第9話 紛失さわぎ
路子と啓太は工場の通路を足早に歩き工場建屋の外に出ると、前川が追いかけて来て路子に声を掛けた。
「椿坂さま、そんなに急がないでくださいよ、ゼーゼー」
前川は急いで走って来たようだ、シャツの前がほどけてブヨブヨのお腹のおへそが見えている。
「何言ってるの、私は早くこの汚い靴を脱ぎたいのよ」
「はあ、そうですか」
「それよりも前川さん、私たちの味方になってね」
「またどうしてそんなことをおっしゃるんですか?」
「工場の人達は信用できないからよ、私はあなたの事を一番信用してるわ」
そう言うと、路子は前川の肩をポンと叩いた。
「僕もそうです、前川さんはとても正直な人だと思います」
「その様な事を言われるのは初めてです!」
前川はズボンをずり上げながら、目じりが下がりお面のおたふくの様な顔になっている。もしかしたら、社会人になって初めて褒められたのかも知れない。
路子と啓太、前川は会議室に入る。路子はヘルメットとパソコンを会議机の上に置くと、椅子の下に置いてあった自分の靴を取りながら、
「前川さん、洗面所はどちらですか?」
「ここを出たら左に曲がって突き当たりにありますよ」
「それでは、少し失礼します」
路子は鞄からハンドタオルを取り出し、靴を持って会議室を出ると、急いで洗面所に向かった。
洗面所の扉を開けて中に入ると、いきなり安全靴を脱ぎ捨ててズボンも脱ぎ始めた。そのまま洗面台の前に立つと、靴を床に置いて脱いだズボンを丸めて鏡の前の台の上に置いた。そして何もためらわずにパンストも脱いで、素足になったのだ。
今度は右足を洗面台の中に突っ込み水を掛ける。右手で備え付けのハンドソープからせっけん液を押し出すと左の手のひらに溜める。右足のつま先から足の指の間、足の裏や甲の部分までの隅々を洗い始めた。洗い終わり、水でせっけんの泡を流したあと、右足を洗面台の縁に置く。左足一本でよろけそうになる体のバランスを取りながら、右足のつま先に自分の鼻に近づけた。
「くさーい! 中々落ちないのかしらこの匂い」
すると、扉が開く音がして安田奈々子が入って来た。
「⁉ あら、入って来てはいけなかったかしら」
扉の近くに脱ぎ捨てた安全靴、床に放り投げられたパンスト、その先に路子がショーツ姿で右足を洗面台の縁に載せ、その足に顔を近づけているはしたない姿を見た奈々子は唖然とする。
路子は奈々子の声にドキッとして一瞬固まったが、振り向くと、
「ちょっとあんた、扉を早く締めてよ!」
「は、はい」
奈々子は慌てて扉を閉めた。
路子は右足をハンドタオルで拭くと靴を履き、今度は左足も洗い始めた。どんなに恥ずかしい姿を他人に見せようとも、今の路子にとっては足の不快感を取り除くことが優先されるようだ。左の足も匂いを嗅ぎ始めた。
「そんなに変な臭いがするんですか?」
奈々子が心配そうな顔をして路子に近づいて来た。
「そうなのよ、ぬかみそみたいな匂いが……」
そう言いながら、鼻をクンクンする。
「それって、大根のぬか漬けですかね? うふふっ」
「ぷっくー!」
路子はほっぺたを膨らまして奈々子を睨む。
「ちょっとあんた、可愛い顔をしてひどいこと言うわね」
「ごめんなさい、余りにも滑稽なお姿でしたので、つい」
「……あんた、報告書は書いた?」
「はい、書きました」
「後で細かく調べますからね!」
路子は左足もハンドタオルで拭き靴を履くと、鏡の前に置いてある丸まったズボンを取る。それを持って個室へ駈け込んでいった。
ズボンを履き終えた路子が個室から出てくると、パンストを拾い上げ、すぐさまごみ箱に捨てる。鏡の前で髪の毛を整えた後、安全靴を拾ってから何事もなかった様に洗面所を出て行った。
路子が会議室に戻ると、啓太と前川の他に早川、外山、南野も戻っていた。路子は整然とした態度で会議室の椅子に座る。そして机の上に置いてあるノートパソコンを開いた。
「安田さんが来てから話を始めますわ」
みんなが前に座っていた椅子に座ろうとした時、
「前川さん、私の隣に座ってね」
路子は自分の隣の椅子を引いて前川を手招きする。
「え、そちらですか?」
前川は目をまばたいて一瞬ちゅうちょしたが、結局ニコニコしながら路子の隣に座った。工場から戻るとき、路子たちに褒められた事が嬉しかったのだろう。まったく正直な男である。
「啓太、さっき撮った写真はあなたのパソコンにコピーしてね」
「はい、わかりました」
啓太は自分のパソコンを開き、カバンの中からUSBケーブルを取り出してデジタルカメラとパソコンにつなぐ。さっき撮った写真のファイルを自分のパソコンにコピーした。それが終わってからデジタルカメラのUSBケーブルを外し、そのカメラを南野に返す。そしてパソコンからUSBケーブルを抜こうとしたとき、
「あれ、カードが無い!」
啓太は慌ててパソコンの下や自分の鞄の中を調べ始めた。
「啓太、どうしたのよ」
「あの燃えたタブレットが映っている大事なSDカードが無くなっているんです」
「あれはコピーをとっていないの?」
「とり忘れました」
「啓太、何やってるのよ! 無くしたら大変よ、絶対に探しなさい」
啓太は立ち上がって鞄の中身を会議机の上に並べる。そうして鞄の中の隅々まで調べるが、SDカードは見つからない。今度はしゃがみ込んで会議机の下や椅子の下を調べ始めた。路子も立ち上がって自分の周りを入念に調べるが、SDカードはどこかへ消えてしまった様だ。
「これだけ探して無いのでしたら、誰か盗んだのね!」
「どうしました、椿坂さん」
早川が声を掛けた。
「さっきお見せしたタブレットが燃えている瞬間が映っている、SDガードが無くなっているのよ」
「おやおや、大変なものを無くしましたね」
外山はまた目がすわって来た。
「誰か盗んだのよ、きっと。前川さん、この会議室は鍵を掛けました?」
「えーと、鍵は掛けていません」
「じゃあ、誰が盗んだのかわからないわね」
「あなた方が無くしたんじゃないですかねぇ」
外山は腕を組んでいる。
「ロコさま!」
啓太は何かに気づいたようだ。
「何よ、啓太」
路子が振り向くと、啓太は路子の耳元に顔を寄せてひそひそ話を始めた。
「ロコさま、ボイスレコーダーの電源が入りっぱなしですよ」
「え、どういうこと?」
「SDカードが盗まれた様子が録音されているかも」
「やったわね、啓太。あとは任せて」
そこで、ドアが開いて奈々子が入って来た。
「遅くなって申し訳ありません」
「皆さん揃いましたね、打ち合わせを再開します」
奈々子が南野の隣に座る。路子と啓太も椅子を整えて座り直した。
「さて皆さん、打ち合わせの前に犯人捜しをします」
「え、犯人捜しだなんて、あなたたちが無くした可能性もあるでしょう」
外山は眉間にしわを寄せて怪訝そうな顔をする。
「何の話を始めるんですか?」
奈々子は状況が分からず戸惑って南野に聞く。
「さっき見た映像のSDカードが無くなったんだよ」
「あら、まあ」
奈々子は大きな声を出した。
「皆さんお静かに、誰かがSDカードを盗んだという証拠が残っていますわ」
ペールキューブ社の者たちは一様に驚いた表情を見せる。その中で早川が声を上げた。
「盗まれた証拠なんて、どこにあるんですか?」
「ちゃんとあるんですよ、その前にこの会議室にいる方が盗んでいるのでしたら、今すぐ申し出てください」
路子は椅子を後ろにずらしながら立ち上がった。
「さあ、SDカードを盗んだ人、立ちなさい!」
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