第21話
右頬のあたりの痛みを認識したのが先か、意識が覚醒し始めたのが先か、佐久間には分からなかった。
視覚が戻ってきたところで、見覚えのない部屋の中央にいることが分かった。同時に、戻ってきた五感から、手が椅子に縛られていることにも気付いた。
こつこつと響いた足音の方を見る。佐久間のぼやけた焦点の目が徐々にはっきりと小村の姿を捉える。
「小村ぁ、これ解いてよ」
佐久間が後ろ手に縛り上げられた縄をよじって、なんとか逃れようと足掻く。都度、がこがこと縛られた椅子が音を立てる。至って、なにかの間違いである、とばかりに主張して。
「一昨年の暮れに会ったとき、私は最後になんて言った?」
「・・・・・・悪いけど忘れた」
バツが悪そうに佐久間は視線を横に滑らせる。
「アレだけのことをしたのに?」
「・・・・・・」
佐久間は答えない。
ふう、と小村がため息をついて質問を始める。
「さて、佐久間・・・・・・じゃなかった、まず貴女は誰?」
「佐久間美幸。貴女、小村絵里の元相棒」
「今も昔も私に相棒はいない」
にべもなく小村ははねつける。
「まったく、お前のお仲間にゃ苦労させられたぜ。一張羅に穴は空けられるわ、泥だらけにされるわ、防弾衣は買い替えだわ、口の中が切れるわ、血だらけにされるわ、お前の「相棒」殿に貸しが出来るわ。お陰様で二枚目が三枚目だ」
口の中が切れた、と言う割には鷹取がはきはきと喋る。
「ちょっと黙ってて」
喋りすぎとばかりに制する小村に、冗談だと鷹取は掌を出して返す。
「この住所はどこだ?」
封筒を手に、鷹取が質問する。
「だから、調査庁行きスタンプが押してあるから、その住所はただのダミーだってば。調べたって何も出てこないよ」
鷹取が小村に目配せする。
「正直に話せば手加減はしてやったんだが・・・・・・」
ばさっ、と3枚組みの書類を小村が突き付ける。
「繊維業者の会社のようだが、ただのペーパーカンパニー。実態は大阪を拠点に活動している北朝鮮工作員の隠れ家」
たまに本国への密輸も請け負ってるみたいね、と鷹取の説明を小村が補足する。
「ボロを出したな」
「なにかの間違いだって」
「無駄。素性は割れてる」
「素性?私は公安調査庁の佐久間美幸。それ以上でもそれ以下でもない」
「で、だ。上野支店の
突如名前を呼ばれた佐久間―――金人化は驚いて一瞬瞳孔が開く。
「その反応、当たりだな?」
何事もなかったかのように取り繕おうとするが、時すでに遅し。鷹取がかがんで視線を合わせる。
「大阪だけじゃなくて上野に支店があることも知ってんだよ」
佐久間の財布から取り出した交通用ICカードをひらひらと手で弄ぶ。
「調べてみたら、上野とか随分と調査庁の位置とは離れた駅で乗り降りしてるみたいだな」
「電力会社の社員の死亡推定時刻の前後ごろに社員寮の最寄り駅でも乗り降りしてるのね」
「張り込みの都合で東の方に集中しているだけで、それは別に他意があるわけじゃ・・・・・・」
「名刺の類が一枚もなく、身分証がパスポートしかないのはどう説明してくれるんだ?」
金が黙り込む。
「上野支店の女性従業員を片っ端から調べてみたら、行方が掴めなくなってんのが「金人化」、あんただけだったんだ」
明らかに旗色が悪くなるのが金にも理解出来た。
「顔が変わってて驚いたよ。俺の好みの顔だし、日本語も随分上手いから、任務が違えばあやうくどこかでハニートラップに引っかかってたかもな」
「・・・・・・日帝の男は今も昔も女を道具としてしか見てないのね」
取り繕うことが無駄であることを悟ったのか、金が口を開く。
不意に、金が下顎を不自然に動かした。しかし、金は違和感に気付く。
「悪いけど貴女の「差し歯」は抜かせてもらったわ」
パックに詰めた奥歯の差し歯を小村は金の前に突き出す。
「毒薬を奥歯に仕込むのは貴女の国の工作員の特徴だもの」
それを見た金の顔が青ざめる。
「自殺はもう少しお預け」
小村はそのパックをそのまま後方に放り投げた。
「利用するつもりだったんだろうが、利用する相手を間違えたな」
ここからが本番だ、とばかりに鷹取が金に向く。
「どうやって社員に近付いた?」
金は答えない。
ライターを取り出し、おもむろに点火する。
「どうやって社員に近付いた?」
やはり金は答えない。
「答えたくないなら答えなくていい」
鷹取が金の右手を炙り始める。
びくん、と手が火から逃れようと暴れだすが、固定されているせいで精々指が動かせる程度。奥歯を噛みしめ、じっと耐える。
「誰がお前らなんかに・・・・・・」
「答えたくないんだったら答えなくていい」
鷹取は手を炙り続ける。
「分かった!分かった!」
金が叫ぶ。しかし鷹取はライターの火を消そうとはしない。
「だからさ、答えたくないんだったら答えなくていいんだって」
それから、数分。
じっとりと脂汗の浮かんだ金に鷹取が再び質問する。
「どうやって社員に近付いた?」
ようやく金が口を開く。
「・・・・・・あいつがいつまで経ってもあの社員のところに張り込んでやがるから近付けねえ。挙句に彼女面し始めやがったから大変だった」
ここに至り、鷹取は気付く。社員寮に出入りしていた若い女とは、本物の佐久間のことだ。そして、本物の佐久間はおそらく社員の彼女のふりをして社員を警護していたのだろう。つまり佐久間の組織は、ことが起こるよりも前に、それこそとっくの昔から諜報の動きに勘付いていたのだ。
「仕方なく別動隊があいつを襲撃して、私は整形手術をして入れ替わったってわけ」
鷹取が質問を変える。
「このカタログらしいものはなんだ?」
ところどころに日本語ではない言語が混じった、怪しい風俗店情報誌を鷹取が突き出す。
「・・・・・・分からない」
「出版社からの刊行物じゃないな?」
「あの男の部屋にあった。なにかの資料だと思って持ってきたけど、これは本当になんなのか分からない」
ここで、小村と鷹取は以前からの聞き取りの情報がリンクしてきていることに気付いた。
「お前たちの罠か?それとも本当に回収したものか?」
「それは本当に何なのか分からない」
どのみち、不審なものであることに変わりはない。一連のからくりが解け始める。
一方、小村には腑に落ちないことがあった。
なぜ、佐久間美幸の偽物なる存在が現れたか。つまり、「一体どこで佐久間美幸なる工作員の存在を知ったか」だ。
普通なら「電力会社の社員の彼女」というポジションに留まるはずが、何故、工作員であることまで露見したか。
そしてそもそも、「なぜ自分が佐久間美幸と顔見知りの同業者であること」まで知っていたのか。
「どこで佐久間美幸と小村絵里の関係性を?」
ぱしん、と答えない金の頬を引っ叩く。
「どこ?」
右頬。
「どこ?」
左頬。
「どこ?」
左右を往復。
答えさせるいとまを与えず、5、6度繰り返したところで咄嗟に指を真逆に曲げた。
あぎゃああと金が悲鳴を上げる。
「あらごめんなさい。うっかりバランスを崩してしまったものだから」
息を切らせながら、金が待てと制する。
「・・・・・・いいことを教えてやる・・・・・・てめえらの中に内通者がいんだよ」
二人の表情が曇る。
「「抜け忍」、かあ・・・・・・」
問題が片付いたかと思えば、新たな問題が浮上してきた。
「本物の佐久間をどうした?」
はん、と鼻を鳴らし、教えてやると偉そばった態度で金が答える。
「本物の佐久間美幸は、今頃どっかの山奥の中。もしかしたら身元不明の死体として何年かしたら発見されるかもね」
拉致して入れ替え。なりすましの常套手段だ。
「最初は連れてくつもりだったけど、思ったより抵抗しやがったからな。山ん中で放り投げてやった」
ふと、思い出したように金が小村に向き直る。
「小村、とか言ったか。てめえ何を企んでやがった」
「佐久間と私の間には「ある取り決め」があるの。それが今回働いた」
「ぜーんぶ吐かせてやったと思ったらこんなタネを残してやがったか」
「自白剤ごときでそうそう簡単に本当のことを話せるとでも?」
「だから暴行も付け加えてやったのに・・・・・・無駄な手間取らせやがって」
ぺっ、と金が唾を吐く。
「そう、分かったわ」
がん、と音を立て、ネイルハンマーで小村が金の火傷で使い物にならなくなった右手を勢いよく叩いた。
遅れてやってきた痛覚が金を絶叫させる。
金が小村を睨む。
「죽여버릴 거야(殺してやる)・・・・・・」
威勢がいいな、と鷹取が作り物の笑い声を上げる。
「「殺してください」になるのはいつだろうな」
この鷹取の問いに対する答えが出るのはここからさらに数時間後だが、その答えを2人が知ることはなかった。
2人は順を追って状況を整理する。まずはなにより、金の組織にデータが届かないときのリスクを分析する。
報告済みの筈のデータが届かなければ、向こうも向こうで二の矢、三の矢を放つ可能性が極めて高い。
「封筒はこのままでいいわね」
「しばらくの時間稼ぎにゃなるだろ」
2人は偽のデータをそのまま送ることにした。
2人が金に向き直る。
「油断したな」
恨みがましい目を向ける金に、ああ、そういえば、と鷹取が思い出したように言った。
「調査庁行きの郵便スタンプの話があったな」
最後にいいことを教えてやる、と鷹取が続ける。
「公安調査庁と日本郵便は郵政省時代から犬猿の仲だぞ」
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