第17話 でかい笛を振り回す。
運動不足解消のために軽い気持ちでランニングを始め、それはやがて習慣になり、そのうち走ることが楽しみになり、もしかしてランニングなしでは生きていけない感じ? 俺ってこんなに健康志向だった? と、舞い上がり、つけ上がり、ライフワークの一部になり始めた頃に激烈に膝を痛めて走れなくなる問題について。
何年も運動不足で過ごし、下半身の筋力がランニング強度に耐えられないまま走り続け、数日に一回走るという習慣になるにつれ、筋肉内に疲労が蓄積して柔軟性が低下し体重のかかる膝や足首などに違和感や痛みを覚えるようになる。走りたいけど走れない。つまり心が調子に乗って体が習慣についていっていない状態に陥る。
「最近走ると膝が痛い」という話をランニング経験者に話すと、決まって「ランニングしてるときの膝って体重の3倍の負荷がかかってるんですよ」と嬉しそうに言う。これ言わない人はいない。悲しそうに言う人もいない。皆一様に嬉しそうに言う。そんな豆知識に対して、これまで「へえー、そうなんですかー」と、辛うじて残存している社交性を駆使してそれなりの驚きを表現していたが、なんとなく心から驚くことができない自分に違和感を感じていた。
この違和感の正体は何なんだろうか。嬉しそうに言われることにムカついているんだろうか。いや違う。これは驚きの基準がわからないのに驚かされている違和感だ。3倍も何もそもそも起立時や歩行時の膝に体重の何倍の負荷がかかっているか私は知らない。基準がないから驚きようがないのだ。なのに驚くことを前提に話しかけてきやがる。「聞いて驚かないでくださいね。私こう見えて28歳なんですよー」「聞いて驚くなよ。小松菜のカルシウムはほうれん草の3倍なんだよ!」ほらね。
マーケティングに関する心理学で「アンカリング効果」というものがある。最初に提示された数字や条件が基準となって、その後の判断が無意識に左右されてしまうという心理で、船を水上で固定するために錨(いかり:アンカー)を降ろすと、そこが固定位置(基準)になりほとんど動けなくなることになぞらえている。
簡単に言うと「最初に見る数字や印象が基準点になる」という心理現象のことで、「特別価格10,000円」よりも「通常価格30,000円→特別価格10,000円」という値札をつけたほうが売れるのは、「通常価格30,000円」という部分にアンカリングしているためで「走行時の膝への負荷3倍」なんていきなり言うよりも、「歩行時の膝への負荷0.5倍→走行時の膝への負荷3倍」と言った方が驚きやすいのだ。だのにいきなり3倍とか言ってイヤね。
そういえば先日、電車内の広告で家具屋の店内が「東京ドームグラウンド面積 約2倍」と書いてあって、店内が東京ドームの約2倍⁉ と、えらい驚愕してしまったが、よくよく読んでみると「東京ドームグラウンド」と書いてあり、東京ドームグラウンドとはすなわち普通の野球グラウンドのことであり、野球グラウンドの約2倍と書けばいいところあえて「東京ドームグラウンド」と書くと、「東京ドーム」という部分に無意識にアンカリングして、広いな大きいなー今度の休日に行こうかなーなんて消費者は店に赴き、馬鹿だな阿呆だなーほんとに来るんだもんなーと悪い店員が迎え入れる現代にドロップキックしたいがなんせ膝が痛い。
ランニングで感じる痛みの第一位が膝らしい。次いで腰、ふくらはぎと続く。多くのランナーが痛みと折り合いながらランニングをしているのだ。そういえばなんとなく腰もふくらはぎも痛いような気がする。よって、怪我をしないために正しい知識、正しいフォームでランニングすることが必要となる。しかしそれらの情報は確かに長く走り続けるために効果があるのかもしれない。ただし私は長く走ろうと思ってランニングを始めたわけではない。俺はまだランニングという行為に対して、気まぐれの延長性上にいる。三日坊主が三日ごとに契約更新しているような状態をまだ脱し切れていない。要するにそのうち飽きるかもしれないのだ。
正しい知識と正しいフォーム。書籍やネットに書いてある通りに走る。これは説明書や攻略サイトを見ながらゲームをプレイすることに似ている。
安全にランニングするために、快適にゲームをプレイするために、いわゆるチュートリアルを通して基本動作、基本操作を学ぶのだが私は何事もチュートリアルの段階で飽きてしまうことも多く、できればチュートリアルをすっ飛ばして冒険に出発したい。そしてレベル1からトライ&エラーを繰り返して傷だらけになりながらレベルアップしていきたい。これがゲームを楽しむってことではないのか!
しかし、マラソンレベル2(マラソン大会未経験、シューズ・ウェア共に初期装備、課金なし)の私がマラソンレベル84の私の部下(サブスリー達成、隔日で20km以上ラン、全ランニングスキル獲得、体力カンスト、ラストダンジョン(100kmウルトラマラソン)攻略済、すなわちクリア後の世界の人)に話し掛けると、決まって安全に走り続けるためのチュートリアルが始まる。しかも業務上では忠実な部下であるため、かなり丁寧に教えてくれる。ただ注意しなければならないのはこのチュートリアル、1回話し掛けるとキャンセルが効かない。
走りたくて(クエストに出発したくて)うずうずしているなか、まず準備運動の重要性のレクチャーが始まる。しっかりとウォーミングアップをすることで、血行が良くなり筋肉がほぐれます。そうすると、筋肉の衝撃吸収率が高まって、膝への負担を減らすことができます。では効果的な準備運動をやってみましょう。
と、健康で文化的な最低限度の準備運動を終え、やっと走れる(クエストに出発できる)と思いきや間髪入れず整理運動の必要性のレクチャーが始まる。ランニングのあとクールダウンをしないと、筋肉が血液を送るポンプの役割を果たさなくなり、血流が悪くなります。そうなると、ランニング中に発生した乳酸などの疲労物質が解消されず筋肉の疲労や硬化を招き、炎症の原因となってしまいます。では効果的な整理運動をやってみましょう。
と、これでようやく走れる(クエストに出発できる)かなと思いきや、「走った後って腹が減るよね」なんていう私の不用意な発言に反応して、オススメの回復薬(アミノ酸サプリメント)や、道具の調合(豆乳とプロテイン)などのレクチャーが始まって、やはりキャンセルが効かないため「はい」を連打(連呼)する。
アミノ酸プロテインの値段など聞いて「そんなに高いんだ」などという発言をしたら、彼は趣味で株式投資もやっているのでゴールド(お金)の貯め方などのレクチャーもはじまり、やがてNISA(少額投資非課税制度)や仮想通過についてまで話は膨らみ、私は永遠にランニング(クエスト)に出発できずに世界を救うというハッピーエンドどころか、アミノ酸サプリメントを豆乳に混ぜて株式投資をするというバッドエンドを迎えるかもしれない。
だが目上の人の話を聞いているわけではなく、気心の知れた部下から話を聞いているので、社会的序列、上司的立場を利用して「うるせえ、黙ってろ」と、全てのチュートリアルをキャンセルし勝手気ままにクエストに出発してしまえばいいのだが、生来の完璧主義からくる強迫観念が俺の邪魔をする。昔からこういうチュートリアルって全ての項目をやってしまわないと気が済まないのだ。モンハンだって武器全部使わないのにクエストに出発する前に全ての武器のチュートリアルをする。「つ! か! わ! ね! え! よ!」と、憤悶しながらでかい笛(狩猟笛)を振り回したりしている。
私の強迫観念、強迫行為は歴史が長く結構強烈で、小学生の頃はドラクエで村人全員の話を2回聞く(2回目に違うことを言う人がいるから)だけに留まらず、村人全員のセリフを全てなぜかノートに書き写していた。自分でもつまらないことだとわかっていても、何度も同じ行為や確認を繰り返してしまうこの性質が大人になった現在も多少残存しているため、部下の話もめんどくせーなーと思いながらも「え? 今なんて言った? もっかい言って」などいちいち確認して全部聞かなきゃ気が済まなかったりする。
私は常日頃から何事にもいい加減にすることを心掛けているのだが、油断するとこのように規則や手順、形式に極端にこだわりはじめるため本来の目的を達成できないことが少なくない。精神分析的にいうとあらゆる物事に対して「~すべき」「であるべき」という観念が強すぎる「超自我の肥大」ってやつで、私の魂は厳しい道徳観や倫理観にアンカリングされているのだ。
私の魂に深くおろされた錨(アンカー)を引き上げ、私という船は夜の大海原を疾走する。精神を解放した私は徐々にスピードを上げ魂の汽笛を鳴らす。汽笛? いや違うこれは警笛だ! 走り始めて5キロ過ぎた頃、強烈に膝が痛くなり道路の真ん中に立ち尽くして呆然と夜空を見上げる。そこでようやく私は気付く。これまで私の膝を守っていたのは、過度に誠実な道徳観と倫理観だったということに。
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