第154話 その頃のルシフェル様とベリアル殿(ベリアル視点)
「温泉にでも行こうか」
イリヤ達が旅立った後、ルシフェル殿が提案された。提案と言うには拒否権がないものであるが。どうやらシャワーしかないこの家は、不満であるようだ。
「温泉であるかな。確か、エクヴァルがエグドアルムからこちらに来る際に、温泉街に立ち寄ったと言っておったわ」
「ならばそこにしよう」
地獄にも温泉はたくさんある。特に我の領地にある岩場には、硫黄臭の充満したエリアもあるほどだ。真っ赤なものもあるぞ。
チェンカスラーにも湧いていそうであるが、あまり観光資源とはしておらんようで、温泉街などはないのだ。
伝え聞いた内容を思い出しながら北に向かって進み、それらしき町を見つけた。この国は湯が多く湧くようで、幾つかの町が温泉を中心に形成されておる。
あまり雑然としておらぬ、洗練された町を選ばねばならぬ。
さて、ルシフェル殿が気に入られるような宿があるであろうか……。
すぐ北にある温泉街へとルシフェル殿が降りて行ったので、我もその後から大通りに降り立った。何故か人間どもが同じ方向から、何かから逃れる様に走って来おる。悲鳴を上げている者もおるが、来ただの助けてだの、何の事やらさっぱりと解らぬ。
「騒がしいね」
「他に感想はないのかね?」
そう言いつつも、様子が気になったようであるな。逃げまどう人々の様子を眺めておると、近くの商店から男が出てきて我の手首を掴んだ。不敬であるな。
「おい、いや、あの。身分のある方かと思うんだが、お供は? 今はここは危険なんだ、建物の中なら安全とも言わんけど、とにかく突っ立ってないで中に入って」
「危険とは、どのような?」
ビクビクと何かを恐れがら我らに声をかけてきた男に、ルシフェル殿は場に似合わぬいつもの笑顔で質問をする。
「悪魔だよ、悪魔が来たんだよ! どこかで召喚されたらしいんだが、警備兵が倒されて、今は町の商工会の奴らや冒険者が避難の誘導をしつつ、悪魔の動向を探ったりしてる。国からの派兵もそのうちあるから、まずは隠れて待つしかない」
「……悪魔」
どうにもタイミングの悪い者が居たようである。楽しみに水を差され、ルシフェル殿の笑顔が凍っておるぞ。
大声で騒ぎなら人間どもが逃げまどう後ろから発せられる、地獄の者の気配。だんだんと近づいて来るのが解る。目の前で若い女性が転ぶので、仕方がない。手を貸してやった。皆が我先にと逃走しておる。
「ありがとうございます。あの、もうそこまで来てます、早く逃げなきゃ……」
青ざめた顔で訴えてきおる。手が震えていて、走るのすら容易ではないようだ。
姿を現したのは、黒い短髪、黒い瞳で細い体をした、黒のジャケットを着た悪魔。
「追いついたぞ、人間め!」
「地獄の長官の一人、マルファスではないかね」
「……は? ベリアル様、それに……」
我らの姿を目にしたマルファスは、目を大きく見開いた。
「ル、ルシフェル様!? まさかこちらの世界にいらっしゃったとは……!」
ルシフェル殿が人間に召喚される事を好まないのは、有名であるからな。契約も短期しか絶対にせんぞ。
慌ててルシフェル様の前に跪く、危険と思われた悪魔の態度の変化に、逃げていた者どもが走るのをやめ静かにこちらを窺っておる。
「……私は安閑と過ごす為に来ているのだけれど?」
「失礼しました。無礼な喚び出しに、興奮しちまいまして……」
「まあ良い、そなたは地獄へ戻っておれ。その様子では、契約をしたわけではあるまい?」
「はい、しておらんです。術師がいるんでしたら、早々に帰りたいのですが」
そういえばイリヤ達はおらんのだな。こういう時は不便であるな。それなりに召喚術が使えれば誰でも良いのだが、我らに心当たりなぞないわ。
「あの、私がやりましょうか」
名乗り出たのは、マルファスが来た方向と反対から来た女だ。今ここに到着し、事情がよく解ってはおらなんだようだ。緋色のローブを着て、髪は黒に近いこげ茶色。長い前髪を花の飾りがついたヘアピンで留めておる。
どこかで見た事があるような?
「任せよう……ぬ?」
「あれ!?」
「クリスティン、無茶をするでない……、は?」
そうである、我が配下クローセルの契約者、クリスティン・ジャネス! あの騒がしい女である!
「君は、ベリアルの配下の……」
「クローセルにございます。閣下、ルシフェル様、お久しゅうございます」
慌ててクローセルが跪き、黒いロングコートの裾が地面に触れた。クリスティンも真似て跪いておる。
「わわ、ベリアル様お久しぶりです! ルシフェル様と仰るんですね、初めまして。クリスティン・ジャネスです」
「まずは彼を送還してもらえるかな。宿を探したい」
自己紹介を終えると、ルシフェル殿にせっつかれて早速マルファスをクリスティンが送還し、一件落着であるな! 念のためにクローセルが誘導した故、問題はないであろう。何かあってもご機嫌斜めのルシフェル殿を目の当たりにしておるからな、何も言えまい。
「ありがとうございました! 一時はどうなるかと……」
警備兵や冒険者が寄ってきおった。ええい、騒がしくするなと言うに!!
「我らは休息に来ておる。どこぞ、良い宿はないかね?」
「宿ですか。商工会の連中も来てるんで、用意させますよ」
とにかく趣のある豪華な宿を、そしてルシフェル殿は天蓋付ベッドでなければならぬと要望を伝える。さすがに天蓋付を新品では用意できないと言うので、布団と枕とマットレスを新品で用意させることにした。
この者のワガママにも困ったものよ。我のように、寛容でなくてはならんな。
クローセルとクリスティンも宿を探しているようであった。折角なので同じ宿にするが、ただでさえルシフェル殿の機嫌はあまり宜しくない。この騒がしい娘を無駄にはしゃがせぬようにと、クローセルに言いつけておいた。
紹介されたのは小高い丘の上にある宿で、門から石畳を歩けば、手入れされた庭の木や灯篭が出迎える。玄関は木造りでオレンジ色の灯りが柔らかい、落ち着く風情が漂っておった。
我らに用意されたのは、玄関ロビーを抜けて外の細い道を進んだ先、離れの三つある小さな建物。一つの建物に一組ずつ泊まるようだ。クローセルたちは隣の建物へ向かった。
ベッドルームが別れておる故、ここで良かろう。風呂付というなんとも気の利いた部屋である。ルシフェル殿が湯殿を使う時は立ち番をせねばならぬかと思っておったが、これならば必要あるまい。
「悪くない」
どうやらルシフェル殿も気に入ったようである。
案内した宿の者が、茶を淹れて差し出してきた。行き届いて居る。
「恐縮です。先ほどは騒ぎを沈めて頂いたそうで、皆がとても感謝しておりました。本当に有難うございました」
「造作ない事よ。気にするでないわ」
「いえ、皆にかわって御礼申し上げます。ところで、夕食は十九時で宜しいですか? こちらにご用意いたします」
「うむ」
確認を終えると、女中は静かに出て行った。
部屋に運ばれるのか。これは良いな!
「さて、ルシフェル殿。パイモンの処分はどうするのだね?」
「そうだね。バアルに任せるよ。ただ、反省しているかは確かめたいね」
「まあ、パイモンであるからな。ルシフェル殿に憤慨されることが、一番の罰になろうよ」
「そういうものかな」
「そういうものよ」
かなり全身全霊で好意を示していると思うのだが。あまり感情の動かんタイプであるからな、ルシフェル殿は。好き嫌いよりも、怒りの感情に一番素直ではないかね。
やがて運ばれてきた料理は見た目が美しく味も良く、野菜をふんだんに使っており、ルシフェル殿の舌に合う物であった。
風呂はヒノキの浴槽で湯船がエメラルドグリーンに輝き、とても良い。ルシフェル殿は朝にも堪能されていた。
天蓋付のベッドがあるのはこの部屋だけだったようなので、空いていて良かったわ。内装も落ち着いていて重厚感があり、外を見られるように、広い窓に向けて椅子が設置してある。
うむ! 旅とはこうでなくてはな!
一緒にいるのがルシフェル殿というのが、さすがの我も気を使うが……。
朝食を済ませてくつろいでおると、クローセルとクリスティンがやってきおった。
「おはようございますー! お二方は、今日はどうされるんですか?」
「そうだね。ゆっくりしてから、土産物でも買おう」
「ご一緒してもいいですか?」
「これ、御迷惑を考えんか、クリスティン!」
クローセルはこの者が少々イリヤに似ておると言っておったが、確かであるな。この興奮して王にとんでもない事を言い出す所など、そっくりである。普通は遠慮するものを。小娘の子供の頃も、このような感じであったな。
「構わないよ。あまり騒がしくしなければね」
「わひゃ、気を付けます……」
「いつもの澄ました調子になれば、良いのだわい」
早速釘を刺されて、クローセルがため息をついておる。
「でも地獄の王様ですよ。興奮しますよ! あ、そうです、ルシフェル様!!」
「クリスティン!」
何を言い出すか見当がついたらしく、クローセルが止める。しかし勝手に盛り上がっておるクリスティンは、制止も聞かずに右手を突き出した。
「握手して下さい!!」
始まったな! ルシフェル殿は少々呆れておるが、応じて軽く握った。
「嬉しいい、ありがとうございます!」
「大変申し訳ありません、私の教育が至りませんで……」
クローセルは冷汗をかいて謝っておるぞ。当の娘は、目を輝かせて喜んでおる。握手した手のひらを眺め、さらに我に向かって差し出してきた。
「はわ、やったあ! ベリアル様も、ついでに握手して下さい!」
「我がついでとは、どういうことだね!!!」
「いい加減にせんか、クリスティン!」
ルシフェル殿は楽しげに笑っておる。
全く、とんでもない者と会ってしまったものよ。
まあ良い、またルシフェル殿は色々と購入するであろうからな。荷物持ちくらいには使えるであろう。
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