第23話 女スパイを追尾する。
人生初のマラソン大会のスタートの号砲が鳴った。大丈夫、いつも通りに走ればいつも通りにゴールするはずだ。思い煩うことは何もない。妻だって応援している。俺は決して大会の雰囲気に飲み込まれていない。気のせいかいつもより足取りも軽い……よし、いける! 約21kmのハーフマラソンデビュー戦、スタートわずか1kmで本番への強さを実感した私は、同時に勝利を確信した。
そして10km過ぎ、私は雲一つない青空を見上げながら月曜からの業務の段取りと見通しを考えていた。すなわち歩いていた。仕事の辛さから逃げるために始めたマラソンだったが、今はマラソンの辛さから逃げるために仕事に思いを馳せている。ああ早く上司の無茶振りやスタッフの嫌味を聞きながらデスクワークしたい。昼休みに家系ラーメンを食べて腹をさすりながら罪悪感に打ちひしがれていたい。不条理で理不尽な世界に身を浸していたい……。残り10km、また1人のランナーが私の横を走り抜けていった。
なぜこんなことになってしまったのだろう。立ち止まって屈伸をして顔を歪める。左膝に激痛が走るのだ。我慢すれば走れるというレベルではなく、地面を蹴るたびに脳天へ響くような鋭い痛みが走る。あんなに練習したのになぜこんなことに。疑念と絶望と自己嫌悪で心と膝が押しつぶされてちっとも前に進めない。
まず、ペースが掴めなかった。「大会」という、大人になってからあまり縁のなかった概念に舞い上がってしまったのだ。そして「大会」に出ているという高揚感が自尊心を刺激し、その自尊心を心地よく肥大化させるために、幼少期からの必殺技「同一視」を行ってしまったのだ。
「同一視」とは、好きなモデルの服を着たり、仮面ライダーを真似て強くなった気分になったりと、自分の尊敬、理想とする者の振る舞いや特徴を真似たり取り入れたりして欲求を満たそうとする心の働きのことである。この同一視は、自分自身をより良く見せたい時や価値を高めたい時、つまり自分の弱さをカバーしたいときに発動される。
私は幼少期から「隠密行動」をしてしまう癖がある。40歳過ぎた今でも駅の構内を歩きながら、スパイの私は数メートル前を歩くサラリーマンを追尾したり(バレると任務失敗で依頼主から殺される)、忍者の私は通行人を目にも止まらぬ速さで斬撃したり(通行人は斬られたことにも気付かずにしばらく歩き続ける)、自宅で布団をかぶりながら敵から見つからないよう息を殺したり(4歳の娘にバレるとダイビングボディプレスをされる)する。この自分の弱さをカバーしたいときに発動される同一視「隠密行動癖」がマラソンでもいかんなく発揮されたのだ。
俺は市民ランナーに扮したテロリストを追尾し、時限爆弾の設置を阻止する国際刑事。テロリストは約10メートル先を走る若い女性ランナー。ポニーテールと爆弾のような大きな尻を揺らしている。決して追い抜いてはいけない。この距離を保ちながら注意深く行動を監視するのだ。彼女のポニーテールが揺れるたび、甘美な香りが漂う。汗と重なったその香りは背徳感をも感じさせる。はっ! 香りに引き寄せられて必要以上に彼女に近づいてしまった。今やポニーテールに顔を埋めてしまいそうな距離である。私の吐息に気付いた女テロリストが訝しげに振り向く。まずい、ハニートラップだ!
ドカーーーーン!
突然体に衝撃が走る。何が起こったのかわからない。左膝に鋭い痛みが走る。女テロリストの爆弾ではない、膝の爆弾が爆発したのだ。「え、遠隔操作か……」と呟いたところで妄想に一区切りつけて、現実の対応策を考える。まずい、国際刑事になりきるあまり、自分のペースで走っていなかった。国際刑事の俺は女テロリストと距離を保って余裕ある走りをしていたのだが、本当の俺はいい匂いのする女性をただひたすら追いかけていただけなのだ。
いい匂いの若き女テロリストはもう見えなくなった。
これでは実質リタイアのようなものだ。膝がキリキリ痛む。あれだけトレーニングをしていたのに、これまでの努力を否定されたようだ。絶望へ向かってゆっくり歩く。膝さえ、この膝さえ痛まなければ。そう、膝さえ痛くなければ栄光を勝ち取ることができたのだ。
『自己奉仕バイアス』といって、人は、成功は自分自身の能力によるものであり、失敗は制御不能な外的要因によるものだと思い込む。仕事がうまくいかないのは忙しいから(外的要因)で、仕事がうまくいったのは自分の能力が高いから(内的要因)である。自分の能力(内的要因)を高めるために同一視を行っているのかもしれない。今だって膝さえ痛くなければ(制御不能な外的要因)完走できたのだ。俺のせいじゃない。膝のせいなのだ。膝も俺のうちじゃないかと言われそうだがそんなことはない。膝は一つの人格を持った膝なのだ(第19回 猫背で自分の顔色を窺う 参照)。
膝さえ痛くなければ。このように怪我や病気には絶望だけではなく、ある種の希望が眠っている。外的要因のせいにすること、怪我であり続けることで見ることができる夢もあるのだ。治ってはいけない。治ると現実が待っているから。
私は、これまで週に何度も走っているくせにフォームも勉強しないし、ランニングに関する知識もつけようとしなかった。いわばランニングと向き合わずに距離を取っていたのだ。つまり、ランニングは私にとっていつまでも外的要因で、積極的に関与することを避けていたのだ。積極的に関与しないということは、全てのことが可能だということ。何もしないということは、何でもできる可能性を持ち続けるということである。何かしたら、何かをできない自分を知ることになる。いろんな経験をすることによって、いろんなことができない自分を知ることになる。「何もしない」と「何もできない」には雲泥の差があるのだ。
もう、何もできないことに気付かないといけない。できないことを知り、できるように克服していかなければならない。マラソンはもう外的要因ではない。俺の内側にあるのだ。瞳に決意がみなぎる。膝の痛みをこらえて、一歩一歩進みだす。誰かと同一視するのではなく、自分自身と同一視しなければいけない。俺は忍者でも国際刑事でもない。俺は、俺だ。さあ前に進もう。周囲が甘美な香りに包まれる。私の横を新たな女スパイが追い抜いていった。
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