第18話 しくじらないで生きる。

5㎞過ぎたあたりから膝の外側に違和感を感じ、ひどいときはその日のランニングを断念せねばならぬほどの鋭い痛みが走る。通称「ランナー膝」といい、ランニング中に起こる膝痛の中で最も多い症状である。これは市民ランナーとしての通過点であり、この痛みにどう対処するかが今後のランナー人生に大きく関わってくるといっても過言ではない。


だから言う。「オレ、走ると膝が痛いんだよねー」と言う。「オレ、飲みすぎて昨日の記憶ないんだよねー」と同じ感じで言う。失敗談にスプーン1杯の虚栄を加え、武勇伝に変換させて言う。膝が痛いみっともない奴という情報を全面に出し、日常的にランニングしているオレすげぇだろという裏のメッセージを相手に伝えつつ言う。


ランニングを毎日しているがケガに悩まされる哀れな奴。健康のために始めた運動で身体を壊すしょーもない奴。そう、これも策、あれも策、たぶん策、きっと策。オレは決して完璧な奴ではないということを明かして親しみやすさを抱かせる、心理学でいう「しくじり効果」を駆使して自己卑下からの他者羨望を企んでいるのだ。


「しくじり効果」とは、とあるエリートがまじめな面接の最後にコーヒーをこぼしたことによって、周囲からの好感度が上昇したという実験に由来する。つまり「完全無欠のエリート」よりも、「エリートだけれどちょっぴりドジキャラ」の方が周囲に愛されるのだ。私は講師として教壇に立つことも多いのだが、しょーもないエピソードや失敗談を多く語る講義の方が学生の食いつきも強い。


ただ注意しなければならないのは、「しくじり効果」は周囲に有能であると評価されている場合のみ効果が発揮されるということで、職場では専門分野ならたいてい知ってるという完全無欠的な講師像が成立しているからこそ、「センセーもそんな失敗するんだ」というギャップを利用して興味を抱かせることができる。


しかし私の妻などにはこの「しくじり効果」は全く通用しない。なぜならば妻は常日頃から私を有能であると評価していないためであって、私がしくじったら「馬鹿がまた馬鹿をした」という評価になり、結構本気で叱られて結構本気でしょんぼりするのである。だから家庭では結構頑張って生きなければいけない。


つまり家庭における夫とは朝寝坊しない、毎日食器洗いする、明日の娘の保育園の準備を忘れずにするなどの「完全無欠さ」を求められており、「しくじり効果」が演出する「親しみやすさ」なんて全く求められていないのである。だから職場で受けた自虐ネタを妻に披露しても全く受けないのは、しくじりは万人に受け入れられるという夫の勘違いによるものなのだ。


更に「しくじり効果」は、有能な者が見せた失敗を、他者のせいにせず自分のせいだと受け入れ、認めることで周りの評価が上がる効果もあるのだが、家庭ではそもそも私は有能ではなく、失敗を他者のせいにせず自分のせいだと受け入れ、認めることが当然であるので、もうほんとに何が何でも真面目に生きなければならない。これが社会ではある程度認められているものの、自宅ではとことん不遇であることの要因である。


社会では愛されるのに、家庭では愛されない。「しくじり効果」を駆使して愛されキャラになるには、長所を伸ばし、欠点は放っていればよい。よって職場ではメンタルヘルスの高い専門性(長所)を持ちつつ、時々ドジをする(欠点)というキャラが成立する。しかし家庭ではメンタルヘルスの専門性なんて微塵も役に立たない。だから欠点ばかりが目立つことになる。


たとえば妻が仕事から帰ってきて少々落ち込んでいる様子なので、「私でよければ話を聞こうか」と、うつに対するカウンセラーらしく振舞っても、「聞かなくていいからチューハイ買ってきて。グレープフルーツの。ストロングのやつね」と、酒の使いを頼まれる。そして「はいわかりました」と即答したのち、「チューハイのストロングね。味はレモンだったっけ?」と確認すると、「今グレープフルーツって言ったばっかりじゃない!」と怒られて思わずオレがうつになりそうになる。


妻は軽いうつ気味になってもグレープフルーツのストロング缶を1本飲んでぐっすり眠って翌朝元気に仕事に行き、私は軽いうつ気味になってもランニングに出て気を紛らわせる。軽度のうつ病に対して節度ある適度な飲酒は心身に健康をもたらすし、ランニングなどの有酸素運動は、心理療法や薬物療法と同等の効果があるという科学的根拠もある。たしかに家庭ではメンタルヘルスの専門性なんて役に立たないのかもしれない。


しくじらないで生きよう。真面目に生きよう。今夜も私は決まった時間にランニングウェアに着替え、夜の街へ走り出す。そして5㎞過ぎたあたりから膝の外側に激痛を感じ、足をひきずりながら家路に着く。そうだ私はランナー膝だった(ドジっこテヘペロ)

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