第21話 あわよくば敗北を狙う。

別にダイエット目的で始めたわけじゃないけど痩せればいいな、まあこんだけ走ってるんだから痩せるんだろうな、でもダイエット目的で走っているわけではないからね俺は。と、標準体重より6kgオーバー(68kg)で始めたランニング。5~10kmのランニングを週に2回ほど約1年続けて現在65kg。


思ったほど痩せてない。


まあ、ダイエット目的で走っているわけではないからね俺は、と、あらためて現状を否認するものの、1年走って3kgしか痩せていないことにはやはり疑問が残る。努力に見合った成果が得られていないような気がする。しかし努力すれば報われる、なんて真正面から信じる歳でもないし、結果を意識した途端に敗北が濃厚となるということも、これまでの人生で散々学んできているので俺は努力も結果も気にしない。ただ、なんとなく走って、運動する過程を楽しんで、「あわよくば」痩せてたらいいなと思っている。


つまり、楽しんだ結果として痩せた、という形に持っていきたい。走った特典として、オマケとして痩せたい。あわよくば痩せたい。でも本当は全力で痩せたい。しかし全力で痩せたい感を全面に出すと、願いが叶わなかったときの失望が大きいので、あわよくば痩せたい。つまり全力であわよくば痩せたい。全力で全身全霊を懸けて副賞をゲットしたい。


という具合に、私は「あわよくば」に全幅の信頼を寄せて生きている傾向がある。あわよくば頼みの人生。なんというか社会で起きる様々な評価や報酬を、自己の努力ではなく何かのついでで手に入れたいという願望がある。そう、俺はアワヨクバー。努力を嫌悪し運命を受け入れるアワヨクバーなのだ。


昨年受験したカウンセラーの国家試験に合格したとときも、とにかく運が良かったなあ、問題が簡単だったなあ、俺はついてるんだなあ、と妻に感想を述べたとき、「あなた尋常じゃないくらい毎日何時間も集中して勉強してたじゃない」と言われて、はて、多少は勉強したけれど、そんなに勉強してたっけなあ、と、いまいち自分の行動に実感が伴わないことがある。いわゆる軽い「解離」が起きているのである。


解離というのは心的防衛機制の1つで、ショックな事態に遭遇して気を失ったり、辛く悲しい出来事が現実のものでないように感じるなど、自己を守るために極度に不快な体験を意識から切り離すものである。今回の国家試験の件では「何時間も集中して勉強していた」という記憶が自分の中で曖昧になっている。つまり、私にとって「努力する」という経験が「不快な体験」として認識され、処理されているのだ。「努力している俺」を自分自身で認めたくないのだ。俺は努力至上主義のドリョッカーではない、運命至上主義のアワヨクバーなのだ。


ちなみに、数ある防衛機制の中でも「解離」は未熟な防衛機制と呼ばれている。自我を守るために認めたくない現実から遠ざけるということは、その時の様々な感情や思考や体験が自己に吸収されることを拒んでいるのである。そのような解離が繰り返されると常に自分の意思で考え、動いているという自我の形成が弱くなり、「自分を持っていない」「他者に振り回されやすい」などの外的要因に影響されやすい人格が形成されてしまう。


つまり、私は自分に自信がないのだ。自分の努力で成し遂げられたものを認めることができない。私が努力したのではない、ただ運が良かったのだ。そう思った方が努力による結果責任から回避することができる。成功は「まぐれ」と解釈して、失敗は「やっぱりね」と想定内にしておきたい。失敗を想定内にしておくことでショックを和らげることができるし、成功を想定外にすることで、あわよくばの恩恵を得られる。つまり普段から悪い状態に心を慣らし、マイナス化思考でいることでリスクを回避しようとしているのだ。


俺はアワヨクバー。自分自身の努力でうまくいってはいけない。アワヨクバーには成功への罪悪感というものがあるのだろう。円滑に成功へ向かってはいけない。成功へ向かうのに必要なのは「努力」ではない、「苦しみ」なのだ。唯一その苦しみだけが、成功への罪悪感を軽減させ、成功することを許してくれる。


現在は精神疾患の診断マニュアルからは除外されているが、数年前まで「自己敗北型パーソナリティ障害」という病名があった。読んで字の如く、自己の敗北にひたすら突き進む性格傾向の障害である。このパーソナリティ傾向を持つ者は、常に自分が苦しむような立場や人間関係に引き込まれる。診断基準の一つにこう書いてある。


もっとよい選択が明らかにある時でさえ、失望、失敗、または冷遇を味わう人物や状況を選ぶ。

つまり、アタリ・ハズレの二択の局面で、あらかじめ答えがわかっているにも関わらず、自ら進んでハズレを選択してしまうのだ。あえて失望、失敗、おっかない上司、ひどい彼氏を選択しているのである。なぜならば自分のことを決して成功しては、幸せになってはいけない人間だと思い込んでいるから。


世の中には一定数、このように自ら好んで不幸に突き進む人たちがいる。そしてこの人たちは決して苦しみに対する見返りを求めていない。診断基準の一つにこう書いてある。


自分個人の対象としての重要な仕事が、その能力がはっきり示されているにもかかわらず、完成できない。

「このくらいいいですよ」と言いながら、通常であれば定時に終わる仕事も他人の手伝いばかりしていて、一向に終わらすことができず残業ばかりしている。そして周囲の手助けを決して求めようとしない。むしろ他者の手助けを拒絶、または効果がないようにしたりする。あなたの職場にもいるでしょう。いつも一生懸命残業している人。そしてそういう人ってあんまり愚痴をこぼさないでしょう。あの人たちは過度の自己犠牲に没頭しているのだ。他者への奉仕は一種の自己敗北であり、自己敗北とは保証された安心なのだ。それは「決して成功しないことを保証された安心」なのである。


このような成功への罪悪感を抱える者にとってマラソンは最適である。マラソンは簡単にゴールの喜び(達成感)を味わえないようになっている。達成感を味わうには、数十キロ走り自己を傷つけ貶めて、ようやくゴールする。そしてゴールした喜びを訊ねると、ランナーは皆一様に口を揃えて言う。「いえいえ、まだまだです」


マゾなのだ。心から遠慮し、魂から謙遜する、マゾなのだ。


私は人生においても、決して近道を探さずに、常に自己の成功へ簡単に向かわないよう、他者への奉仕と自分の恥と間違いを探し続ける。心理学では「道徳的マゾヒズム」ともいう。人生におけるマゾなのだ。


成功してはいけない。なぜならば成功すれば罰が当たるから。成功の次には必ず罰が待っているから。でも常に罰が当たっていれば、もう罰は当たらない。成功の裏には常に罰が牙を剝いているが、罰の裏には成功が手を広げて待っているわけがない。成功の次は必ず失敗だが、失敗の次は必ずしも成功ではない。


「やまない雨はない」ではない。

「晴れは絶対続かない」である。


幸せ慣れしていないと、成功に対してどう立ち振る舞いをすればいいかわからなくなる。「幸せすぎて怖い」と言う女性の半分は、彼氏の顔色を窺って言っているが、残り半分は案外本気でそう思っている。幸せが怖いのではない、幸せの後に来るであろう不幸に怯えているのだ。だから「あわよくばの幸運」を願う。アタシは幸せになろうとは思ってない。幸せを与えたのは神様の方でしょ。この幸せ、アタシ関係ないからね。と、幸運を外部要因のせいにする。そして、神様がくれるって言うんだったらもらうけど。と、こっそり享受する。


でも、幸運をこっそりくれない神様をちょっぴり憎む気持ちもある。だってこれだけ走ってるんだよ。痩せないなんておかしいじゃなーい! って小声で叫ぶ。俺は自己敗北のアワヨクバー。ベルトに乗っかるぽっこりお腹は自己敗北の金メダル。

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