第11話
「少なくとも監視対象になってから件の大使館員に動きはない」
ロッカーから学生服の詰まった鞄を取り出し、イヤホン越しに流し込まれる新たな情報を頭に叩き込む。
鞄を手に、地上から地下に降りながら小村は考える。大使館からわざわざ出すとは思えない。向こうも「見られていない」と楽観視はしてないはずだ。
「データの原本があるならそこから更に電子化して送ることはないだろう。ほとぼりが冷めた頃にさっと出すものと見て間違いはなさそうだな」
この見解は一致していたらしく、イヤホンからも同じような内容が送られてくる。
「勿論大使館の荷物だ。そうそう検閲に会うことはないだろう」
改札を通り、ホームに向かう。
「だが、通常郵便物を装い第三者、それも一般人に近い人間か、あるいはそこら辺の単なる友人程度の協力者を経由して本国に郵送する可能性は非常に高い」
ホームに着いたが、次の列車までは時間がまだあった。
「指定場所に用意したものと同じ鞄を件の書記官は使っている」
指定場所。
事前に受けた連絡を正しく解読できていれば六本木駅の034番ロッカーがそれだ。
「これを使って、なんとか掠め取れ」
かなりの無茶を言われているのだが、否とは言えない。
「後は一任する」
その言葉を最後に電話が切れた。
数分待ち、自動放送の到着アナウンスが入ったかと思うと、ごおっ、と音を立て電車が入線してくる。
がたがたと日比谷線の車内で揺られながら算段を立てる。
もしも鞄と書類がワンセットならすり替えて盗み出すだけで済む。しかし、何でもない鞄単体をすり替えるとただ大使館からの盗難事件を引き起こすことになり、向こうに警戒されるだけでなく最悪の場合、刑事事件に発展する。こうなると以後の潜入は著しく困難になる。つまり、あまりにも判断が付かなければ何一つ手を付けない、というのも選択肢には入る。
極端な話、件の書類が外部に流出しないという前提さえあれば、潜入を相手に悟られない限りは失敗にはならない。内部の状況や見取り図を報告すればそれはそれで新たな成果で済む。それならば気が楽だが、あくまでもこれは前提が成立していればの話。現状、全てが不確定だった。
六本木駅で降りると便所に籠る。
中国人学校の学生服に着替え終わったところで再び着信があった。便所を出ながら、即座に電話にイヤホンを繋ぐ。
「一つ朗報だ。監視班が件の大使館員が鞄に例の書類と見られるものを入れるのを現認した。見学対策か、いよいよ動き出すか、あるいはその両方かは分からんが、一先ずは手掛かりの一つだ」
小村は電話越しに尋ねる。
「今天晚餐吃什么?(今日の晩ご飯なに?)」
一瞬の沈黙の後、答えが返ってきた。
「扇風機で涼みながら食う中華のフルコースは絶品だぞ」
そして電話は切れた。
そのままイヤホンを外すと、コインロッカーに向かい、指定のあった番号のバーコードを読み取らせて開錠する。中から出てきた鞄は、ごく一般的な日本製ビジネスバッグ。大使館員でも自国のものは使わないんだな、と小村は変な感想を持ったが、意識を切り替える。鞄の中身は一見すると書類のようだが、よくよく読むとデタラメが書いてある。小村には知る由もなかったが、データは日本における平均的な4人暮らしの一家の年間平均的電力使用量のものにすり替えられていた。
そのまま034のロッカーに私服を入れた鞄を突っ込んで、再度施錠する。
100%ではないものの、すり替えても問題はないと判断した。どのみち、先ほどまであれこれと考えていた選択肢は他に無くなったのだから。
少し歩き、小村が大使館前に着くと、丁度中国人学校の生徒たちがバスから降りるところだった。生徒たちの様子を観察すると、おそらくは北京語と一部のグループは広東語。あとは聞き取れないが、基本的に北京語で会話は成立しているらしい。
鞄は携行している生徒とそうでないのが半々。学校の鞄は特に指定されている様子はなく、学生鞄然としたものもあれば、リュックサックを担いでいるのもいる。
ゴーサインは出ている。
生徒たちが大使館に入り始めたのを認めて、小村は門の近くにいる生徒に走り寄った。
「等一下!(待って!)」
門から入る生徒に紛れ、潜入には成功した。
「我得救了〜(助かったよ〜)」
不自然でない程度に謝意を伝え、中の生徒に続く。
これからやることは一つ。
見学中に注意が説明に向いてる隙に、鞄自体をすり替える。
機会は一回こっきり。
中央ホールで集められると、簡単な全般説明があった。小村が理解できたところによると、各グループに分かれた説明ツアーの形を取るらしい。小村にはグループ分けの基準は分からなかったが、一番近かったグループに紛れ込んで説明を受けることにした。
見学自体は軽妙な感じの大使館職員の説明で、ところどころに笑いが起きる要素もあり、小村は、なるほど面白く説明しつつ同胞との交流という要素もしっかり達成しているのだな、と妙な関心を持つに至った。
滞りなく見学が進み、執務室に移動した際、郵便書類ケースが戸口の近くにあることに小村は気付いた。面白いものはないかと見てみたが、見た目の上では一般郵便物ばかり。堂々と漁るわけにはいかないので、それ以上の捜索を諦めた。
執務室の内装は、どちらかと言えば事務所に近く、事務机が人数分向かい合ってくっ付けられている。視線を走らせていると、そこでふと机の引き出し付近に立てかけてある鞄が小村の目に入った。
件の鞄だ。
二度ほど確認する。
今持ってる鞄と同じもので、前情報から間違いがないことをセルフチェックする。
最後尾にそれとなく移動し、ぞろぞろと皆が見て回る後ろから付いて行く。鞄の近くまで歩いたところで、咄嗟に靴紐を結ぶふりをして書記官の鞄と持ち替えた。見た目は全く同一だが、さっさと行動すれば疑われる余地はない。事実、見学は特に中断する様子もなく進行していった。
そのまま生徒たちに紛れて、一通りの見学を終えると、ぞろぞろと全員が外に出始めた。
揃って大使館を出た小村は、中国人学校グループの目を盗んで歩き去る。耳をすましても、呼び止める声はない。そのまま自然に歩き、交差点に差し掛かった瞬間、角から出てきたスーツ姿の男と出会い頭にぶつかった。
「痛えな!気を付けろ!」
男は取り落とした鞄を拾うと、中国人かよと悪態をつきながら小村の来た道の方に歩いていく。
小村も鞄を拾い直し、歩き始める。
理想の通りに事は進んでいる。
六本木駅のロッカーから着替えの詰まった鞄を取り出すと、そのまま再度地上に出た。
「・・・・・・?」
六本木駅から北にある別の路線の駅方面に歩き出した小村はこのとき、ふと気配を感じた。
気づかれない程度に視線を後方に向けると、存在感を隠し切れていない、おそらく自分では通行人のフリをできていると思い込んでいそうな体格の良い男の姿を認めた。
・・・・・・居る。
どうやら早速追手が来ているらしい。
ボロを出したつもりは無かったが、どうもどこかしらでバレたらしい。
歩行速度を下げる。
後方30メートル。
向こうの速度は変わらない。
逆に歩行速度を上げてみる。
後方20メートル。
向こうも速度が上がったようだ。
すぐそばの角を曲がり、路地裏に出たところで小村は反転し待ち構える。角から現れた大きな影の下から一気に懐に潜り込んだ。
「成为缠扰者是低级趣味(ストーカーとは趣味が悪いわね)」
相手の大男は一瞬怯んだ様子を見せたが、すぐに取り直す。
「赶快离去!(さっさと離れろ!)」
男の右手にスタンガンが握られているのを認めた小村は、そのまま咄嗟に腕を掴み、背負い投げを掛けた。
そして、右腕を押さえたまま肘を足で挟み、即座に肘関節を逆に折った。喚く男を尻目に、路地を見やる。この男を含め、ざっと確認できただけでも3人。きっともう1人くらいいる。
更に路地裏に逃げ込む。途中で見えた梯子に手をかけようとしてやめた。梯子を登っている最中を狙われればひとたまりもないし、そもそも相手は複数だ。どのみち屋上で追い詰められる運命しか待ち構えていない。
ここで小村は地取りをしていなかったことを後悔していた。そもそも、土地勘のない地域での逃走劇なぞ立ち回ること自体が間違いなのだ。この状況じゃ相手の方が土地勘があるに決まっている。
角を曲がると、青いゴミバケツが小村の目に写った。小村はそのまま壁に張り付き、出会い頭に1人目の顔面にゴミバケツの蓋を投げつけた。怯んだ隙に足を引っ掛け、バランスを崩して1人目を仰向けに転倒させる。その男の後ろにいた2人目がつんのめったところを懐に潜り込み、顎に掌底を叩き込んだ。
幸い小村の身長でも届く程度の体格の相手だった。
即座に反転すると小村は、受け身を取り損ね、痛む背中を押さえながら起き上がろうとしている1人目の男の首を裸締めし、意識を遠のかせた。
すんなりと落ちた男をそのままにして立ち上がり、そのまま再び裏路地の奥側へ向かう。
角を曲がったところで正面から3人目の男と対峙する。
あまりにも唐突に小村が現れたからか、虚を突かれた男は武器を取り出すまもなく鳩尾に蹴りを入れられ、体を折ったところで顎に軽い一撃を、しかし脳を揺さぶるには充分な打撃を受け、崩れ落ちた。
倒れた男を前に、小村は考える。
3人目以降はどこだ?
振り返った拍子に、小村の首筋に刃物が突き付けられた。
「・・・・・・参ったわ」
相手がちら、と視線を奥にやりかけた瞬間、4人目に小手返しをかけた。刃物が手を離れ、落下して地面に当たるより先に足を掛けてうつ伏せにねじ伏せると、そのまま足を4の字固めの要領で極め、膝を逆方向にへし折った。
立ち上がろうとした小村の後頭部に金属の筒が押し当てられたのが分かった。
「别动(動くな)」
4人目の視線の先には5人目がいたか。
油断した、と小村は思いながら反撃の隙を伺う。だが、相手の緊張が解ける気配はない。おそらくこいつで最後なのだろう。
「弯曲膝盖(跪け)」
射殺か、連行か。まさかこんな都市部のど真ん中でいきなり射殺はないだろうが、まだ分からない。
「你有错误的人(相手が悪かったな)」
「そうだね」
突如、聞き覚えのない声が乱入したかと思うと、ごん、と鈍い音がして男が崩れ落ちる気配がした。1秒、2秒と待てど、事態に進捗はない。
「だめだよこんなお嬢ちゃんに手ェ出しちゃあ」
小村が振り返ると、そこに立っていた声の主は若い女の姿をしていた。
よいしょ、と言ってその女は近くで悶絶する4人目の男の首に膝を当て、体重をかけて気を失わせた。
「君も気を付けなよ、ここは実は治安があんまり良くは・・・・・・」
そこまで言ってその人影は沈黙する。
「・・・・・・小村?」
そして小村をじろじろと観察すると口を再び開いた。
「小村、絵里・・・・・・?」
目の前の女は確かに小村にも見覚えのある姿形をしていた。
「・・・・・・久しぶり」
「いつぶり、だろうね?」
「いつぶりかしらね」
佐久間美幸。目の前の女の顔は確かに旧知の仲のそれだ。
すっく、と小村が立ち上がる。
「着替えるわ」
おもむろに小村が着替えを始め、ものの1分とかからない内に私服に戻った。
「私も大使館をちょっとマークしてたんだけど、この調子じゃ同じものを追ってそうね」
ノビている5人組の男を尻目に佐久間が言う。
「それより、いい時間だけど昼はもう食べた?」
「本場仕込みの中華料理をたった今堪能したところ」
「なら、少しヨーロッパに連れて行ってあげましょう」
すたすたと歩き始めた佐久間の後ろを小村もついていく。路地を抜けると、陽射しの眩しさがより一層激しくなったように感じた。
歩いて5分ほどだろうか。程なくして、佐久間の語るところの「ヨーロッパ」に辿り着いた。そしてそのヨーロッパはイタリア料理店の形をしていた。
慣れた様子で佐久間が店員と会話すると、テラス席に通された。昼食時にはやや早く、まだ人入りはまばらだった。
「洒落てるでしょう?」
注文の最後をバルドリーノワインで締めた佐久間が口を開く。
カジュアルだが、気軽に入れそうでもない雰囲気の店だった。さっと小村が見回すだけでもそれはなんとなく分かった。
「割とこんな話をするにはもってこいなのよ、ここ」
「の、ようね」
「でしょう?」
にしても、と小村が続ける。
「相変わらず酒好きね」
「でしょう?」
「決して褒めてはないのだけど・・・・・・」
ふと小村が質問を飛ばした。
「そういえば貴女、いつからワイン派に?」
「もうずっと、かな」
訝しむような顔になる。
「・・・・・・前はビール派じゃなかったかしら」
「ビールは卒業したよ」
今は専らワインでね、と佐久間は続ける。
都会にありながら、どこか喧騒と程遠い、しかし静かすぎない落ち着いた空気の上品な雰囲気の空気とともに運ばれてきたワイングラスを佐久間は手に取る。
つつっ、とワインを一口含む。
ふう、と口から息を吸い、香りを一通り満喫すると、くっ、と飲み下した。
「さて、どこから話そう?」
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