第29話 情報交換
翌朝、路子が事務所に着くと机の上のパソコンを起動する。いつもの様にカプセルコーヒーを淹れてから椅子に座り、コーヒーをすすりながら経済ニュース・サイトのページを開いた。
「ぷっあ! こんな事が起きるなんて、あちちち」
路子の目に入ったのは、一面トップで『ゼーマン・エレクトロニクス、ペールキューブにM&Aを仕掛ける』という見出しの記事である。それを読んで慌ててコーヒーを吹き出してしまったのだ。そこへ、啓太が出社して来た。
「おはようございます」
路子はしょぼい顔をして、ティッシュをポンポンと叩きながらスーツにこぼれたコーヒーを拭きとっている。
「やだわー、クリーニングに出したばっかりのスーツなのに、シミになっちゃうわー」
「どうしたんですか、朝っぱらから」
「ちょっと、大変な事が起こったのよ」
「ロコさま、何が起こったんですか?」
「あのアメリカの大手電気メーカーのゼーマン社が、ペールキューブ社にM&Aを仕掛けたのよ」
「M&Aって何でしたっけ?」
「企業買収よ、ペールキューブ社の株を買い占めて子会社にしようとしてるみたいなのよ」
「え、子会社にされる? スンファン電子とペールキューブ社が合併しようとしていたんじゃなかったでしたっけ」
「だから私も驚いてるの。全然知らなかったわ、こんな話。このゼーマン社は買収した会社を徹底的に人員整理する事で有名なのよ、従業員たちは恐れおののいているんじゃないかしら」
「ペールキューブ社はどう対応するんですかね」
「あの会社は業績が良くないから銀行から資金を調達するのも大変だし、国内の電機メーカーに協力を仰ぐのも難しいでしょうね、経営陣はパニックになってると思うわ」
「ロコさま、タブレット火災の問題は何か影響しますかねえ」
「そうねえ、……私にはわからないわ」
――ピキーン。その時、新しく買ったスマホにメールの着信音が鳴った。
「あら、子ブタちゃんからメールが来たわ」
路子は机の上に置いてあったスマホを取り、メールをタップする。
「えーと、『タブレットが燃える動画のコピーがあれば、五〇万円出すことあるよ』ですって!」
「まだあの動画を欲しがってるんですか、彼は今どこにいます?」
「ちょっと待って、地図を調べるから。……今は東京駅の近くにいるわよ」
「なんて返事を書くんですか、ロコさま」
「うーん面倒ね、ブロックしちゃおうかしら、ぷちっ」
路子は pink_no_kobutachan_dazo のアカウントをブロックした。
――プルルルル。今度は電話が掛かって来た。
「はい、コンソルロコの椿坂です」
「もしもし、ペールキューブの早川です」
「あら、早川さん。どんなご用件ですの?」
「うちのニュースはご覧になりました?」
「ええ、びっくりしました。早川さんは知ってらしたの?」
「全くの寝耳に水です、わが社は朝から大騒ぎですよ。それより昨日、前川から椿坂さんはタブレット火災の事件はスンファン電子の陰謀だと疑っているとお聞きしたので、今日の午後直接会ってお話を伺いたいと思いまして電話しました」
「ゼーマン社からの買収問題のほうが緊急事項なのに、なぜそんなに慌てて私の話を聞きたいのですか?」
「この電話では詳しく話すことができません。少し急いでおります、なんとかお会いできないでしょうか?」
「わかりました、お会いしますわ」
「ありがとうございます。それでは今日の午後、そちらの事務所に参ります」
「お待ちしております」
路子は受話器を置いて電話を切る。
「早川さん、すごく慌てている様子だったわー。声が上ずっていたわよ」
「タブレット火災の件は、ゼーマン社の買収問題と何か関係があるんですか?」
「私の予想では、ゼーマン社からの買収を阻止するため、会社としてはスンファン電子との合併の話を進めたいんじゃないかしら。だけどタブレット火災がスンファン電子の仕業とわかったら、交渉の行方がわからなくなるわね」
「なるほど、早川さんも会社を存続させるために必死なんですね」
「でも、私たちはまだスンファン電子が仕掛けたという証拠はつかんでいないわよ。ちょっと余計な事しゃべっちゃたかしら」
午後になって、早川が路子の事務所を訪ねてきた。啓太は早川を応接椅子へ案内してからコーヒーを作り始める、路子は洗面所で身なりを整えてから早川の前にやって来た。
「早川さん大変ですわね、お宅の会社。あなたも少しやつれた顔をしているわよ」
「ええ、朝早くに呼び出されて、怒号の中で会議をしていたんです」
「買収されそうなんですか?」
「今、株主の動向を調査しているところです。ところで椿坂さんはどうしてタブレット火災の事故がスンファン電子の陰謀だと疑っているんですか?」
早川は前のめりになって話をしている。
「コーヒーをお持ちしました」
啓太がコーヒーを持って来て、応接テーブルの早川と路子の前に置いた。
「早川さん、そんなに慌てずゆっくりお話ししましょう。さあコーヒーでも召し上がってくださいな」
「はあ」と言いながら座り直してから、コーヒーをすすった。
「今日は早川さんと、色々な情報交換をしたいと思ってるの」
「え、」
早川はコーヒーカップを持ちながら一瞬手が止まった。
「情報交換ですって?」
「私も色々知っていることがあるから、あなたも隠さずに話して欲しいのよ」
「はあ」
「まず先に、あなたの持っている情報を話してください」
早川は一瞬ためらう顔つきを見せたが、コーヒーをテーブルに置くと静かに話を始めた。
「わが社では、あのUG保険向けのタブレットの商談が最重要案件となっているのです。この商談が消滅すると、銀行からの融資が止まってしまう可能性があるからです。そこで、あの火災事故が起こってしまい製品の信頼性問題に苦慮していたところ、今度は競合のスンファン電子に悟られてしまったことがわかったんです」
「まあ、そうなの」
「実は、そのスンファン電子から合併の申し出がありまして、その時にタブレット火災の事を公にするとちらつかせて来たのです。そんな事をされたら当社の株が暴落して大変な事になります」
「やっぱりあの事故のことを知ってたのね、スンファン電子は」
「ですが社内では、今回のゼーマン社のM&Aで買収されるよりはスンファン電子と合併した方がましだという意見が出てるんです。そこで、あの事故がスンファン電子の陰謀だったとわかった場合、合併の交渉の仕方が変わってくるのです」
「なるほど、わかりました。企業間の複雑なやり取りに関係するのね、それでは私の情報をお話しますわ」
「お願いします」
「あの火災は、タブレット本体の欠陥で起きたものではありません」
「え、まだ障害調査の報告書を提出していませんが」
「一〇〇パーセント3D画像処理ユニットの問題だとわかりました」
「どうしてそんな事がわかったんですか?」
「今ここでは開示できませんけど、確かな証拠を持っているんです」
「そ、そうなんですか」
「私はこのタブレット火災の根本原因は、里中さんがペールキューブ社を辞めたことにあると思っているんです。そして、多分それを仕組んだ人がいたと」
「だ、誰がそんなことを!」
早川は、路子の意外な言葉に戸惑っている。
「まだ完全な証拠をつかまえていませんが、私はスンファン電子の柳さんっていう方を疑ってます」
「柳さん、あの火災現場にいた男ですか?」
「そうです、あの男です」
「そこでお聞きしたいのですが、あなたはどうして里中さんと大喧嘩をしたんですか? 早川さん、答えてください」
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