第16話
小村が戸を開けた先は至って普通のアパートのように見えた。
家主らしい男が布団を外した小さなこたつ机で茶を飲んでテレビを見ていたが、小村たちを一瞥すると男は何を話すでもなく、興味なさげに奥の部屋を指さし、再びテレビに向き合った。
表情はなに一つ変わらなかった。
この男が千綿だろうか。
2人の様子を訝しく思うでもないそぶりを大使館員が見せ、おそらくは訳ありの背景を勝手に読み取ったのだろうと思いながら、重い身体を引き摺り、小村は奥の部屋に入る。
元は確かに普通のアパートの和室という部屋だが、畳が取り払われ、防水仕様のフローリングシートが引いてあった。部屋は年季の入った扇風機と、大振りのゴミ箱。そして何より、やけに真新しいシーツを引いた布団が目についた。
一見すると、部屋自体に何かしらの防音措置が講じてあるようには見えなかった。だが、水で洗い流せるシートと清潔なシーツの2つだけでなにかしらの措置を施してはいる部屋なのだろうと察するには充分だった。
「痛苦・・・・・・(痛い)」
布団に大使館員を寝かせると、たちまちに真新しいシーツの白が赤になる。
背広を脱がせ、近くのハンガーにかける。よく見ると日本のテーラータグが付いたセミオーダーの背広だった。それなりにいい値段がしたと思われるが、残念ながら穴が空いてしまっており、その穴の中心には血がべっとりと付着している。
押入れを開くと、大きな金属製の救急箱と使い捨ての感染防護衣がそこにはあったが、やたらに多い新品のシーツが小村の目を引いた。その他の物騒な機材類も押し入れの中で出番を待っていたが、まだ時期じゃないと判断した小村は、押し入れを閉める。痛みに耐えかねて背中を丸めている大使館員を見てこの機材には気付かなかったらしいと悟る。
被弾箇所は腹部と左脚。白いワイシャツの撃たれた辺りが赤く染まっており、左脚は脛の辺りに穴を穿っていた。
小村は感染防護衣を羽織ると、扇風機の電源を入れる。ただでさえ蒸し暑いのに、通風性が良いとはいえ防護衣まで着るのだ。冷房が付いていないことに恨み言が出そうになるが、今はそれどころではない。
ワイシャツの前を外し、傷口を確認する。幸いなことに、着弾点は脇腹の辺りで、内臓の露出には至ってなかった。その上、脇腹しかり左脚しかり、弾は抜けている。左脚を骨折しているようだが、どうやら臓器への損傷はなさそうだった。
至近距離の銃弾は当たることには当たりやすい。だが、とっさ攻撃となるとよほど訓練を積まない限りは致命傷を狙うのは困難となる。
こうなると処置は比較的楽だ。もちろん放っておけば重篤化に至るが、盲管銃創よりかは応急手当は単純に済む。
この状況で小村にできる応急手当なぞ止血程度のものだが、闇医者へ引き継ぐにしてもやはり程度がある。
闇医者を手配するまでの時間が稼ぎやすい程ありがたいのだ。
さて。
ここからだ、とばかりに小村はポケットに入れたICレコーダーの録音ボタンを押して、考えを巡らせ始める。
ぴたりと止まった手に大使館員が苦痛に歪めながらも、不思議そうな表情を浮かべる。
「林江凱、我有事要问(リン・ジャンカイ、聞きたいことがある)」
大使館員の顔に驚きが浮かび上がる。
「您・・・・・・?(貴女は・・・・・・?)」
大使館員は何かを言いかける。
「你有两个选择。彻底交谈或、在异国他乡消失(二つに一つ。洗いざらい全部吐くか、のたれ死んで遠い異国で露と消えるか)」
「你也许・・・・・・(お前、まさか・・・・・・)」
「做出你的选择(決断して)」
小村の手は止まったまま。タイムリミットは大使館員、林の失血死。尤も、今の小村に林を死なせるつもりは無かったし、林も林で、死ぬ方の選択肢を取るとは到底想像なかった。
「我、被自己、困住、了・・・・・・?(私は、自分で、罠に、はまったの、か・・・・・・?)」
「・・・・・・现在它可以被敌人杀死(今なら相手勢力にやられたことにできる)」
物騒なものを手にすることもなく、淡々と「手当が遅れれば死ぬ」とだけ告げる。
大使館員という身分がある以上、変死体として発見されることは、不都合な捜査や情報収集が入る。いかに重要な情報であれ、国際問題が関与するからには、命と引き換えにできる状況では最早ない。
天秤がどっちに傾くかは既に明白なのだが、林はまだ答えない。
その実、銃創の場合は短時間なら出血をさせておいた方が傷口が洗われるため、時間が経過したところでまだ小村にとっては有利に事態が進んでいる。最悪、死なない程度で医者に投げられればいい。
諦めたように、林が息を吐いた。
「・・・・・・他妈的固执的人(あのカタブツ野郎め)」
その回答を聞いて小村はにっこり笑う。
「我不会让你死的。你死了我很困扰(貴方は死なせない。死なれたら困るもの)」
ポリ手袋をはめると、湯冷ましを林の傷口にかけ、小村は手当てを開始する。水が傷に染みたのか、林が低い呻き声を上げる。
「告诉我把戏?(手口は?)」
「首先,我假扮了一个日本人并与(最初は日本人のフリをして接触した)」
クッションを取り出し、脚の下に引く。
傷口を心臓より高い位置にする、というのは基本的ながら効果的な処置方法である。腹部に銃創を負った場合も、脚を高くすることで応急処置とすることができるので、このケースだとそれのみで第一段階は片付く。
「然后?(それから?)」
「我、找到了必要的、东西・・・・・・想要更多、是危险的。所以我摆脱了它・・・・・・就这样(必要、なのが聞き出せた・・・・・・多くを望むのは危険、だから処分した・・・・・・それだけだ)」
手にした包帯を小村はそのまま置いた。
さっと、消毒用アルコールを手にとり、傷口にかける。
激痛が走り、林が叫ぶ。
「我很高兴为您省去质疑的麻烦(尋問の手間が省けて嬉しいわ)」
額に浮いた汗を拭いながら、表情を変えずに、しかしアルコール瓶は手放さない。
「好!我会说!说话!(分かった!話す!話すから!)」
「告诉我把戏?(手口は?)」
消毒用アルコールの使用は銃創の応急処置としては、傷口の肉を痛めるため悪手とされているが、どうせ命に別状はなさそうなのだ。多少手荒な真似をしたところでただただ痛いだけで死にはしない。
「顺便问一下,您接种了破伤风疫苗吗?(そういえば破傷風の予防接種は?)」
「我出国前接受了疫苗接种(本国で受けてきた)」
手にしかけた使い捨て注射器を開封せずにそのまま救急箱に戻した。感染症リスクが低いことが分かった以上、面倒なので抗生剤投与は見送ることにした。
「首先、我给了、您一些小信息・・・・・・它始于同行之间的・・・・・・信息交流形式
(最初は、小さな情報を、こちらからも渡した・・・・・・同業者同士の情報交換・・・・・・の形から始めた)」
話を聞きながら小村は手当てを続ける。
腹部の傷にパッドを当て、包帯で締め上げる。
「作为回报、我交出了有关“理发师”的信息。但是、失败了(見返りに、風俗店の情報を渡した。だが、失敗した)」
情報の内容は核心に迫りつつあった。
「目标对象、具有良好的个性・・・・・・因此・・・・・・我利用了这一优势、并说我正在设计一台农机・・・・・・并提取了数据。什么样的数据是・ ・ ・ ・ ・您已经知道了?(対象は、人が良かったんだ・・・・・・だから・・・・・・それにつけ込んで、農業用機械の設計中だと言って・・・・・・データを引き出した。なんのデータかは・・・・・・もう分かってるだろ?)」
脚部の傷に包帯を巻き付けると、副木を脚に添え、ぐっ、と固定する。銃創の骨折は回復が遅い。その分初動が重要でもある。
「高兴起来。您的皮下脂肪稠密、似乎可以挽救生命(喜んで。皮下脂肪のおかげで助かりそうよ)」
粗方聞きたい情報は聞き出せた。そう判断して小村は尋問を打ち切った。
「・・・・・・老实说可以吗(・・・・・・それは素直に喜んでいいのかな)」
感染防護衣を脱ぐと、じっとりと染みた汗に小村は不快感を覚える。
「想想你过着美好的生活,不是吗?(豊かな生活が出来ている、という風に考えては?)」
ICレコーダーのスイッチを切りながら、感染防護衣をゴミ箱に捨てる。
「我只是因压力而发胖。生活永远不会富裕(ストレスで太っただけだ。生活は決して豊かじゃないよ)」
苦笑した様子の林に、小村は少しばかり同業者としての同情の念を覚える。
「・・・・・・所以(・・・・・・そう)」
あまりの暑さ、とはいえ油断といえば、油断だろう。扇風機の前に向かうために背中を向けて移動したときだった。
「やはり甘いな」
流暢な日本語。だが、真に警戒すべきは足の腱のあたり。救急箱の使い捨てメスを掠め取ったのか、刃先がこちらを向いている。這って移動していたらしい。
「・・・・・・怪我に響くわよ」
「うるさい。失敗出来ないんだ」
腱を犠牲にして林にとどめを刺す?だが、タイミングを誤れば腱を切られ、倒れたところで首を掻き切られてこっちが終わりだ。しかし、「大使館員」は殺さず、医者に投げるのが絶対的な前提条件だ。聞きたいことは聞き出せたが始末するわけにいかない。どのみち事態は好転しない。
やるか、やられるか。
選択肢を天秤にかけ始めたその時だった。突如として勢いよく襖が開いた。あまりにも唐突だったので、思わず2人して固まったが、そこにいたのは部屋の主、千綿だった。
「茶が入ったぞ」
それだけ言うと、千綿は元の位置に戻り、見ているか見ていないか分からないテレビを再び見始めた。
その様子に、林が深いため息を吐いた。
「・・・・・・我不能再忍受了(・・・やめだやめだ。もうやってられん)」
ちゃりん、と音を立てて使い捨てメスを手放した。
「悪かったな」
ごろり、と仰向けに林が寝転がる。
「・・・・・・どうして最初から足首を切らなかったの?」
「・・・・・・データがどこにあるか分からんだろう」
痛みに耐えながら、布団に林が戻っていく。
「甘いのね」
「・・・・・・悪かったな」
「・・・・・・お茶、持ってくるわね」
それだけ言って小村は開いたままの襖に向かう。林はまだどことなく話を聞いてほしそうにしていたが、すぐに、敵に話すべき内容でもないと判断したのか顔を天井に向けた。
「日本語も、かなり勉強したんだけどな・・・・・・」
語りかけるでもなく、独り言でもなく。どっち付かずの林の言葉は、小村の耳にも届いていたが、小村が特に反応を返さないまま、和室の隅に消えていった。
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