第42話 ベリアルという悪魔(ジークハルト視点)

 執務室に響いていた、ペンを滑らせる音が止まった。

 書類を片手に溜息を漏らす。

 私、ジークハルトは、今日の失言を後悔していた。

 午後の見回りをしていた時、問題になっているビクネーゼ商会の経営者と、イリヤという女性が話しているところを見掛けた。街を一周回って部下と別れたところで、今度は商業ギルドのギルド長と談笑している姿を見た。

 普通に考えれば職人とギルド長が話をしていてもおかしなことではないし、ビクネーゼ商会は職人を引き抜きたがっているのも解っていた。

 あんなことを言うつもりではなかったのに。

「……だめだ、アレは八つ当たりだ……。なかなか奴らの不正の証拠が掴めないからと言って」


「……下らぬ理由で我の契約者を、傷つけたな? そなたの態度は、もはや我の許せるものではない」

 誰も居ない筈の暗闇から聞こえた声に、私は弾けるように振り向く。

 部屋の隅の闇に紛れて、赤い髪が明かりに照らされていた。

「……ど、どこから!? 確かベリアルと……」

「そなた如きが呼んで良い名ではない!!」

 怒りに呼応するように、何かが皮膚を弾く。立ち上がると椅子がガタリと揺れて、大きな音をたてて床に倒れた。


『契約者が嫌な思いをするの、怒るよ』

 そう心配していたシルフィーの言葉を思い出す。

 自分でもどうしてと思う程、嫌な態度をとってしまった自覚はある。

「……私が悪かったのは解っている。後できちんと謝罪を……」

「そのようなものは必要ない。許されぬと、言った筈である」

 冷淡な態度と、例えようもない程の威圧感がベリアルから放たれている。

 身動きすら取れない。目を反らしでもしたら、その瞬間に命を奪われそうだ。

 情けないが足が震えてきそうだった。今まで感じたことのないほどの、圧倒的な力の差に対する恐怖。


 スッと、ベリアルの手が私の右手に向かって上げられる。

 肘の近くに熱さと痛みを感じ、バチンと何かが割れるよな音がした。

「うぁ…ッ!?」

 右腕が……折れている!?

 魔力の収縮は感じたが、それだけでこんな効果が出るのか!? 私は痛む腕を左手で押さえた。爵位のある悪魔だろうとは思っていたが、それがどのような存在かという理解が、私には出来ていなかったのか……。

 とてつもなく強いとか恐ろしいと人伝に聞いていたが、高位の悪魔が戦う姿を実際に見る機会など、ほとんどの人間にないだろう。

「次はどこにすべきか? 選ばせてやろう」

 無情な赤い瞳が細められ、歪んだ笑みでわざとらしく、ゆっくりと一歩近づいてくる。

「……くっ」

 逃げられないとは嫌と言うほどわかる。これほどの相手を、探ろうとした自分が愚かだったことも。

「では……足かね?」

 右手が足に向けられる。反射的に目を閉じた、その瞬間。


 バタンと外から窓が開き、カーテンが大きく揺れた。

「ベリアル殿! おやめ下さい!!」

 開け放たれた窓からシルフィーを肩に乗せて、イリヤが飛び込んで来た。

 シルフィーが呼びに行ってくれたのか。一人で外に出ることでさえ、怖がっていたのに……。

「……なぜ止める。こやつはそなたを愚弄した」 

 ベリアルの声は明らかに不機嫌で、隣に立ったイリヤにも冷たい瞳を向ける。

 自分が傷つけた女性に助けられるとは、守備隊長などと言っても情けないものだ……。

「ですが……何も、ケガを負わせるなんて」

「必要ないと申すか? 我にはそなたを守れぬと?」

「そのような事はありません、それに私は平気で……」

「そなたはっっ!!!」

 必死に止めてくれるイリヤに対して、唐突にベリアルが声を荒げる。拳を振り上げて、壁を勢いよく叩いた。バンと大きな音が、静かな夜の闇を裂く。


「平気だと!? 信じられぬ! そなたは我に何も言わぬではないかね! いつもそうだ!! あの頃……なぜ我を地獄へ還したままにした!? あのように傷ついているとは、我は何も知らずにおった! この我が……契約者を守れなかったのだ……。どのような屈辱か、そなたに解るか!?」

「……そ、そんなつもりでは……」

 彼女もまさか、彼がここまで気に掛けているとは思っていなかったのだろう。戸惑って言葉を詰まらせる。

「……我は、そなたを傷つけるものを許せぬのだ。なぜ解らぬ!」

 屈辱と言葉にしながら、ベリアルの赤い瞳に浮かんでいるのは悲痛や後悔、悔しさが混ざった感情に思えた。


 守れない辛さ……。それは私にもよく解るものだ。どんなに力を尽くそうとも間に合わなかったり、無力を覚えるだけの時もある。こんなに強い存在でも、そんな思いに苛まれることがあるのだろうか…。

 今まで、彼女達が何故この町に来たのか、何をしていくつもりなのかを考えたりはした。だが何があってやって来たのかと、慮りはしなかった気がする。

 悪い男に追われてと門番のマレインから聞いたが、まさかと思ってあまり信じていなかったかも知れない。

 ベリアルという悪魔の様子からするに、彼女は以前誰かにかなり傷つけられていて、それを知らされていなかった彼は内心で忸怩じくじたる思いを抱いていたようだ。


「なぜ……辛いの一言を告げるに、何年もかかるのだ……!」

「す……すみません、契約事項になかったので……」

「……なんだね、それは。……そなたは本当に気が抜ける」

 はあ、と大きくベリアルが息を吐いた。

「……そなたら、今聞いたことは忘れよ。全く、我としたことが……」

「ふふ、忘れませんよ。私の為に怒って下さっただけで、私は嬉しいんです」

「忘れろと言うに! 相変わらず生意気な小娘だ!」

 あれだけの悪魔の怒気に触れても、またすぐ笑える……。彼女の丹力も大したものだと思う。

 ベリアルはふん、と唸って後ろを向いた。


「あの、これをお使い下さい」

 去り際に彼女は一本のポーションの瓶を差し出してくれた。

 上級ポーションだ。こんな高価なものを?

「だからっ! そなたはお人良し過ぎる! 少し痛い目を見せておけばいいのだ!」

「もう十分、見たと思いますよ。それに、こんなものはいくらでも作れるんですから!」

 いくらでも? 露店ではせいぜい、中級を声を掛けた人だけにこっそり販売しているくらいだったが……!?

「いや、ポーションなら備品があるから」

 私は断ったが、彼女はポーションの瓶を執務テーブルに置き、そのまま飛行魔法で窓から去って行った。


 ソファーの隅っこで小さくなっていたシルフィーが、二人が夜の向こうに消えてから、ようやく私の肩にやってくる。

「ジーク、大丈夫? ジーク痛い?」

 彼女の方が泣きそうだ。私は大丈夫だよと告げて、せっかく貰ったポーションを飲んでみた。

 利き手を折られたので、左手で蓋を開けて一気に口に流し込む。

 飲み干すと効果はすぐに現れた。折られた腕はすぐに元通りになり、他の時についた小さな傷までしっかりと治っていた。

 こんなに効果が高くて早いポーションは、初めてだ。かなりの修行をしたのではないだろうか……。

「治った、すごい! あの子のお薬、すごいね!」

 無邪気に喜ぶシルフィーの頭を指でそっと撫でる。

「ありがとうシルフィー、君のおかげだ。一人で夜、外に出るのは怖かったろう?」

「ううん! ジークを助けたかったから!」

 こんな小さな妖精でも、一生懸命助けてくれたんだな…。


 この子は、召喚されて観賞用に売り買いされていたのを助けた子だ。

 最初は酷く人間を恐れていて、元の世界に送還しようとしても、召喚術師が近づくだけで泣き叫んでいた。

 助けた私には懐いてくれたから、出来るだけそばにいて、今でも一緒にいる。今では帰るよりもここにいると、言ってくれている。

 シルフィーを心配させない、そしてしっかりと守ってやれるようにならないとな……。

 大変な出来事ではあったけれど、少し気持ちがすっきりした気がする。

 明日からは焦らずに仕事に邁進して、彼女にしっかりと謝罪しよう。

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