第306話 地獄の大公、アスタロト

 ストン、と地面に降り立つアスタロト。

 輝く容貌の彼女を取り巻く、凍るような殺気。射竦いすくめられたヴェイセルは、立ちすくみ彼女から目を離せずにいた。

「この地獄の大公アスタロトに対し、誰だなどと無礼な問いを発するとは……、命知らずのやからだ」

 ちゃんと名乗ってくださいますね。

 辺りはしんと静まり返っている。空気が重くなったように感じた。


 この場にいる人達が全員、息を呑んでアスタロトの動向を見守っている。

 ほとんどが地獄の公爵ですら、目にしたこともないだろう。

 長い三つ編みを揺らして、ブラッドムーンの赤い双眸がヴェイセル・アンスガル・ラルセンを捉えている。さすがにヴェイセルも、彼女に攻撃しない。

 威圧的で冷たい魔力を放つアスタロトは、冷え冷えとした夜空に煌々こうこうと浮かぶ、触れることのできない孤高な真円しんえんの月のようだ。


「大公……、地獄の大公が何故ここに……」

 呟いたのは避難して宮殿の正面玄関からこちらを眺める、他国の人間だ。

 誰もが気になるところ。

「私の友である、ベルフェゴール殿を訪ねて」

 彼女もベルフェゴールが輿に乗るのを見に来たのかな。ルシフェルが降臨するから、というのも理由かも。観衆に告げた後、彼女はヴェイセルに視線を戻した。

「なんともけがれきった魂だ……、改善の余地はない。もう必要ないね」

 アスタロトの手が、ヴェイセルに伸びる。

 ヴェイセルを取り囲んだまま困惑していた親衛隊の兵達が、アナベルの合図で一斉いっせいに離れた。ロゼッタは宮殿近くでこの様子眺め、庇うようにベルフェゴールもいる。


「な、何をする……」

「君に大公の呪いを授けよう」

「大公の……呪い……?」

 絞り出すように、繰り返す言葉だけを口にする。

 アスタロトの手のひらからは透き通る黒の魔力があふれ、白い衣装に薄い金色の髪の彼女とのコントラストが、やけに鮮明に映った。

「君が何をしてきたのかなど、魂の状態で簡単に想像がつく。私は地獄にて、魂の管理をしていたのだから。まあ、今は魂の契約はごく限られた場合にしか行われていない。仕事があまりないのだよ」


 観衆がざわめく。

 大公の呪いがどんなものか見当が付かなくても、この先彼がマトモに生きられないであろうことは理解できる。

 周辺にまで被害を及ぼすものではないか、が皆の気掛かりかな。


「世界における人の本分を忘れ、魂の昇華をおこたった者よ。己がしいたげた罪なき魂へ、悔悛かいしゅんの時間を与えよう。そして君は一年後のこの時間、魂ごと消滅する」

「やめろやめろ、うわあああぁぁあ!!!!!」

 黒い魔力の塊が、ヴェイセルへと移行する。

 ヴェイセルは膝から崩れ落ち、その場に座り込んだ。見下ろすアスタロトの瞳はやはり、とても冷たい色をしていた。

 魂ごと消滅する呪い。

 呪いを受けても、ヴェイセルの見た目に変化はない。黒い魔力はヴェイセルの内部に染みるように入り込んだ。恐怖を感じたのか、息が荒くなっている。

 どんな影響があるのかも判らないので、ヴェイセルには誰も近付けないでいた。


 呪いが成功したのを見届けたアスタロトは、スッと飛んだ。

 そしてボックスになっている観覧席に座る、ルシフェルの前に降りてひざまいた。大公が膝をついたのだ、事情を知らない人達が驚いてどうなっているんだと小さく囁き合っている。

 ちなみに悪魔好きクレーメンスは、ルシフェルの側からいなくなっていた。追い出されたのか、捨てられたのか。諦めて仕事に戻ったのかな?


「お見苦しい姿をお見せ致しました」

「構わない。さすが大公、見事な技だったね」

「恐悦至極に存じます」

 ルシフェルに褒められて、嬉しそう。

 呪いは相手に魔力を残すので、自身の総魔力量が少しだけ目減りする。王や大公からしたら本当に僅かな量だが、無駄に消費するのは得策ではないので、無闇に使ったりしないのだ。


 大公の上は、王。


 ルシフェルが王だと、召喚術に知識のある者なら理解できただろう。王の中でも、地獄の皇帝陛下に近い最上位の存在だったりするが。

 上空の魔導師達も、すっかり動きを止めたまま。彼らの方が危険性を理解しているので、迂闊に動けずにいた。

「……そろそろ余興の幕を引いてもらおう」

 ルシフェルは微笑を浮かべたまま立ち上がり、周囲を見渡した。

「ご命じください、全て御心にかなうように致します」

「……いや」

 手を頭より上に向けた。何が起きるのか、ルシフェルの手から指先、そして指し示された空へ注目が集まる。

 空からは霧雨のような、小さく細かい光の粒が雪のように止めどなく舞い降りてきた。


「これは……光?」

「攻撃ではありませんね」

 魔導師達が確認する。どちらにしても、ルシフェルが本気で攻撃を仕掛ければ人間の唱える防御魔法で防ぐのは不可能だ。

「ふふ、ただの祝福だよ。罪人を捕らえよ。儀式の続きを行いたまえ。大公、必要であれば手を貸すように」

「心得ました」

 ルシフェルは再び観覧席の椅子に座り、アスタロトは軽く飛んでベルフェゴールの隣に降りた。


 殿下も動きを止めていたが、すぐに命令を発する。

「……襲撃した者達は、身内も含めて捕らえよ! 家族は抵抗しなければ、拘束は必要ない」

「大変! 私、戦っておりませんわ!」

「ロゼッタは戦わなくていいんだよ……」

 皇太子妃がドレスで暴れるつもりだったんだろうか。

 さすがに……と思ったけど、王妃殿下はバルコニーで仁王立ちしていた。国王陛下は狙われなかったのであちらへの攻撃はなかったが、襲撃されたら王妃殿下が応戦するつもりだったのかな……!


「卑劣な犯罪だけじゃなく、よくもロゼッタを狙ってくれたね! ラルセン侯爵をここに引っ立ててきなッッ!!!」

 バルコニーで見守っていた王妃が、室内の親衛隊長に命じた。息子のヴェイセルは許されざる犯罪行為に手を染めていたのだ。侯爵家はどうなるんだろう。

 いったん止まっていた時間が、また動き出す。


 さすがに襲撃してきた人達も、既に戦意はなかった。クーデターの主要人物は罷免された宮廷魔導師で、悪魔の脅威に詳しい人達だ。王や大公を敵に回す選択は有り得ない。

 クーデターに加わった魔導師達は地上に降りて、拘束された。

 警備兵に紛れたのは、彼らの配下や雇ったりした者達。主が捕縛されたのだ、これ以上抵抗の意思はない。


 ヴェイセルは呪いとはなんだ、とぶつぶつ呟きながら手のひらを凝視している。呪いの効果はこれからだろう。悔悛を、と言っていたので、嫌でも反省するような幻を見たりするのかも知れない。

 彼からはまだ聞き出さねばならないことが山積みだから、即死でなくて良かったわ。

「……来るんだ」

 座り込んでいたヴェイセルを親衛隊員が逃げられないよう両側から挟み、腕を掴んで立ち上がらせた。魔力を抑える手枷をして、行く先は地下牢。


 大規模な逮捕劇なのに、やたら静かなのが不気味なくらいだわ。

「おう、イリヤさん」

 地面に降りて連行される人々を眺めていると、後ろから名前を呼ばれて振り向いた。赤い髪が目に入る。殿下の側近、ジュレマイアだ。

「随分な大事になったな。このあとのパーティーには参加するか?」

「いえ、今日は妹と食事を致します」

 この雰囲気からのパーティー。何とも言えないものになりそう。

 国賓の方々は宮殿の中に避難を完了しており、パーティーまでいったん待機してもらう。宮殿内では異変がなかったので、パーティーは予定通り開催するそうだ。

「そっか~。きっとベリアル殿達の話を、各国から尋ねられるだろうなぁ……」

「そういえば、フェネクス様はいらっしゃらないんでしょうか?」


 エグドアルムで最も高位の悪魔は、侯爵フェネクス。

 これが公式に発表されている情報だ。サンパニルまで殿下を心配して訪れた彼が、パレードにいないとは。

「契約者が今、病気療養中なのさ。今回はまだ風邪くらいなもんだが、亡くなれば地獄へ帰るだろうな。次に高位なのは子爵だから、隣国と同じになる」

 なるほど、そういう事情が。

 そこに急に大公だの王だのが現れたのだ、今回招待されていた各国はエグドアルムの悪魔事情に興味津々だよね。ちなみにベリアルと一緒にいるから高位貴族悪魔と会う確率が高いが、通常は伯爵以上なんてそうそう召喚に応じてくれない。


 ふと宮殿に目をやると、正面玄関の前で女の子が外を眺めながら行ったり来たりしている。

 リニだ。

 エクヴァルの元へ行きたいが、地獄の王だの大公だのがいる場所を通らなければならないので、外に出るのも怖くて悩んでいるに違いない。王都の門へ行ってしまったエクヴァルは、まだしばらく戻らなそう。

「ジュレマイア、お喋りしてないで!」

「悪いエンカルナ、すぐ戻る」

 同じく親衛隊のエンカルナが、ジュレマイアに働けと発破を掛ける。全部済んだし、私はこれで宮殿から出ようかな。

「失礼します」

「またねイリヤさん、ルシフェル様と遊びに来てね!」


 警備兵もたくさん集まり、班ごとにまとまってキビキビと動いている。

 魔導師達はアスタロトが見守るから、非常に大人しい。あとは積極的にクーデターに参加した人の家族を連行するんだな。ほとんどが見学で王都にいたが、領地にいる人には兵を差し向けねばならない。

 庭園では自ら名乗り出たクーデターに参加した魔導師の身内が、大人しく付いて行く姿があった。

 私はまだ宮殿の入り口で困っているリニと合流した。

「リニちゃん、一緒にエクヴァルのところへ行きましょう」

「あ、イリヤ! ……う、うん」

 リニは私の後ろにいるベリアルを見上げてから、意を決したように頷いた。


 慌ただしい王宮の敷地内と違い、門の外の広場や街中は閑散としている。

 あんなに混んでいた道が、兵が点在するだけになっていて歩きやすい。不思議な感じだ。堂々と歩く私達の姿を、建物の中へ避難していた人が窓から眺めていた。

 なんだか見世物になった気分。リニも居心地が悪そう。

 王都の門へ行く途中、とあるお店の前で声を掛けられた。

「あの……イ、イリヤ様では?」

「お久しぶりです」

 たまに買い物をしていたフルーツショップの店員の女性だ。出奔しゅっぽんしてから、一度も行ってなかったわ。

「ご無事だったんですか……っ、お亡くなりになったとばかり」

「お陰様で生き延びております。襲撃事件も片付きましたよ」

 実は生きてます、と自分で告白するのは何とも申し訳ない気持ちがする。相手は喜んでくれているとはいえ。


「こちらは……?」

 私達のやりとりを見ていた、別の店の店員が尋ねる。

「宮廷魔導師見習いの方よ! 宮殿が襲われたって話だったけど、解決したんだって」

「早い解決だったな! おおい皆、外に出てもいいぞ!」

 男性が大きな声で呼び掛けると、建物の中や路地裏に隠れていた人達が、安堵の表情で姿を現した。

「こちらの可愛い小悪魔ちゃんと、契約しているんですか? 後ろの方は……護衛の騎士様ですね!」


 女性店員はお仕事偉いね、とリニの頭の角の間を撫でている。リニは目をパチクリさせ、違うけどどうしようと紫の瞳を困惑で揺らしていた。

 ベリアルは特に訂正するつもりはないようなので、こっちは放っておこう。

「申し訳ありません、王都の正門に用がありますので。リニちゃんの契約者の方と落ち合うんです」

「失礼しました、お気を付けて! 小悪魔ちゃん、またね。契約者さんとお買い物に来てね~」

 店員が手を振り続けるので、リニは何度も振り向いて、その度に小さく頭を下げていた。


 門に近付くにつれ、人が多くなる。さすがに騒がしくなってきたし、動きも慌ただしい。まだ混乱しているのかな。

「門の外にも魔物が出たらしいぞ!」

「さっき来た親衛隊の人達が戦ってるよ、早く逃げなきゃ」

「とにかく、ここから離れるんだ」

 口々に避難を促す言葉が聞かれる。こっちにも魔物が!?

 人でごった返していて、歩いて門の外に出るのは時間がかかる。

「リニちゃん、変身してくれる? 飛びましょう」

「うん! エクヴァルが心配……、私、邪魔にならないようにするから」

「危ないと思ったら、コウモリになって逃げてね」

 リニは黒猫とコウモリに変身できる。今回は黒猫になり、私の肩に乗った。猫なら片言で喋れるが、コウモリになると話せないのだ。


「我の獲物を用意しておくとは、なかなか気が利くではないかね」

「一般人を巻き込まないくださいね」

「兵なら良いな」

「良くないです」

 ベリアルが楽しそうにしているので、危険だ。エクヴァルがいるから、危なそうならすぐに下がるよう命令してくれるよね。

 どんな魔物が出たのか……、門のすぐ外には親衛隊が戦う姿があった。

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