第19話 猫背で自分の顔色を窺う。

ランナー膝は正確にいうと「腸脛靭帯炎(ちょうけいじんたいえん)」といい、長時間の膝の曲げ伸ばしによって腸脛靭帯が太腿の骨とこすれあって炎症を起こすものである。そんな状態で「いてえな。なんかいてえな」と我慢しながら走り続けていると、今度は足の裏が痛くなる。


これは「足底筋膜炎」というもので、足底筋膜というカカトの骨から足の指の付け根にかけて張っている厚い膜状の組織が炎症を起こしてしまうものである。つまり、膝の痛みをかばって走っていると徐々にランニングフォームが崩れてきて、衝撃を吸収する足の裏にまで悪影響が出てくるのだ。


ランニング中に膝や足の裏に痛みを感じることは、道半ばにしてランニングを断念しなければならないことを意味する。よって腸脛靭帯と足底筋膜には日頃から走らせて戴いている感謝を忘れず丁重に接しなければならない。


「腸脛靭帯さん今日もスムーズに動いてますねー。ほんと滑らかに足が前に出ますよ。いやー走ってて気持ちいいっ! しかも足底筋膜さんの今日の着地も神がかってる! 地面に吸い込まれる感じ? 地球を蹴っている感じ? 腸脛靭帯さんと足底筋膜さんがいればどこまでも行けそうな気がしますよー!」


と、あまりに意識するがあまり、それぞれの体の部位が人格を持っているような心理になる。しかも彼らの機嫌を損ねると恐ろしいことになるので基本的に敬語で話し掛けている。平昌オリンピックで金メダルを獲得した羽生結弦選手は「とにかく右足が頑張ってくれた」と言った。サイヤ人ナンバーワンの実力者のベジータに対し孫悟空は「カラダもってくれよ! 3倍界王拳だっ!」と叫んだ。


皆、自らを鼓舞するため、人格を持った体の部位に語りかけているのだ。


しかし私は羽生選手のように「とにかく右足が頑張ってくれた」と、部下を褒めるような視点では言えない。むしろ足底筋膜が「とにかく吉見が頑張ってくれた」と言ってくれる日を待っている。悟空のように自らの体を信頼しているわけではない。むしろ腸脛靭帯が「吉見もってくれよ! エキセントリック筋収縮だっ!」と叫ぶのを待っている。


このように常に腸脛靭帯や足底筋膜の顔色を窺い続けているため、ランニングフォームまでも自然にごまをする姿勢、すなわち頭が前に出た前傾姿勢となる。猫背で足が前に出づらく、膝も上がらないのでブレーキのかかる走りになり、結果として膝にすさまじい負担が掛かり腸脛靭帯さん激オコの事態を招くのである。


人生だってそう。人の顔色ばかり窺い、世の中に対する姿勢が猫背で前傾姿勢だと、精神に負担が掛かって人生の長距離レースを完走できないのだ。卑屈な精神は卑屈な身体を生むのである。


しかし、人の顔色ばかり窺っている者に限って「自己を常に客観視できている」とえらく達観した考えを持っている。自分の考え(主観)優先ではなく、他者の考えを優先しているから客観視できているという理屈である。しかしそれは人の顔色を窺い、人の顔色を通して自分の状況を確認しているだけでって、常に他人の目を通して自分を見ているという「偽客観視」なのである。


精神的に不健康な人は自己を客観視できない。自己を客観視しているはずなのに精神が不健康な人は「偽客観視」をしている可能性がある。健全な客観視は自己肯定感が高くなるが、偽客観視は自意識ばかりが高くなるので自分をよく見せよう、いい人に思われようと、お世辞を言う、謙遜する、お洒落をするなどの行動に徹してしまう。


なぜならば健全な客観視は「自己評価が自己評価」なのだが、偽客観視は「他者評価が自己評価」になるので、いくら相手から望ましい反応が得られて自己肯定感が上がったように思えても、夜にふと空虚感、虚無感に襲われるようになるのである。


名実ともに偽客観視スキルを所持している私は、今夜も自己肯定と自己卑下を同時に抱くアンビバレンスな状況による空虚感と虚無感から逃げ出すために夜の街を走り出す。俺は俺だ。この夜に、この道に、他人の目を通した俺はいない。ただ俺自身を見つめて、自分を信じて一歩一歩足を前に出し続けるのだ。そうですよね。そういうことなんですよね。腸脛靭帯さん、足底筋膜さん。


猫背で、泣き顔で、膝に負担を掛けながら、自分自身に問い続ける。自分自身の膝と足の裏に語り続ける。


そう、私はランニングを通して、他人の顔色ではなく自分の顔色までも窺い続ける「偽主観性」という新たなスキルを手に入れたのだ。ああ人格が、思考が、ランニングフォームが分裂する。

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