第9話

その安宿の一室は狭く、年季が入っていた。

エレベーターを降りた時点で通路に漂う煙草臭さからもそれは容易に想像できたし、あるいはそれは玄関の面構えから全て予想できたと言っても出水3尉には過言ではなかった。だが、目的はもっと別のところにある彼にとってはそれは些細なことに過ぎなかった。

そんな彼に予想できなかったことがあるとすれば。

「思い出した?」

「げぼ、が、ばっ」

現在進行形で初対面の女に水責めに遭わせられているということの一点に尽きる。


話は数時間前に遡り、彼が幹部候補生学校の同期、埴生から連絡を貰うところから始まった。

「三連休前だから空いてるのよ」

咄嗟に出水はカレンダーを見た。目立った予定は何一つ入っていない。意識を電話に戻すとそれから、埴生の言葉が意味するところが何であるかを考え始めた。

そもそも出水は埴生を長らく連絡がなかった昔の女だと認識している。別段付き合っていた訳ではないのだが、任地が離れてからは会うこともなくなっていた。だが、この埴生という女とは幹部候補生学校時代に大概爛れた関係を持っていた。その上で、この言葉が意味するところは何か。考えた瞬間、下半身に血流が滾るのが分かった。

あの女のことだ。爛れたものを期待して間違いはないだろう。逸る気持ちを抑えながら、お互い21時に上野のとある安宿を合流地点に指定して電話を切った。

そうして官舎を出たのが数時間前。埴生と安宿の一室で会合したのが約1時間前。いきり立つ気持ちに待ったをかけるように、それこそ焦らすように埴生がお互いの近況なんて話を振ってきた。

それからルームサービスが来て、水を差しやがってと思ったのが約45分前。

スーツ姿と制服姿の警務隊員が部屋に乗り込んできたのがその30秒後。

初対面の警務隊の女に水責めに遭い始めたのが何分前なのかはもう既に出水3尉には分からなくなっている。

「俺だってな、手荒な真似はしたくない」

高梨1尉、と名乗ったスーツ姿の警務隊員が諭すように話す。

「保全義務違反の疑いが出水にかかっているだけで、俺たちはそれを晴らしたいだけなんだからさ」

「だ、だったら、少し」

「で、思い出しました?」

制服姿の警務隊員、小園3曹が出水の頭を掴んだまま、季節に似つかわしくない、凍てつく氷のような冷たさを帯びた調子で質問する。

「待て、待て、だったら」

「思い出しましたか?」

出水3尉は思う。この女もこの女だ。最初は「なんだろうこのちんちくりんなWACは」としか思っていなかった。制服はオーバーサイズ気味で、ともすれば駐屯地祭でやってる子供向けの制服展示すら想起させた。にも拘らず、今現実に直面している事態はジュネーブ条約違反もいいところ、それこそゲリラにとっ捕まった正規兵のような扱いを受けている。

「捕虜になったら階級と氏名と生年月日、認識番号は答えなければならない」。そんな教育を受けたのはいつだったか。だが現実は所属も階級も関係がない。向こうが知りたいことは意地でも言わせ、要らない情報、それこそ氏名も階級も認識番号も、所属すら向こうからすれば興味がないかとっくに知られているかのどっちかで全く無意味なものと化していると痛感するに至っている。

「思い出しましたか?出水3尉?」


話はお互い1時間前に遡る。


「動くな!警務隊だ!」

警務隊なる、真っ当な自衛官生命を送る上では本来真っ向切ってお世話になることのない職種の人間が突然部屋に乗り込んできた。

「出水3尉だな?」

「・・・・・・そうだが?」

「何か後ろめたいことは?」

「貴方たちは・・・・・・?」

「貴女は関係ありません埴生3尉。それとも貴女も加担を?」

「一体何の話かしら?」

「なんなんだあんたら!一体なんの権限が・・・・・・」

「はじめまして。高梨1尉と申します。こちらは部下の小園3曹。所属は先の通りです」

「出水3尉。何か後ろめたいことはありませんか?」

「後ろめたいことなんかあるかよ!しっかり奉職してんだ!」

「身上調書の交遊欄に記載のない人間とこの部屋にいるのはどういう訳だ?」

「ただの幹候同期です!いいから早く出てってもらえますか!」

出水が喚く。

「保全義務違反の疑いが出水、お前に出てる」

「保・・・・・・全・・・・・・?」

突如として怒りが鎮火したかのような声になる。


「見覚えのある人間はいるか?」

鷹取がブリーフィングで貰った数枚の写真を見せる。すると、大使館員の写真にかすかに反応した。すぐに何事もなかったかのように、まるで知ってる人間なんかいないと言わんばかりに振舞おうとするが、小村も鷹取も、埴生もその兆候は見逃さなかった。

「誰も知りませんよ」

「正直に言え」

「全部正直に話した!」

「あやうく後ろ弾の引き金を引きかけたんだぞ」

「同胞が嬲られ、守る筈の銃後が虐殺されるところに加担する一歩手前だったかもしれないわね」

出水がさっぱり要領を得ないというように沈黙する。


「服務の宣誓、言えるか?」

「はい?」

「服務の宣誓、言えるかって」

「・・・・・・なに訓育幹部みたいなことを言ってるんですか」

「悪かったな。今訓育幹部やらされてんだよ。それより宣誓してみろ」

服務の宣誓。全ての自衛官が入隊するときに署名し、昇任するときにも読み上げる、頻度は低いが確実に世話になる宣誓文である。


宣誓、と小さく出水が出だしを述べる。

「私は我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し」

「今なんて言った?」

「ですから、私は我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し」

「してたか?」

「・・・・・・話が見えませんが・・・・・・」

「とぼけんなよ出水ィ・・・・・・!」

出水の脳裏である記憶がフラッシュバックする。そもそも出水はこの宣誓文にいい思い出がなかった。防衛大在学中に、この宣誓文を暗唱しろと先輩から唐突に言われ、少しでも詰まれば「自衛官になる資格がないから退校しろ」と日頃なじられるための材料として使われるものでしかなかったからだ。

暗唱出来るようになったその後はその後で、手を変え品を変え先輩方の理不尽の捌け口となり続けたのだが、第一弾が服務の宣誓だっただけにその憎しみはなおさらだった。

そして、出水は高梨の言動から防大生時代に受けた理不尽の臭いをどことなく嗅ぎ取っていた。

事実、鷹取は聞き出すだけの手札を早くも失いかけていた。

一方で、この時小村は、ふと埴生の言葉を思い出していた。

「飲み過ぎたら水を飲んで吐かないと」。

咄嗟に浴室を覗く。怪訝な顔をする鷹取をよそに小村はつかつかと出水に詰め寄る。

「貴方には黙秘権がある。黙秘する能力も有れば、だけど」

「何を言ってる・・・・・・?」

後ろに回ると、小村は出水の両親指にさっとタイラップを掛けた。

「何をする?!」

「へし折りますよ」

暴れ出しそうになった出水を小村は咄嗟に親指を捻り沈黙させる。鷹取もやや呆気に取られたが、即座に状況に戻る。

「思い出したか?」

「なんのことかさっぱりですね!」

「・・・・・・そう」

無感情な声で小村は出水を立ち上がらせると指を捻り、浴室に誘導する。浴槽内はぬるくなった水で満たされたままだった。

肩ごと関節を決め、小村は出水の顔を水に漬ける。

30秒ほど経ったところで顔を引き上げる。

「思い出した?」

ごぼごぼと水と空気を吐きながら何かを言いかけた出水をもう一度沈める。

「情報を呑み過ぎたなら手伝いますよ、出水3尉」


それから。

どれくらい水に漬けただろうか。

がんがんと出水が浴槽を膝で叩き始めた。

「待て、待て!」

「思い出しましたか?」

「お、思い出した!だから、だから待て!」

「手短に願いますよ、出水3尉?」

げほごほとむせ、出水が呼吸を整える。

小村がタイラップを外すと、少し言いにくそうにしていたが「実は」と出水が話し始めた。

「ある風俗店に行ったら、プレイ中にいきなり拘束されて奥に連れて行かれた」

期待していたものと違う答えが返ってき始めたが、2人は先を促す。

「で、椅子に括り付けられたが、親分格の奴が俺を見て、「人違いだ」と。そして更に免許証まで確認して、「やはり人違いだ」と・・・・・・それから謝罪があった後に解放され・・・・・・」

答えに窮するが、何とか鷹取が口を開く。

「なぜ報告しなかった?」

「行った先は闇営業の店で、下手なことになっても困ると判断して・・・・・・」

もしやこの男は本当に情報漏洩に噛んでないのではないか?

そんな疑いが小村と鷹取に湧き上がり始める。目指す本題に到達しないが、ここですっぱり引き上げても不審だ。

「どうやってその店を知った?」

「その、業務上知り合った民間人に紹介されて・・・・・・」

「それは誰だ?」

「電力会社の社員で・・・・・・」

業務上知り合った電力会社の社員。担当は死体になった男の1人だけで、間違えようがない。思わず聞き返しそうになったが、鷹取はなんとか押し留めた。

「紹介券をその、社員から渡されて・・・・・・興味本位で行ったら危うく殺されるかと」

ここに至り、2人はようやく本丸が見え始めて来た。しかし、この出水は何も被害を被ることなく解放されている。

「ところで出水3尉。もう一度お尋ねしますが、これらの人物に見覚えは?」

ブリーフィングで貰った写真を再度出水に見せる。

「・・・・・・この男が・・・・・・その店にいました・・・・・・」

大使館の男を指し、出水は言う。

「そして、人違いだと言って解放したのもその男です」

粗方聞き出せたので小村は本題に取り掛かる。

「電力データは?」

「なんだって?」

「貴方が電力会社の社員と毎月1回計測してる電力データ」

「あのデータが一体?」

小村と鷹取は肩透かしを食う。

「・・・・・・いや、何でもない」

「もしかして、漏洩ってそのデータが?」

少し焦りすぎたか、と小村は自重する。

そこで、頃合いを見計らったかのように狼狽たそぶりの埴生が、ねえと出水を呼んだ。

「もしかして、余分なデータを印刷した?」

「・・・・・・余分かは分からんが、確かに、普段より多くデータを渡したことがあった」

小村と鷹取がぎょっとして埴生と出水を見る。

「「社内の会議用にもう一部必要になった」としか聞いていなかったが、まさかアレが・・・・・・?」

小村と鷹取はどうやら潮時らしいと判断する。

「・・・・・・出水3尉。貴方の関与の程度は分かりましたが、引き続き捜査を続行しますのでこの件は他言無用に願います」

出水が沈黙する。

埴生が出水に声をかけるが、出水はその誘いを断った。

「いや、いい・・・・・・今日は戻る、よ」

帰っても?と尋ねる出水に鷹取は好きにしろとだけ答える。

「アレが・・・・・・?しかし業務上・・・・・・」

ぶつぶつとなにごとかを呟きながら、とぼとぼとした足取りで出水が戸口に向かう。

「埴生3尉、貴女も・・・・・・」

「他言無用、ね。分かったわ・・・・・・」


がた、と音を立てて扉が閉まってから、小村は率直な疑問をぶつけることにした。

「・・・・・・知ってたの?」

「さあてね」

「いくらなんでも用意が周到過ぎると思うのだけど」

まさか、全てを知った上で水責めにかけろと誘導を?

だから小村はこの女は苦手なのだ。


「それより、状況をもう一度整理しましょうか」

詮索をやめて、埴生の言葉に2人は従うことにした。

「「真面目な男」なのに、件の社員は機密漏洩に関与?」

「どうにもつながりが見えないな」

借金もなく、生活上の問題もなく。妻帯者でないなら扶養の問題も養育費もない。中国大使館の書記官と何かしらの関係があったかもしれないが、少なくとも脅されているような状態ではない。

一方で、出水に裏風俗店のチケットを渡し、出水が脅され、しかし出水は特に何をされるでもなく解放され。

事態がより黒い方向に転がっていくのを自覚せざるを得ない。

社員は何を見返りに貰った?

その意図は?

「駄目だ、繋がらないな」

「一先ず大使館の行事を当たりましょうか」

埴生がノートパソコンを開く。

「今時は私物パソコン持つのも陸幕がうるさいのよね」

かたかたと操作しながら、珍しく本音らしい愚痴を埴生が漏らす。


「あった」

埴生が出した画面には中国人学校と中国大使館の交流行事が映し出されていた。画像自体は去年のものだったが、今年の分の日付は明朝の10時とある。

「これに潜り込もう」

「潜入は・・・・・・」

自然、埴生と鷹取の視線が小村に注がれる。

だが、潜入案に他ならぬ小村が待ったをかける。

「学生服もなくどうやって?」

「・・・・・・機材課に問い合わせよう」

「・・・・・・貴方たち、「よろず屋」を外部に作らなかったの?」

「いや、いるにはいるんだが・・・・・・」

機材課。本部お抱えのありとあらゆる工作機材を支給する部署で、揃わないものはないとされている。

だが。

いつもこの手の装備の支給は後手だ。

通常、新規の物件は申請書に従い要求品目から用途、要求理由を記入して提出する。申請書もフォーマット化されており、決裁が降りてからの支給自体はかなりスピーディーなのだが、ごく稀に例外があるとはいえ、基本的に決裁が降りるまでかなり時間がかかるため、綿密な工作計画に基づいて準備する場合ならまだしも、急ぎの任務で入り用になったところで申請して間に合うはずもない。

一応、「至急」の印を付すこともできるのだが、焼け石に水程度のものしか期待はできないのが現実だった。

そのため、大抵の場合外部の協力者から自腹での調達になる。よろず屋とはつまり、この協力者を指す。金払いは問題がないが、こうした事情から調達先には毎回苦労している。

任務後に「こういう用途で使用した」と報告書に書くと、それは成功例であるため爆速でその物件の有用性が本部に認められて、そして超スピードで予算が降りる。すると、以後は申請するとかなり早急にその物件は支給なりされるわけだが、報告書を提出してからということは、当然その物件が必要だった任務はとっくに終了している。

結果、最初の申請書の分の、時機を失した潜入道具が本部から送られてくることになる。無論、武器類などの以後の任務では申請から支給までのスピードを含め有効活用される機材も中にはあるが、被服や、用途が限定される特殊な道具などになると基本的に活用機会は稀で、大半の物資はそのまま倉庫で眠ることになる。実際、二度と日の目をみることのなさそうな物件が舘山の事務所の倉庫には転がっている。

小村たちの元締めには法律上の兼ね合いから各官公庁は一切噛んでいないのだが、仕事ぶりだけは日本のお役所対応らしいものがある。その辺の事情から工作員事情も読み取れる気がするのだが、正直なところ現実は直視したくないというのが小村たちの意見だった。


「「よろず屋」にも連絡は入れておく」

掃除屋に小村は依頼のメールを打つ。

条件は「中国人学校の女子制服一式を早朝便で上野駅」。

正直なところどちらにも期待は出来ない。

「・・・・・・第二案を考えようか」

「本案の間違いじゃ?」

特殊な被服を要しない、より現実味のある計画を頭を突っつき合わせて練り始める。しかしながら神の気まぐれか、時として奇跡は起きる。

そしてその神の気まぐれは一通のメールという形からもたらされた。

「?」

小村が着信したメールに目を通す。

「・・・・・・第一案を再検討しましょうか」

「あったのか?」

「事実は小説より奇なり、ね・・・・・・」

流石に埴生も驚きを隠しきれなかった。


それから。

「俺はバックアップ、小村が潜入だな」

「じゃ、私は明日朝には「埴生3尉」に戻るわ」

「ああ、また朝に」

大まかな流れを打ち合わせたところで鷹取が部屋に引き返した。

残された小村は必然として埴生の部屋で眠ることになる。

しかし。

ベッドは1つ、枕は2つ。

「・・・・・・同衾の趣味はないのだけれど」

「あら、私は趣味よ」

小村が沈黙する傍ら、明日も早いからと埴生が入眠を促す。

大人しくベッドに入った小村に、埴生の奇妙な寝物語が始まる。

「絵里ちゃん、高校出たらどうするの?」

「考えてないわ」

「自衛隊に興味は?」

「貴方の「人攫い」に加担するつもりは一切ないけど」

「私は人攫い記章なんて興味ないわ」

自衛官が知人に募集をかけることを俗に「人攫い」と呼称する。そして、一定人数以上を入隊させた人間の胸元には略綬が付き、その略綬は「人攫い記章」のあだ名を欲しいがままにしている。

「防衛省より公安調査庁なら考えてもみるけど」

「公安調査庁?」

怪訝な声を上げ、やめた方がいいわよと埴生が続ける。

「どうせ行くなら外事警察か幹部自衛官の警備対策官勤務ね」

「・・・・・・まるで経験したかのような口ぶりね」

「知り合いがいるから」

話の真偽はともかくとして少し興味をそそられた。

「仮に防衛省に行ったとして、勤務枠はあるのかしら」

「まあ、あることにはあるわねえ」

実態はある程度の階級になってからでなければ枠がない上、派出先は僻地が大半で、勤務早々から現地の環境の問題で腹を壊して仕事にならないことが往々にしてあるトンデモ勤務枠だった。小村には知る由もなかったが、一方の小村は小村で埴生の言葉は話半分、あるいは話三分程度にしか信用していなかったのでその実、あまり支障はなかった。


ここで唐突に、ところでと埴生が話題転換を促す。

「ねえ、知ってる?官舎って動物飼えないのよ」

「それがどうかしたのかしら」

「動物飼いたいのよね私。例えば小動物とか」

つう、と埴生の指が小村の身体をなぞる。その指を小村は両手で優しく握る。

「大人しく寝てるのと、指関節の可動域を90度延長した上で縛られて水風呂の底で一晩過ごすの、どっちが好み?」

「絵里ちゃん抱く方」

ゆっくりと、だが確実に自分の指に応力がかかり始めたところで埴生は小村の手から指を引き抜いた。

「お預け、ね」

お預けもなにも預けるような積りは一切ないのだが、下手に反応した方が負ける。そうして徐々に崩していくのがこの女のやり口なのだ。沈黙は金、である。

「やっぱりつれないのねえ。まあ、諦めた訳じゃないけど」

物騒な言葉が聞こえたが、全て無視する。とはいえ、これで本当に手を出してくるような人間でもない。工作員相手に信用というのも変な話だが、そこは心得ている。


だが。

やはりこの女は好きになれない。

埴生との付き合い方という答えのない疑問についてを考え続けながら、小村の意識は徐々に深みに落ちていった。

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