こうね、ゴメンね」と、小声で娘に謝りながら身を引き裂かれる思いでマラソン大会に出発する。きっと妻が「今日アリオ行けないんだって」と娘に吹き込んだのだ。なんてひどいことをするのだろう。娘は無邪気で俺を責めるが、妻は邪気で攻めてくる。
そんな孤独なマラソン大会デビュー戦は、荒川沿いで行われるハーフマラソン。全長173kmの荒川では、ほぼ年中どこかで大小のマラソン大会が開催されている。河川敷に特設テントやバルーンアーチが設置され、お祭りのような高揚感が身体を包む。どこからどう見ても「大会」だ。この年齢になって「大会」といわれるものに選手として参加するなんて思ってもみなかった。妻よ、ああ妻よ! 私は今、大会に参加している! 「たいかい」と聞くと、これまで私の脳は「焼酎さつま大海」の「大海」に変換されていたが、これからの私は「たいかい」の変換第一候補が「大会」に上書きされた。大会! なんて健康的なんだろう!
皆ほうぼうに集まり、それぞれ新調したウェアを披露したりサプリメントの効果を伝えたり体調の話をしたり目標タイムを宣言したりと、思い思いに盛り上がっている。爽やかに挨拶を交わし、穏やかに譲り合い、健やかに興奮している。この風景、どこかで見たことがある。そう、この自然な協調性、加熱した一体感はまるで「NHKのど自慢」の出場者席に座っている人たちを見ているようだ。老若男女問わず、演歌が流れるとコブシを入れるジェスチャーをしたり、ポップスが流れると縦ノリでグルーヴ感を無理矢理演出する。私はあの光景に幼い頃からなぜか鳥肌が立ってしまい正視できなかったのだが、それは視聴者と出場者のテンションの温度差に寒気を覚え、震えていたのだろう。
しかし今回は私も出場者である。のど自慢の舞台同様、ここはこんなにも暖かく、心地良い。体調が悪そうな人、愚痴をこぼす人、機嫌が悪そうな人など一人もいない。こんな邪念のない集団が存在しているなんて。上京して16年、東京には不機嫌な人しかいないと思っていた。東京で集団といえば満員電車である。満員電車にはわざと押す人がいたり、故意に車内に入れてくれなかったり、身動きできない状態で同じ車両内のどこからか聞こえる怒り口調の奇妙な独り言に乗客一同怯えたり、悪意満載の舌打ち、肘打ち、不意打ちがはびこる凄惨な世界である。時々電車内での小競り合いからホームに降りてくだらない名誉を賭けた一騎打ちまで起こる始末である。
マラソン大会の清々しい雰囲気と満員電車の刺々しい空気。同じ集団といえども決定的に異なるのは、価値観の共有であろう。満員電車の乗客は決して価値観は共有していない。地獄に向かっているという目的、このままではいつか死んでしまうという悲壮を互いに確認しているだけなのだ。しかしマラソン大会は、同じ価値観の人で溢れている。しかも全員健康的だ。本当に健やかだ。新しい朝、希望の朝に、喜びに胸を開き大空を仰いでいる。この集団の一員になれるだけで、なんだか荒んだ心が回復していくような気がする。
人は最低3つ以上のコミュニティに所属した方がいいとされている。コミュニティとは自分を取り巻く世界である。例えば1つの世界(コミュニティ)しか持っていなければ、そこで失敗したら世界の終わりだと思ってしまう。しかし複数の世界(コミュニティ)を持つことによって、1つで行き詰まった時に、もう1つで息抜きができる。逆に、どれか1つの世界がうまくまわっていれば、他がダメでもそこが逃げ道になってくれる。心理学で自己複雑性理論というものがある。いろんな世界に所属するいろんな自分がいるほど自己複雑性が高くなり、ストレスにも強くなるのだ。自分の世界の1つが否定されても、他の世界での自分が肯定されていれば心が弱ることはない。
これまでの私は人付き合いがあまり得意ではないので、職場と家庭という2つの世界にしか所属していなかった。職場は感情労働で皆疲弊し人間関係も冷え切っているし、家庭にはアリオに行けないと娘に吹聴する妻がいる。そしてその世界の間を満員電車で往復する日々。息も絶え絶えである。しかし今回私はマラソンという3つ目の世界を手に入れた。
ようこそ新しい世界。よろしく新しい世界。準備運動をして、青空に叫ぶ。俺は完全に息を吹き返した。職場でオーバーワークになっても、家庭で妻から見捨てられそうになっても、新たな世界で新たな価値観を得て、この大会で完走することにより、新たな俺が創造されるのだ。スタート地点に向かう前にスマホを見るとLINEが届いている。
「いつもお疲れ様。初めてのマラソン、怪我しないように頑張ってね」
妻からである。俺は完全に、超完全に息を吹き返した。俺は妻を超愛している。家庭でもマラソンでも金メダルを獲ってやる。自己の複雑性などいらない。俺は俺だ。妻がいて俺がいるのだ。快晴の空の下、スタートが鳴った。心が躍った。
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