第6話

「あらあ、見ない内にすっかり綺麗になったわねえ・・・・・・」

「世間話のために来たんじゃないのだけれど」

先の電話から数時間後。陽の高い夕方を迎えた小村は埴生の勤務先の座間駐屯地前で落ち合った。そして埴生は、車で小村を文字通り回収し「世間話」を繰り広げるに至っている。

「それになんだか感情がどこか豊かになったんじゃないかしら・・・・・・恋でもした?」

「・・・・・・早く本題に入りたいんだけど」

埴生の車は、丁度一世代前くらいの安価な型落ち中古車で、幹部候補生学校卒業後の何かと金が入り用な時分に突然営外に放り出される上に、官舎から通う足が必要とされる初任幹部らしい選択かと言えば、確かにそうとも見えた。

「相変わらずつれないコト。でもやっぱり貴女どこか小動物みたいよね」

つつ、と埴生が小村の顎をなぞる。妙なくすぐったさを覚え、小村は目を細めた。

「あらキス顔?」

「殴られたいのかしら」

どうにも語気が荒くなるな、と小村は自覚する。だがこの女は、ニュートラルよりかは多少は突き放すような態度でもなければ自身を危険に晒すことになることを小村は経験で知っていた。兎に角油断ならない。なにしろこの女は、天才的なまでに人の弱みを握るのが早い。


そもそも埴生は来歴が少々特殊だった。養成所に来た頃、埴生は既に陸上自衛隊の幹部を任官していた。現職の幹部自衛官でありながら、養成所に通っていたのだ。

これが防衛省の指示だったのかは小村も知らないし、たとえ本人に聞いたところで正しい答えが帰ってこないのは火を見るより明らかである。故に、小村も敢えて尋ねずにいる。

「この業界に携わる人間は、「黒」か「限りなく白に近いグレー」しか存在しない」と、かつて教官に言われたことがあったが、その中で埴生は限りなく黒の極限にいる存在だと小村は認識していたし、今でもしている。だが、そんな存在を頼らざるを得ないのが現状だった。


養成所時代は、これからノウハウを学ぼうとする訓練生相手に容赦のない、それこそ防衛省で手ほどきを受けたのではないかと、あるいは防衛省、またはどこかの敵対組織が教育機関の壊滅を企図して送り込んだ刺客なのではないかと教官陣に疑われたほどの籠絡術を以って、同期の男どもの下心をくすぐった。

忙しく厳しいスケジュールで、余裕のないはずなのに彼女は同期たちの間を漂い続けた。それが天然なのだからなおタチが悪い。つまるところ、副次的に天才的なハニートラップの才能を有しているのだ。

弱みが有ればすぐに掴み、無ければ作る。

同期間の不和を招くより前に教育があり、手の内を学んだ同期たちがこの「生きた見本」を相手にやりこまれることはなくなったものの、その一歩手前まで行った惨状から人手不足も極まれりだと小村が思ったのは一度や二度ではなかった。


「さて、どこへ行こうかしら」

「秘密が極力守られて、尚且つ人目につきにくいか不自然でないところだとどこでも」

「あら、お誘いかしらぁ」

硬く握り締められ始めた小村の右拳をちらと視界に収めると埴生は、何事もなかったかの如く、それならと自身の官舎を候補として挙げた。ある程度は予想していたことで、小村はその提案に乗った。


「じゃ、行きましょう」

そう言ってアクセルを踏み始めるや、ふと思い出したように埴生が、あっと声を上げる。

「女子高生を家に上げるのって服務事故かしら」

「もういいから黙ってて」

半ば呆れながら小村は、最後に埴生と会ったときのことを思い出していた。

最後に会ったのは丁度一年ほど前。小村の請け負ったある任務で厄介になった。たまたま埴生の休暇と重なっており、助力を求めることに成功したのだった。

中々手強い任務だったが、その任務自体は達成に漕ぎ着けることができた。だがその過程で小村も危うく「弱み」を握られるところだった。自分にもないと思っていたところから弱みが顔を覗かせたような格好で、小村は改めてこの埴生という女の恐ろしさを再認識した次第だった。


一方、その任務の傍で雑談、というよりかは世間話の形で埴生から聞いた話は「下半身を介せば誰しも秘密はなくなる」というものだった。しっかり個人的な根拠に基づいたもので本人曰く、幹部候補生学校で「下半身ネットワーク」を構築した結果だそうで、ありとあらゆる情報が同期の下半身を経由して調達できたことからより確信を深めたとかなんとか。

問題はすべからく下半身で解決できる。下半身の前に秘密は用を成さない、とも言っていたような気がする。

なんの対処も知らないウブな初任幹部の候補生を相手に、あの工作員候補生すら踊らされた籠絡術が発揮されたと考えると、初任課程の間、彼女の周りにいた男たちはどんな地獄絵図を繰り広げる破目に陥ったのだろうか。あまり想像はしたくなかった。


そうしてあれこれと小村が考えている内に埴生の官舎の駐車場に着いた。車を止めると埴生は部屋への移動を促し、階段を登り始める。

埴生の部屋は三階にあった。

「なにもないけど、どうぞお」

家主が出てから12時間近く経った、促されるがままに入った官舎の部屋はひたすらに蒸し暑かった。


そして部屋に入ると、埴生が後ろ手に鍵をかけた。

「で、本題はなにかしら?」

「習志野で一件、保全上の案件」

居間に通された小村はテーブルに着く。

「案件は「中央」?」

「おそらく。ただ、かなり秘密裏に」

埴生が冷蔵庫から缶コーヒーと缶紅茶を一本ずつ取り出し、小村に両方を差し出す。小村が紅茶の方を手に取ると、少し残念そうな顔をしながら埴生は余った缶コーヒーのプルタブを開けた。小村も指をかけ、ぱきっ、とプルタブを開けた。冷たい、やや甘ったるい紅茶が小村の喉を流れる。

「詳しく聞こうかしら」

そこで小村は事のあらましを話した。保安員の死と、その保安員が持っていたらしきデータ、そしてその死に際して発見された疑わしい薬瓶。


「訓練資材の整備担当が何か知っていると目しているのだけど」

「習志野、ね?」

す、と埴生が一口缶コーヒーに口をつける。それは前に会ったときよりも更に洗練された妙に色っぽい動作で、なるほどこれは世の男が気を引かれるわけだ、と小村は一人納得する。

「実はねえ、幹校同期が一人習志野にいるのよお」

この同期とやらが今、初任の下っ端幹部だけに雑用として任されている、とは埴生が語るところ。

「その一環として、部外の人間との都合をつけたり、というのがあるのよ」

「橋渡し、ということね」

そこまで話すと、埴生はおもむろに電話に向かい受話器を取り上げる。

迷うことなくボタンを指が滑った。

少しすると、久しぶりねえ、と埴生が会話を始めた。

「ねえ、どうかしら、今夜・・・・・・三連休前だけど空いてるの。分からない?」

それから更に会話を続ける。


どうせこの後も任務のために動く。埴生に着いていけばおそらく何かしらの端緒は得られるだろう、と小村は埴生とその同期らしい人間の会話への意識を傾けながら、埴生の部屋を観察する。なにもない、と本人が語った通り、生活できる最低限のものプラスアルファ程度のものしか部屋にはなく、それは殺風景とも言えた。

寝室は奥にあるようで、あるいはここに本人の趣向が凝らしてあるのではないかとも思えたが、小村にとっては今一つ興味が出ないし、むしろ入らない方がいい気がした。


数分会話を重ねると、じゃあよろしくと言って埴生が電話を切った。

「目的地は上野。時間は21時」

「戦法は?」

「直球勝負」

「・・・・・・ああ」

意図を察した小村はそこで納得する。

その様子を見た埴生が、そういえば、と不意に話題を転換する。

「夕食のあてはあるのかしら?」

「今後の行動次第」

素っ気なく答える。

だが埴生は大げさに驚く素振りをする。

「だめよぉ、腹が減ってはなんとやら、よ?」

「飢餓訓練は受けてるはずだけど」

正論を吐いたつもりで、小村はそれから自分の落ち度に気が付いた。必要以上に大げさに言葉を返してしまっている。

「不必要に厳しい状況に身を落とす必要はないわよ」

正直、小村としては、この女とは1秒でも長く会話をしたくない。出来れば後ほど合流という選択肢を取りたいのだが、この状況では説得力がある埴生の言葉に断る根拠が見当たらない。


逡巡する小村を見て埴生は、決まりね、と微笑む。

「どこがいい?一応陸軍将校なんだからどこでもいいわよ」

瞬間、「ただより高いものはない」という言葉が小村の脳裏をよぎる。

が、この女の前では借りの有無なんぞ無意味だとは小村もよく知っている。

がらん、と空き缶入れに使われているゴミ箱に、小村は空になった紅茶缶を投げ入れた。

「貴女に一任したわ。その辺の土地勘はないもの」

「お任せあれ〜」

がちゃりと鍵を開け、再び二人は夕日の照らす灼熱の世界に出て行く。


型落ち中古車の前まで来ると、助手席側に埴生が小村を促す。

「サウナ埴生へ、ようこそ〜」

ほんの数分前まで乗っていたはずの埴生の車からは、先程までかけていた冷房の空気は既に彼方に消えていた。黒色の内装が持つ夏場特有の熱気がドアを開けるやいなや2人に襲いかかる。

キーを差し、エンジンをかけると、スイッチが入りっぱなしのエアコンが急速に運転を再開する。

油断すると脳と髄液が沸騰するのではないかと錯覚するくらいの熱を抱えたまま、型落ち中古車は駐車場を出た。


「事態としてはどう踏んでるの?」

「個人でどうこう、というようなネタじゃない。おそらく裏で糸を引いてるのがいるはず」

「そもそも、そうそうコピーが作れるようなデータじゃないものねえ」

つまりは、何か裏で報酬のやり取りが彼の元に届いていたはず、というところまで小村は踏んでいた。

「まずはその線を当たる、ということね?」

そしてそれは埴生も考えを一にしていた。

「で、どこで落ち合うの?」

埴生はその質問に、とあるホテルの名前を挙げたが、土地勘のない小村には分からなかった。


赤信号に差し掛かり、埴生が緩やかに車を止める。

「そういえば私が「ネットワーク」を構築した時の話だけど」

埴生が唐突に話題を変える。

「入隊前に梅毒血清反応だってするし、特に教育部門では性病持ちはまずいないとみていいのよ」

いたら問題になるしね、とうそぶく。

「準軍事組織として、感染症の予防に努めるのは当然だけど教育隊ほど下半身の籠絡に向いてる組織もないわよ」

尤も、と断りを入れた上で、部隊はまた話が変わってくるけど、と青に変わった信号に応えるように、これまたゆっくりとアクセルを踏みながら埴生は続けた。


「で、今のところどんな具合なの?」

「経理に探りを入れてるけど、中々のものよお。どこへ行っても地元業者との癒着具合は面白いくらい」

よく分からない領収書をどれだけ見てきたかしらと埴生は続ける。

「私にそれを伝えて、何を企んでるのかしら?」

「あら、これは世間話。個人的な興味よ」

見返りを求める類ではない、と言っているのだが小村は今一つ信用していない。

「・・・・・・倫理規程とかはないのかしら」

「お役所だから勿論あるわよお。実態はどうあれ、建前は大切だもの」

規定はこの世に数あれ、人の倫理観に基づいて運用されているものは、「そこにある」ことが第一義で、実態は二の次。存在していることこそが大事なものなのだ。

「中々面白いけど、私は遠巻きに見るだけ。何かあったら尻尾切りに使えそうな証拠を抑えてるけどね」

尻尾切り。

さらに上に誰か雇い主がいるらしいような発言だが、「個人的な興味」と本人が語ったばかりだ。

仮に雇われていたら、雇い主が存在することを言う時点で「口の軽い奴」になってしまう。だが、本当に雇い主がいて、この矛盾をわざと作って深読みさせるのが目的だったら?

埴生の場合はとにかく謎が多いが、個人の気まぐれで何をしてもそれはそれでおかしくはない。


ただ、と少し異なる口調で埴生は続ける。

「やっぱり気になる子はいてね。生徒出身の3曹なんだけど、中々身持ちの堅い子でねえ・・・・・・」

堕としたいわあ、とどこか遠い目をしながら彼女は語る。もしもこれが彼女なりの恋なのだとしたら、一体前世でどれほどの所業を成せばここまで捻くれた心理が生まれるのか、小村には見当もつかなかった。


再び赤信号に差し掛かり、車は緩やかに速度を落とす。小村はふと、視線を遠くに投げた。ぼんやりと街行く、三連休前に浮き足立つ世間を尻目に作戦を練る。

「今から落ち合う相手は現職なのよね?」

「そうよお?」

念押しするように確認する小村の、熱に浮かされた、どことなく浮ついた空気の街並みを眺める目つきに鋭いものを感じた埴生が口を開く。

「・・・・・・貴女がそんな顔するときって大抵ロクなこと考えてないわよねえ」

事実、小村は後遺症を残す尋問法を選択肢から外していたところだった。


小村から目を離すと埴生は、何気なく横断歩道を歩く仕事上がりらしいサラリーマンの一団を目で追った。日没を控えた街並みは、やはりまだじりじりと熱気を帯びていた。

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