第2話
曇った眼鏡のレンズ越しに見ると、壁に掛けられた温度計の針は36℃で不動の姿勢を取っており、その脇に付いた湿度計も65%から頑なに動こうとしていない。うだるような暑さの中、それこそ校庭でやればいいのにわざわざ蒸し暑い体育館で終業式を実施する意図は分からない。
若い分、体力だけでカバーしている生徒よりも先に教師の方が熱中症でぶっ倒れる辺り、全く危機管理がなっていないと彼女は考える。尤も、その管理能力の低さのお陰で校内は合法非合法を問わず、活動しやすくて助かっているが。
今なんとかかんとか実施されている終業式さえ終わってしまうと、彼女、小村絵里は何の部活動にも所属していないので、このままだと1ヶ月近く登校することはない。
だが、彼女は高校生という表向きの職業を持つ傍らで、工作員という二つ目の肩書きを持っている。兼業人間である以上、高校生ライフが休暇に突入したからといって、工作員稼業が休暇に突入するわけではない。
学校内での活動はしにくくなるものの、今度はそれ以外の仕事が舞い込んでくることは想像に難くない。
人手不足はどの業界でも死活問題なのだ。
退屈な、中身のない校長の話を聞くだけでことは終わる。
「受験生諸君は、勝負の時期です。夏こそ身の振り方と将来を考え、熱意を、熱意を充分に持って・・・・・・以って自らの未来を、将来を切り拓くことを願って、私は、やまない」
全身から噴き出した、不快なじっとりとした汗が制服と皮膚を貼り合わせる。地球上の大抵の動物には発汗機能がない。つまり熱中症になる前に気温がそのまま生命に直結する。
幸いなことに発汗機能を人間は有しており、熱に対する耐久性が哺乳類の、ひいては動物の中でかなり強い方に分類される。その発汗機能が無ければ人間は熱にほとんど耐えられないとされている。
しかし、そもそも発汗によって体温の冷却が必要な環境下に置かれること自体が生命体としてはあってはならない事態の一つであることを大半の人間は長らく忘れている。
小村はどちらかと言えばその事実を知っている側の人間である。だがこの状況では、教育者側が知らないか、忘れているかのどちらかであり、小村としては対処の用がないのもまた事実だった。
ただただ長い、中身のない校長の講話が終わると、その後は各級ごと教室への移動となった。
一斉解散の指示を出すと、体育館を我先にと出ようとし生徒同士がいらん怪我をすることは目に見えている。
指示に従い、端の方から徐々に退出していく。
割りを食うのは最後の方の組だ。
人が減ってはいくものの、蒸し風呂状態の体育館にいつまでも入れられることになる。
教室に戻るとおもむろに各々が着席する。
担任が荷物持ち係を買って出た委員長の生徒を引き連れ、教室に入ると成績表の配布が行われた。
周りが数字に一喜一憂しているのを見ると、小村はこの世は精巧にプログラミングされた作り物の世界なのではないか、とさえときに思う。
勿論そんなはずはなく、コンピュータプログラミングに数字を使用しているのは分かりやすい表記法だからというだけに過ぎない。
単なる現実逃避の一つと、意味のない思考の遊びの要素が半分ずつ。小村のぼんやりした考えを他所に時計は進む。
もうじき昼前だった。
「あー、この後から夏季休暇になるな。自由を満喫するのは勝手だが、だからといって羽目を外しすぎることはないように」
定型文とも言える、紋切り型の注意を担任が促す。
「再三になるが、とにかく事故に、特に水辺の事故に気を付けてまた休み明けに顔を出してくれな」
担任がそう言って締めると、日直が教務終わりの号令をかける。
斉一に礼をすると、解散指示が出された。三々五々周りでは話し込む者あれば休み中の補習に頭を抱える者、早々と教室を立ち去る者もある。
コンビニアイスを賭けて成績を競い合う男子の一団や、この後の予定を確認するために何事かを話している女子のグループらを尻目に、一方の小村はカバンを片手に教室からさっさと立ち去る。
通路を歩く大半の生徒が校門に向かう中、1人てくてくと用務員室に向かう。そして落し物箱に赤いバインダーがあるのを見ると、すっと手に取り歩き去る。確認してみると、殴り書きしたような字で浜渡浩満の名前が表紙にある。間違いなく目当てのものだ。
中を開くと図書室の貸本カードが挟まっている。
「夏休みも満足にくれないのね」
誰ともなく独り言を発すると、そのまま図書室に向かう。
図書室という空間は周囲の熱気と湿気とは無縁である。
紙の書籍という、とみに湿気に弱い物件が所狭しと並んでいるため、空調という保全措置としてはこれ以上にない装置を存分に活用せざるを得ない。
副産物として、書籍が享受している恩恵を図書委員を始め、図書室利用者もまとめて受けることが出来るというものがある。
書籍の保全か、利用者の保護か。最悪の場合、書籍が優先されることは部屋の目的上、明白だと思われるが、はたしてどちらが目的になっているかは分からない。
とにかく居心地のいい快適な室温と湿度に保たれている。
図書カードの本は、貸し出し禁止の専門書コーナーにあった。
貸本カードの本を見つけると、おもむろに開く。
「暑いねえ」
本棚の向こうから声が聞こえる。
「まあ、熱意を充分に持ってますから」
「・・・・・・本題だけど」
よく見知った人間の声だ。
「珍しいのね」
部活動に励む生徒の声がグラウンドから響く。
「一応知らせておこうかと思ってね」
「・・・・・・」
本棚の向こうにいる人間は本棚の埃を払いながら話を続ける。
「昨日の夜なんだけど、電力会社の社員が心臓麻痺で社員寮の自室で亡くなってね」
協力者から任務付与や、あるいは何かしらの状況報告を受けることはある。
だが、今までこの知人からその手の話が出たことはごく稀で、こうして接触してきてわざわざ話をする、というのはもっと珍しかった。
「夜勤の当直に上番してこないから不思議に思った上司が部屋に行ったら風呂場でご臨終だったわけ」
小村はふと昔の任務を思い出していた。
かなり前だが、対象に接触しようとしたら相手が死んでいたことがあった。夏の風呂場の死体、という地獄絵図を目の当たりにしたのはその時が初めてだったが、それからしばらく汁物が飲めなくなった苦い思い出がある。
「で、あなたはその事後処理で駆り出された、と」
ご精が出ますのねと続けた小村に、給料貰ってるからね、と掃除屋が一言挟む。
「ただ、彼の場合少々事情がありそうでね。どうにも部屋に同業者が入った跡らしいものがあったんだ」
もちろん君の方のだよと掃除屋は付け加える。接触を取ってきた意図はこれで小村にも理解できた。
「警察の皆様は気が付いていらっしゃらないご様子でしたけど、まあ、あんなもの普通は見ることがないから無理もないね」
「「あんなもの」?」
「「他殺薬」だよ」
小村が小さく反応する。
「他殺薬」は心臓発作あたりの自然死に見せかけるための薬品だ。
「他殺薬」とは勿論俗称で、正式な名前は別にあるが、その効能が俗称の由来である。
通常、暗殺によく使われるものだが、逆に言えば自然死に見える現場にこれが残っているということは、飲むように仕向けられたか、気が付くだけの知識がない暗殺者に追い詰められ、証拠残しのためにわざわざ本人が飲んだかの二択になる。
暗殺者が何かしらのメッセージを残すためにわざと置いていった可能性もあるが、限りなく低い。
勿論、本当にただの心臓発作を起こしただけという可能性もある。
だが、その薬瓶が存在するだけで不審度は格段に上がる。
一見すればただの風邪薬の瓶。しかし、見る人間が見れば一目で分かる、到底表の世界に出ることはない一品。それが「他殺薬」だ。
「ただの社員さんならそんなキナ臭いものが部屋にある筈はないし、きっと近い内に何かあるよ」
「・・・・・・ありがとう。学生らしく夏休みを満喫させてもらうわ」
専門書を閉じ、図書室を出た。
こういう時、小村の携帯電話にはメールマガジンがよく届く。任務付与を知らせるカバーのための、存在しない企業の存在しないメールマガジンが。
しかし、玄関口に向かう最中、小村の予想に反して何も届く気配はない。
もしや掃除屋の早合点だろうか。
仮にそうだとしたら限りなく有難い。
そして靴箱を開ける。
「・・・・・・回りくどいことをするのね」
この世には何も有難いことなど本当は存在しないのではないだろうか、と小村は現世を呪う。
メールは来なかった。その代わりに、小村の靴箱に一通の手紙が届けられていた。
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