第17話

「功を焦りすぎたな、同志」

数日前の上司の許1等書記官の一言が私の脳裏をよぎった。

そして今、ふとしたヘマを打ってしまった。

確かに功を焦りすぎたのかもしれないし、失敗の挽回を焦りすぎたのかもしれない。

どちらかは分からなかったが、最善は尽くしてきたはずだ。

筋道立てて、どこまでは順調だったのかを考える。


第一に、張り込みの結果で、あの電力会社の社員が日本の空挺部隊の訓練装置の電力保安を担当していることを把握できた。

まずは順調だっただろう。

そして、第二段階に些細なことで社用車がパンクするよう仕向けた。そこに通りがかり、修理がてら北海道の電力会社員だと自己紹介し、この偽りの共通点から仲良くなるよう仕組んだ。

これも順調。

第三段階に、研修中でこっちに来ている、と理由付けをして、「電気事業の参考に少し見せて欲しい」と小さな資料から要求していくようにして働きかけた。こちらからも北海道の実際のデータをお互い提供し合う形で情報交換を行った。そこから、見返りは飲み屋での一杯などの、程度の軽いものにシフトしていった。

そしてあるとき、「こんなにいい資料貰っといて「はいどうもありがとうございました」じゃあ、割りに合いませんよ」と関係者の経営する闇営業の性風俗店の一覧冊子とその紹介券を、見返りの一環として渡した。この冊子はかなりクロに近いものなので、持ち歩くなら紹介券だけにしろ、とも伝えた。

そして、我々の息のかかっている件の店には、「紹介券を持ってきた奴の弱みを握って脅せ」と全店に指示を出した。どこも近場ですぐに急行できる距離なのも幸いだな、とそのときは思った。


思えば、この辺りから狂いが生じ始めた。

どういうわけか、この紹介券を持ってやって来た人間はこの社員じゃなかった。

この男にどういった経緯で券を入手したかを尋ねても知人から貰ったとしか聞き出せなかった。

おそらくは本当に社員の知人なのだろう。

よく行く日本式だが中華式も折り合わせた店ばかりだと紹介したら、喜んで社員は受け取っていたが、つまりは単なる相槌合わせに過ぎなかったのだ。おそらく処理に困った社員は知人に券を渡したことは想像に難くなかった。


しかし冊子は持ち出すなと厳命したはずだ。「どうやってこの店を知ったのか」と尋ねたら知人は怪訝な顔をして「この店の紹介券だと聞いてきた」と言う。

おそらく、店も冊子から適当に決めたのだろう。

努力があしらわれたような、妙な怒りが湧いてきたが、私はあの社員を見誤っていただけにすぎなかった。

後で判明したが、女がいたのだ。女遊びに興味がなく、敢えてそんな愚を犯さない堅実な男。堅実すぎたのだ。そこを見落としていた。


結局、人違いだと言って「知人の男」とやらは解放したが、計画は前進しなかった。下手をするとこの男から情報が伝わって事態が後退どころか、頓挫する可能性すらあった。まさに「功を焦りすぎた」のだ。


そこで考えた挙句、方法を変えて真面目さを逆手に取ることにした。

北海道の農地で農薬散布のために大型の扇風機を使用する計画があるが、どの程度の電力を消費するか、そしてそのものの設置や電力の費用は農家個人で負担できるか、はたまた農協の補助が必要になるか、といった条件を盛り込んだ上で質問した。なにか参考になるようなものはないか、都市部ならなにかあるのではないか、と。この社員はその情報にアクセスできるだけの立場にいることはとっくに知っていた。

早かれ遅かれ、その資料は詳細を秘した上で提供されるだろうと踏んでいたし、事実、知人だからと、社外秘ではあるが参考までにという前置きとともにその資料は私の手元に来た。

そして、風邪気味だと言うので、風邪薬と称して毒薬の瓶を渡し、飲むよう促した。

中身は、飲めば確実に死に至るが、解剖してもまともに毒薬だとは検出されない。肝臓への損傷が出ない毒だそうだ。

欲しいものが手に入ったなら欲をかかない方が賢明だ。

それに、これ以上の情報も期待は出来そうにない。2つも3つも秘密に触れるような職務配置にはしないだろう。

「小心に大過なし」だ。


正直、風邪じゃなくても上手く言って夏バテであるだの、薬を飲ませる理由は付けさせる予定だった。そうした意味では風邪気味というのは非常に容易い理由付けだった。

そしてデータをもらい一旦部屋を辞した。冊子は死んでから回収に行く予定だった。どうせ出勤まで少し時間があり、その間に確実に死ぬと踏んでいたからだ。仮に同僚などが不審に思っても、到着までに時間は充分ある。


しかし、あの女が入れ替わりで入っていったのだ。

おそらく、あの女も我々と同業者。ただし、所属や立場は真反対かもしれない。死体を発見したであろう状況にあの女は鉢合わせていないので、もしかすると同じ立場の別の組織の人間かもしれないが、確証はない。


こうして資料は入手できたが、「床屋」の冊子を回収し損なった。この冊子はあの男の遺品としては不釣り合いだ。それ以前に、全ての店を当たるまでもなく、見る人間が見れば我が祖国が関与したことがすぐに分かる。諜報活動の確固たる証拠になり得る代物なのだ。これだけは避けねばならない。破棄が出来なくとも、回収はせねばならない。


冊子の回収計画を立案しようとした矢先、入手した資料を確認するとどうにも妙な資料に差し変わっていることに気付いた。見覚えのない資料だった。そう、今度は今度で最重要書類の亡失に気付いたのだ。


私は焦ると天罰が下るような天命なのか、と嘆きそうになったが、原因はおそらく、大使館見学の人間の中に対抗勢力が紛れ込んでいたことだと気付いた。

なにしろ、資料を亡失するタイミングはそこしかなかった。鞄の中身をすり替える、なんて器用な真似が出来るはずはない。鞄ごとすり替えたのだと判断できた。

事の処理を進める方法は一つ。数名だが、私の部下にはこの手の事態対処用の即応部隊がいる。


もうこれ以上の失敗は許されない。

これが上手くいけば、私は大出世だ。

私を「鼻垂れの江凱ジャンカイ」と呼んだ故郷の連中が泥だらけになって田畑を耕している頃、私は北京で背広を着て運転手付きの役人になる。

こんな愉快なことがあるか。

だから、これ以上失敗は重ねられないし、重ねるつもりもない。


だから私は。

正体不明の集団と、同胞の起居する愛すべき街で戦闘を繰り広げた。


だから私は。

重傷を負った。


そして私は。

その追跡対象に尋問と看病を同時に受けている。


「・・・・・・あのカタブツ野郎」

全てのきっかけはあのカタブツ野郎のせいだったのだ。

私のこの言葉を聞いた追跡対象はにこりとした顔をして私を看病する方向にシフトしてくれた。

笑顔に恐怖を覚えたのは何度目か分からないが、それ以上に、この追跡対象がまだ少女と呼ぶに相応しいような年齢だろうに、こんな人が人を食うか食われるかの世界に身を投じていることに驚きを覚えていた。


一方で、こんな年頃の娘に上半身を見られるなら、もう少し健康に注意しておけば良かったかな、と最近前に出始めた自分の腹を今更ながら気に留める。

活動が失敗に終わろうとしているのに、私はどういうわけかそんな世俗的な考えが頭をもたげていた。


だが、一通りが済んで、少女が扇風機に向かって歩いて行ったとき、私はこれが最後の機会だと不意に直感的に思った。

救急箱の中に使い捨てメスが入っていることはさっき見たときに確認できた。

まだ少女は背を向けている。


一か八か。咄嗟に手に持ち、這い寄る。

「やはり甘いな」

脚の腱に触れそうなくらいの位置。後はただ一閃して、首筋を掻き切ってやれば事は終わる。

「・・・・・・怪我に響くわよ」

「うるさい。失敗出来ないんだ」

これは、確かに本心だった。だが、既にこれ以上事態を進行させることへの疑問は生じ始めていた。

お互いどう動くか。正直なところ、自分でもこの後どう動くか決心できていなかった。


この状況を打破したのは、部屋の主らしい男だった。

前触れなく勢いよく襖を開き「茶が入ったぞ」とだけ告げて戻って行く、状況をまるで見てないかの如く振る舞う様子を見て、遥か上の存在をどことなく私は認識した。

ここで事を起こすと、おそらく生きて帰れない。

運が良かったんだろう。そう思うとなんだか突然、しがらみだの何だの、色々がどうでも良くなり、気が付いたら使い捨てメスを手放していた。


「悪かったな」と一言少女に謝り、私は寝転がった。

「・・・・・・どうして最初から足首を切らなかったの?」

「・・・・・・データがどこにあるか分からんだろう」

苦し紛れの言い訳だった。ただ横にメスを振るだけのほんの一手間を何故躊躇ったのかは自分でも分からない。痛む身体を引きずりながら、布団に戻る。

「甘いのね」

「・・・・・・悪かったな」

「・・・・・・お茶、持ってくるわね」

少女が部屋を出る。


きっと何もかもを失うだろうし、本国へ帰らされるだろう。

功を焦りすぎたな。

「日本語も、かなり勉強したんだけどな・・・・・・」

これが独り言として出たのか、それとも彼女に聞いて欲しかったのか、それは自分でも分からない。


だが。


これだけ運が良ければ、田舎暮らしもきっと悪くない。

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